Thursday, May 23, 2024

エラリー・クイーン「アメリカ銃の秘密」

 


このブログでは既訳のない作品を紹介するようにしているのだが、最近は歳のせいか、むかし読んだ作品を読み返すことが多くなった。去年の年の瀬から今年の正月にかけて蔵書を整理したのだが、そのとき懐かしさのあまり何度か作業を中断して何十年も前に読んだ本に読みふけったりした。他の人はどうか知らないが、わたしはよほど印象が鮮烈でないかぎり、ミステリ作品はだいたい筋を忘れてしまう。普通の小説は最初の何ページかを読むと、「これは読んだな」とはっきり思い出すのだが、ミステリの場合は完全に忘れてしまうことが多い。解決編を読んでも、思い出さないのだから、われながらあきれる。

クイーンのミステリ作品はすべて読んだはずだ。クイーン名義だが、じつは他の人が書いた作品、というのもあるが、中学から高校にかけて、それもクイーンの作品だと思って読み尽くした。ペーパーバックには親切な「解説」などついていない。背表紙にエラリー・クイーンと書いてあるからクイーンの作品だと思いこんでしまったのだ。

しかし夢中になって読んだクイーンもほとんど忘れているようだ。「アメリカ銃の秘密」ははじめて読んだも同然である。ただ凶器である銃を探して二万人の身体検査をしたという部分だけ、なんとなく記憶に残っていたが。

読後感は、と問われれば……。なにか変な感じがする。以下、ネタばれも含むがこの「変な感じ」を説明しよう。探偵役のエラリーはズボンのベルトをめぐってなかなか興味深い推理を展開している。それはベルトを使う人なら誰でも経験する、日常的リアリズムにあふれた、ある事実である。それ自体をみれば、ベルトを巡るこの推理に文句をつけるところはない。

また銃の握りに関する推理も日常的なリアリズムにあふれている。銃を使う人は日本にはあまりいないだろうけれど、指がよく触れる部分が変色するという現象はなんらかの形で見知っているはずで、充分に推測がはたらくだろう。この推理もそれ自体としては、どこにもおかしなところはない。

しかし一方にこのようなリアリズムがありつつ、他方にそのリアリズムの欠如が見られたとしたらどうだろう。殺人現場はロデオショーが行われるスタジアムで、ショーのあいだにロデオショーのスターが拳銃で殺されるのだが、スタジアムには二万人の観客がいたのである。その観客が誰一人として、犯人の不審な動き(一人だけ二丁拳銃を用い、犯行後、そのうちの一丁を馬の口に隠す)に気づかないというのは、日常的なリアリズムに反するのではないか。

同様に警察が銃弾の入射角を間違えるというのも信じられない。一九三〇年代といえども、被害者が被弾したときの姿勢を考慮に入れるというのは、捜査のイロハだっただろう。また、馬は訓練すれば、口の中に入れたものをいつまでも吐き出さなくなる、という部分も、日常的リアリズムからは信じがたい。エラリーはやたらできることを力説するが、その力のこめようは、逆にそのありえなさを自覚しており、それを無理やり隠そうとしているのではないか、という疑惑を生むていのものである。曲芸のできる馬らしいが、いったいどんな曲芸で口の中のものを吐き出さずにいる訓練が必要になるのか。

犯行の動機が最後まで明確にされない点は、わたしはさほど気にならない。一人の女性の出自がゆすりのネタになっていたとしたのなら、それを露骨にあばくのは悪趣味だと感じる。それはよい。しかし日常的リアリズムが守られたり守られなかったりと、ちぐはぐなのは気になる。いったいどんな原理がこの作品を支配しているのか、わからなくなるからだ。文章もほかの作品より紋切り型の表現を多用してはいないだろうか。

ロバート・エドモンド・オルター「野蛮への道」

  ロバート・エドモンド・オルターは1925年、サンフランシスコに生まれ、なんと65年に亡くなってしまった短命のパルプ作家。児童文学、歴史小説、ノワール風のミステリなどいろいろなジャンルに手を染めたが、「野蛮への道」は死後出版されたSFである。戦争に至った詳しい記述はいっさいない...