Sunday, December 30, 2018

著作権保護期間

日本の著作権(ここでは書籍の著作権に話を限る)の保護期間が現行の五十年から七十年に変更されることはもう決定されたといっていい。カナダも同様である。カナダにはグーテンバーグやフェイド・ペイジというすばらしいサイトがあって、精力的に電子テキストを出しているが、パブリック・ドメインには意外な宝石がいくつも隠れているのだから、冬の期間が始まったなどと思わずに、これからも活動を力強く継続して欲しいと思う。知性というのは低い声で、しかし執拗にささやきつづけるものなのだ。

ひとつだけ、保護期間延長反対派にいいたいことがある。保護期間が延びると作品が死蔵されるなどという意見があるけれど、それは議論のための議論で、わたしなどは、なにを心にも無いことをいっているのか、と怒鳴りたくなる。わたしは知られていない作家や、有名な作家でも知られていない作品を一生懸命探し出してきて読む人間だが、わたしのような酔狂は滅多にいない。ほとんどの人は名の知られた作家、名の知られた作品しか読まないのである。日本人にいたっては読書する人じたいがいなくなっているのだから、もともと話にならないのだけれど。

保護期間が短くたって、興味を持たれなければ作品は死蔵する。逆に保護期間が長くたって、活字文化への興味が大きければマイナーな作品にも光があてられるようになる。わたしが読書少年であったころはそうしたことがよくあった。尾崎翠なんかはいい例である。しかし今の日本ではもうそんなことは起きないだろう。知の領域はすっかり独立性を失い、商業化されてしまっているから。

知の力が世界的に衰退しているという事実を、著作権保護期間の延長は物語っているように思えてならない。

Saturday, December 29, 2018

年の初めは華やかに

来年正月二日に開催される全日本プロレスの試合の組み合わせが出ていた。新年を迎えるにふさわしい豪華な内容である。

まず新人二人がタッグを組んで青木・佐藤組に対峙する。結果はもちろん見えているけれど、ベテラン二人がどれだけ若手の技倆と本気を引き出してくれるか、また青柳と田村がどれだけ新鮮な風を全日本にもたらしてくれるか、楽しみである。

秋山、丸山、鈴木鼓太郎のチームが、渕、西村、TAJIRI を相手に戦う試合もあるが、この日はお祭り色の濃い興業なので、大いに雰囲気を盛り上がりそうだ。もしかしたら試合の前に六選手がお年玉でもばらまくのじゃないだろうか。

ジュニアヘビー級選手権試合の岩本対岡田戦も結果がある程度見えているが、しかし岡田もいつのまにか後輩を三人持つ身になったので、岩本にひっかき傷もつけられずに敗退したらメンツが立たないだろう。また今までは青木や佐藤がジュニアヘビーのトップにいたが、そのあとを狙う若い有力選手が残念ながら岩本しかいない現状では、岡田に大奮起を期待せざるをえない。W-1の近藤が言っていた通り、岡田が一線に飛び出してきたとき全日本のジュニアヘビーは変わると思う。

世界タッグ選手権、諏訪魔、石川組対ドーリング、ジェイムズ組は豪勢な大玉の打ち上げ花火みたいなもので、どっちが勝つにしろ、一年の初めの景気づけにはもってこいである。いつも思うのだが、ジェイムズはまだまだ遠慮しながら戦っている。ハンセンやブロディみたいにリングの上を我が物顔にのして、雄叫びをあげてよいのである。ファンは無類に強い外国人レスラーといっしょに声をあげたくてならないのだ。

Thursday, December 27, 2018

全日本プロレス2018世界最強タッグ

実際の試合はひとつも見てないが、今年の最強タッグは星取り表を見ているだけでも面白かった。その理由はパロウ・オディンソン組が大活躍し、最後まで優勝戦線にからんだことである。実力のあるレスラーが全日本で大暴れすることは、他団体の所属であろうと、フリーであろうと、海外の選手であろうとファンは大歓迎だ。もっと外部から参入してきてほしいくらいである。

諏訪魔・石川組は、コンビが結成された当時は「ずるい」と思われるくらいの、「最強」同士の組み合わせだったが、それを越えるのがドーリングとジェイムズだった。ドーリングはこのところベルトにからんできていないので、これをきっかけにタッグのベルトだけでなく、三冠にも挑んで欲しい。最強タッグ後半の興業では、体調の関係で、しばらく休場していたようだが、無理をせず、万全の態勢をととのえれば、宮原からのベルト奪取も可能だろう。

