文学作品が政治的カタスロフィの予兆になりうることは知られている。たとえば人種的な対立から一方が他方の殲滅へと進展する場合、最終段階へ踏み入る前に、その準備をととのえるものとして、プロパガンダ的な詩や小説が書かれるのである。プロパガンダの浸透には時間がかかるから文学の傾向を注意深く見ている人なら政治的カタストロフィを数年前に予知することができる。とりわけわたしがよく読むジャンル小説は、いい意味でも悪い意味でも、この手のプロパガンダに敏感に反応するものである。
さて、ドイツではこうした現象の研究が三年前から軍の主導により進行しているらしい。軍は、文学作品から紛争や戦争の予兆を読み取れないかと考えたのだ。このほどこの研究の有用性が認められ、継続的に研究が進められることになったと言う。(ガーディアン紙 'At first I thought, this is crazy': the real-life plan to use novels to predict the next war)
軍の依頼を受けて文学研究者がプロジェクト・チームを結成し、海外の文学の動向から戦争や紛争の起きる可能性を予知するわけだが、これがなかなか的確なのだ。たとえばアゼルバイジャンが反アルメニア的な詩や小説を図書館に納入させたとき、この地域に近く紛争が起きることをプロジェクト・チームは予告できた。もっともこの紛争が起きたときドイツは傍観者を決め込むしかなかった。紛争への対処の方法はまた別問題なのだ。しかし紛争が起きるということは確かに予知できた。
カッサンドラと命名されたこのプロジェクトを取材したガーディアンの長文記事を読むと、さまざまな思いが心の中に湧きあがってくる。
まず一つ目は文学研究が軍事と結びつくことの問題。これは日本の大学でも議論を呼んでいるから説明の必要はないだろう。では、ドイツでは問題にならなかったのか、というと、じつはまるで問題にならなかったらしい。このプロジェクトが発足したとき、メディアは軍事と文学というあまりにも大胆で突飛な結びつきに、あきれかえっただけらしい。そしてこんなプロジェクトが実を結ぶわけがないと高を括っていたようだ。ところが意外な有用性が証明され、見くびっていた人々は慌てふためき、まさか軍産学複合体に組み込まれると思っていなかった文学者・研究者も今後はこの問題に向き合わなければならない事態となってしまった。わたしは軍事と結びつくことによって文学の一面(すでに知られていた一面)が強調されることになるだろうけれど、とくに新しいなにかが出て来るとは思っていない。しかし作家や研究者が「軍事と文学」という問題にどう反応するかは興味をもって見守りたい。
二つ目に思ったのはドイツ軍の優秀さである。このプロジェクトは文学研究者の発案ではない。軍部の要請によって発足したものだ。いったいそんなことを考えついた天才は誰だと思ったが、それは記事には書かれていない。たぶん機密に属することなのだろう。たしかに軍隊や秘密諜報部が作家の想像力に着目したことはエピソードとしてさまざま残っているが、文学を組織的に軍事利用しようとした例はないはずだ。ドイツ軍のレベルの高さを物語る事例であり、本を読まず、学問を理解しない指導者が跋扈する国ではありえないことだと思う。
三つ目に思ったのは、プロジェクト・チームが文学テキストを扱うその方法である。詳しくは記事を読んでもらうしかないが、プロジェクト・チームがどのようにテキストに向かうか、その方法を決めるにあたっては紆余曲折があったようだ。彼らは知らない言語で書かれた本も大量に読まなければならないのだが、こんなことはできるわけがない。そこで本をデジタル化し、特定の主題に関してどのような「感情的」語彙が使われているか、調べようとしたのだが、これだとアイロニーだとかメタファーだとか曖昧さが排除されてしまう。そこで彼らは作品をめぐってなにが起きたかを調べることに方向転換した。作品は文学賞を取ったか、それはどんな賞なのか、発禁となったか、作者は国を離れざるをえなくなったか。そうしたことを調べるようになったのだ。それによって政治の情勢が判断できるというのである。たとえばクウェートでは2010年以降、少数民族で無国籍状態のビドゥーンを描いた小説は発禁措置となった。プロジェクト・チームはこれをビドゥーンに対する迫害が起きる兆候と判断したのだが、実際2019年に弾圧が起きた。
文学は現実逃避だとか、閑文字といった言葉で侮蔑的に扱われることがあるけれど、じつはそれが政治情勢、あるいは科学を含めた知の状況と深く連動していることは、一般の人にはあまり知られていない。それまで注目されていなかった作家が突然世界的名声を得たり、ある時期から特定の研究が学会を席巻したりといった現象は、社会的・政治的現象としてとらえられなければならないし、実際、そうした研究もたくさんあるのだ。しかしそうした文献は博士論文を書くような人でなければ知らないだろう。今回のプロジェクト・カッサンドラは、そうした側面を世間に知らしめる効果が、もしかしたら、あるかもしれない。
しかし文学テキストの政治性は、テキスト外の現象によって測れるものではない。テキストという奇々怪々なモノは、見えない部分において強烈な政治性を持つことがある。そういうテキストの不思議さは、まだまだ研究が足りないし、一般の人にむかって啓発もされていない。