これはネット上でたまたま見つけた論文の感想である。
作者のピエール・デュピュイはわたしの知るかぎり、ルネ・ジラールの思想を発展的に継承している面白い学者である。この論文は短いもので、彼が以前書いた論文の焼き直し的なところがあるが、それでもいくつか注目すべきアイデアを含んでいる。
まずタイトルにある「自己解体」だが、これはデリダのディコンストラクション「解体批評」に対する用語である。デリダの解体は、哲学のテキストを批評家が解体する。たとえば話し言葉と書き言葉の対においては、話し言葉が優位に立つ、といった論旨のテキストがあったとしよう。解体批評はその論旨を細密に追うことによってまったく反対の議論がそこに含まれていることを示す。これは1960年代、70年代に大きな衝撃を与えた読解だった。古典物理の世界に慣れ親しんでいた学者が、量子力学という古典物理が成立しない世界を知ったときのような驚きを与えてくれた。
しかしデュピュイは批評家が「外から」解体批評を行うよりも先にまずテキスト自体がみずからを切り崩すような論理を内に含んでいるのだと考える。それが「自己解体」だ。わたしもこれにはまったく賛成である。テキストは表面的に理解される論旨とは異なる論旨をもともと含んでいる。批評家はもともと含まれている「異なる論旨」を慎重な手つきで取り出すだけである。テキストの外部からの介入により暴力的に「異なる論旨」をつくりだすのではない。
もう一度繰り返すと、表面的なレベルで読むなら、Aという原理がBという原理の優位に立っている、というテキストがあるとする。批評家はその論旨に含まれる、まったく逆の論理を掬いだしてみせる。つまりテキストは(表面的ではなく、深層的な)別のレベルも含んでおり、その別のレベルにおいてはBという原理がAという原理の優位に立っている、ということを示すのだ。この一筋縄ではいかない論理構造をデュピュイは「からまったヒエラルヒー」と呼んでいる。しかもテキストの(表面上の)論旨はこの「別のレベル」がなければ成立しないのである。
このことをデュピュイはアダム・スミスの sympathy と envy の対立、ジョン・ロールズの justice と utilitarianism の対立をめぐって論証してみせる。しかしこの部分は彼が別の論文で説いていることだから紹介しない。
デュピュイはさらに解体批評はカーニヴァル的な騒ぎにすぎないと言う。カーニヴァルは日常の秩序が反転する世界を現出するが、それは先ほど言った「別のレベル」と同じものである。そして社会システムはカーニヴァルによって一時的・儀式的に顛倒させられるが、しかし壊されることはない。解体批評もそれとまったくおなじ、制御された哲学的お祭りにすぎないというのだ。つまり本質的な社会システム批判たりえていない。
わたしはもともとデリダの解体批評を、自己解体を暴いたものとして読んでいた。デュピュイのようにテキストの外から工作をほどこし、テキスト自身を矛盾に導くものとは考えていなかった。だから彼の「解体批評=カーニヴァル」という批判の仕方には違和感を感じる。しかしわたしはデリダは読んでいても他の学者がそれをどう受容したのかはよく知らない。デュピュイの批判はデリダのエピゴーネンたちに対するものなのかも知れない。
ただ自己解体という概念は重要で、表題にもある自由主義秩序(liberal order)への大切な批判となっている。リベラリズムは理性的社会を目指すが、自己解体的に考えれば、それは別のレベルの議論を内包している。つまり非理性が理性的なものの優位に立っているレベルである。このレベルを抑圧してリベラリズムは成立しているわけだ。わたしは日本のリベラル勢力が世界における新しい理論展開にうとく、ナイーブな議論をしていることにいささか失望している。すくなくとも知識人くらいはこのくらいの認識をもって欲しいものだ。
また、自己解体は文学研究にとっても大切な概念だ。哲学的・学術的テキストにかぎらず、文学的テキストも表面的なレベルだけでなく、表面的なレベルを成立させる別の(抑圧された、あるいは、みずから正体を隠している)レベルを内包しているのだ。これはごく普通の小説や娯楽映画においても見られる二重性である。このことについてはまだ研究が進んでいないと思う。
