十一月の第三木曜日、今年は二十日だが、この日は世界哲学デーである。というわけで今日は哲学書を扱う。東浩紀の「存在論的、郵便的」。じつは「批評空間」という雑誌に出ていた分は昔読んでいたのだが、本になったものは今回はじめて見た。
ラカンの精神分析を否定神学ととらえ、デリダはそれに対抗する形で郵便的な思考を展開させた、というのが大掴みな内容である。20代前半の若さで難解な哲学書をよくここまで読みこなしたものだと感心するが、しかし発表されて三十年も経つとさすがに古さや間違いも明確になってくる。
東はラカンの「手紙は必ず宛先に届く」という言葉から、ラカンは理想的な郵便制度を前提にしている、と考える。デリダは「手紙は宛先に届かないこともありうる」と、確率論的な郵便制度、不完全な郵便制度を前提にしているというわけだ。しかしラカンのような思考を展開する人間が理想的ななにかを前提にするなどということがあるだろうか。
ラカンが「手紙は必ず宛先に届く」というとき、この言葉にはある種の皮肉がこめられている。じつは手紙はどこに届くかわからない。しかし「偶然」どこかに届くと、「事後的に」手紙は届くべきところに届いたとみなされてしまう、という意味なのである。
わかりやすい例をあげると、たとえば恋愛。男と女の出会いなどというものは、まったくの偶然に左右される。ところが二人の間に愛が成立すると、二人の出会いは「運命的であった」とか、「二人は赤い糸で結ばれていた」などと思われてくる。まさにこの事態をラカンは「手紙は必ず宛先に届く」と言ったのである。よく「歴史の必然」などというが、これも同様である。Aが起きたからといって必ずBが生起するわけではない。その間にどんなことが生じてCが生起するかもわからない。しかしBが生起したあと、人間の目にはまるでAからBへの移行は必然のように見えてしまう。このような事後性を東は見落としている。
男と女が幸せに結婚しても、ふとしたことがきっかけになって別れてしまうことだってある。そのとき二人は「運命的な」出会いも、「赤い糸」もまやかしであったと理解するだろう。相手の気持をよくわかっているつもりだったが、じつはなにも知らなかったことに気づくだろう。すなわち正しく宛先に届いたと思っていた手紙は、じつは狸の葉っぱであったと理解するのだ。ラカンの哲学のなかに郵便制度があるとしたら、彼はこんな制度を考えていたのである。それは理想的な制度とはかけはなれている。(さらにこの制度の不完全性こそが完全性への条件になるというパラドックスもラカンの重要な論点なのだが、ここは省略する)
もうひとつ東の本を読んで物足りなく思ったのは、デリダの後期の著作を十分に読み込んでいないという点である。テキストの混沌に深く身を沈め、しかしながらそこにある種の規則や論理性を見出し、ふたたび浮上することに成功した者の、明晰な視線がない。アカデミックな世界に浮遊する決まり文句を巧みに取捨選択して構築したような感じが、この本のすべてとはもちろん言わないが、どことなくする。しかし膨大な情報を整理する能力は、たしかにそれだけで大きな価値を持つのだろうけど。