ジェイムズも潜在能力はドーリングをしのいでいるのに、なぜかまだトップには通用しない。しかしジョーの次を狙うことができる外国人選手は彼しかしないのだから、わたしは応援している。

ゼウス・ボディガー組がふるわなかったのはちょっと残念だ。ゼウスは三冠を宮原に奪取されてしまったので、是非とも最強タッグで元気なところを見せて欲しかったのだが、なかなかうまくはいかないようだ。いや、もしかしたら雌伏して時を待っているだけなのかもしれないが。

驚いたのは真霜・KAI組が得点を十二まで伸ばしたこと。ぎくしゃくした二人のタッグなので、どうなるかと思ったが、さすがつわもの同士、いったん戦いとなれば、それなりに呼吸を合わせ勝ち星を稼いでいく。なんとか来年もこのコンビでタッグリーグを攪乱して欲しいのだが。

Wednesday, December 26, 2018

今年読んだ本の中で

わたしはあまり人に知られていない、隠れた名作というやつが大好きである。翻訳が出ていないことが多いので、訳しやすいし、宣伝のしがいがある。今年読んだ、そうした本の中でよかったのは三つある。

まず第一位は RENE FUELOEP-MILLER の THE NIGHT OF TIME。これはすごい。軍隊が317高地を攻略するために無謀な戦いをつづける物語だ。ひどくリアリスティックであり、同時にシュールリアリスティックな描写、カフカのような展開に圧倒された。「カチアートを追いかけて」とかアンドレーエフの作品を二葉亭が訳した「血笑記」などが思い出された。Goodreads のサイトを見たらこの本は出てこない。名前すらあがっていないのである。読んでいる人は世界でもそんなにはいないと思う。わたしが読んだのは英訳されたもので、なんとかしてドイツ語の原文を手に入れたいのだが、日本の大学には一冊もないようだ。

第二位は EDGAR MITTELHOLZER の作品群。「エルトンズブロディ」と「わが骨、わがフルート」の二作は訳したが、ほかにも THE SHADOWS MOVE AMONG THEN とかいいのがある。人に知られていないというのはわたし好みで結構なのだが、それは作品が入手しにくいという事実の裏返しであって、困る点でもある。幸い、この本は Internet Archive で借りることができるのでようやく読むことができた。

第三位は STELLA BENSON の LIVING ALONE。これはかなり有名なファンタジー小説なのだが、翻訳はまだ出ていないようだ。ドイツ軍に空爆されるロンドンという、シリアスな状況の中で、魔女の物語が軽やかに展開される、実に風変わりな物語だ。ただわたしは訳さないと思う。この物語のチャーミングさを表現できるような日本語をわたしは持っていないから。

Saturday, December 22, 2018

「殺人の構図」 Pattern of Murder

ジョン・ラッセル・ファーンが1957年に書いたミステリ。おそらくファーンが書いたミステリのなかでももっとも出来のよい一作ではないか。

テリーという映写技師が借金に困り、とうとう自分が勤める映画館の金庫から金を盗むことになる。もともとこの映画館には泥棒がよく入っていたので、偽装するのは簡単だった。彼は金を手に入れ、借金を返した。

しかし困ったことが一つ起きた。彼が金庫の金を盗んだ場面を、おなじ映画館に勤める女に見られたのだ。お互い相手の弱点を握っている同士なので、女は黙っていたが、テリーとしては気が気でない。彼は女を殺す計画を立てる。

ここからはちょっと技術的でわたしには本当にこんなことができるのかどうかわからないのだが、テリーはフィルムのサウンドトラックに仕掛けをほどこして人間の耳には聞こえない超音波の衝撃波をつくり出し、それを天上に吊り下がる巨大な照明灯に当てるのだ。するとあらかじめ緩めてあったネジがさらに動き、照明灯がその下にいる女の上に落下するのである。

犯罪が露見しないようにあらゆる手を尽くしたテリーは、完全犯罪を達成したと思った。ところが彼が殺した女の恋人(彼もおなじ映画館に働く映写技師だ)が疑惑を持ち、テリーの殺しの手口を一つひとつ解明していく。

つまり、これは倒叙形式の物語である。そしてじつに面白い。どうしてこんなに面白いのかというと……パルプ小説的なテンポのよさもさることながら、登場人物のキャラクターがじつに際立っていて、それが読んでいて楽しいのである。テリーの鬱屈した性格、彼に殺される女の下町育ちらしいしたたかさ、ヘレンの上品な健全さ、映画館主のその地位にふさわしい落ち着き、テリーを追い詰める同僚技師の無骨さと単純さ、そうした特徴がじつによく表現されている。

ファーンはSF作品で有名だが、本当はミステリを書くことのほうが好きだったのだとか。本作を読むと好きなだけではなく、ミステリの書き手として相当な手練れであったことがわかる。

Wednesday, December 19, 2018

海賊版の問題

ガーディアン紙の記事「あなたは海賊版の書籍を読んだことがありますか? 海賊版によって影響を受けたことは? 経験を語ってください」に投稿した。

英国の知的財産局によると、オンラインで売られている十七パーセントの本は海賊版が出ているそうだ。約四百万冊だという。出版協会の協会長によると、海賊版を利用しているのは社会的・経済的に富裕な層であって、年齢は三十一から五十台の人々。本が買えない人々ではない。一般にはティーンエイジャーが海賊版利用の主犯者と言われているが、それは間違いであるようだ。

さて、この記事は次の部分が問題である。

「海賊版の広がりは、作者の収入の減少と一致している。世界中どこでもそうだ。イギリスの場合、作者の収入は最低賃金以下に押し下げされた。作者と出版社は海賊版を提供するサイトと戦っているが、際限のない戦いを強いられるという。人気のある海賊サイトをなくさせても、あらたなドメイン・ネームであらたなサイトが立ち上がるだけだからだ」

ここを読むと海賊版が出たから作者の収入が減った、作者と出版社は「ともに」戦っているような印象を与える。とんでもない。出版社は作者を搾取している。出版社がもともと作者の収入を「海賊」していることを無視している。

わたしは以前、ズットナーの「武器を捨てよ!」という本を共訳したことがある。その本は岩波から出版されることになった。そのとき岩波はどういう条件を出したか。初版の収入はすべて岩波のものとする。第二版が出ることになったら、印税はその時点から支払いがはじまる、といったのだ。

本が売れなくて初版で終わっていたら、訳者たちに収入はない。ほかの翻訳者たちは高校や大学の先生であり、岩波から本を出したという事実は彼らの経歴にとって勲章になるのだろう。だから初版は無報酬でもあまりある栄光を手に入れられるのかもしれない。しかしわたしはただの翻訳者だ。無報酬なんてとんでもない。岩波はブラック企業にしか見えなかった。

わたしは岩波の条件を唯々諾々と呑んだほかの翻訳者に嫌気がさし、第二版以後の印税はおまえらのあいだで分けろ、おれはいらない、といって完全に手を切ることにした。

岩波は左翼の牙城のように思われているが、やっていることはブラックである。左翼の学者が岩波にそんなことをさせてはいけない。しかし日本のリベラリズムなどその程度でしかないとわたしは悟った。

こういう記憶があるから、出版社と作者のあいだには根底的な「対立」が存在していることをわたしは知っている。

Monday, December 17, 2018

信の構造(3)

マリー・コレーリは「悪魔の悲しみ」において見事な現状分析をして見せたと思う。物質主義の発達や啓蒙により、人は一見すると神という迷妄から解き放たれたように見えるが、じつは信の外部化というより奇怪な形で信を継続させていることを描いたのだから。彼女は独自の神話を構成することで創造主と創造物との奇怪な信の関係にまで切り込んでいる。それは芸術家とその創造物の関係にも適用できる、すばらしい洞察である。さらに信の外在化は免罪符のように昔からあるものではあるけれど、十九世紀後半においては資本主義の急激な発達により、いっそう顕著なものとなった。すなわち物の価値や感情までが金によって置き換わる(外在化される)時代が本格的にはじまったのである。そのこともマリー・コレーリはちゃんと見ている。

ところが彼女は転移された信を、単にあやまった信とみなす。そして信が疎外されているなら、それを自分の中に取り戻せ、というのだ。「悪魔の悲しみ」においてすべての中心にあるもの、ジェフリーにとってはあこがれであり、リマネスにとっては「祈る」存在であり、自殺するジェフリーの妻にとっては心の平安を示すもの、それはメイヴィス・クレアである。彼女がなぜ中心なのかというと、彼女はひとりだけ信を内面に保持しているからである。ほかの人々は自らの内部に信を持てない。だからニセ者なのだ。しかし彼女だけは自らと信念が一致している。それゆえホンモノなのだ。だが、ここに彼女の認識の弱さがある。

なにかを信じる、だれかに信を置く(put one's fatih in someone)というのは基本的に己の貴重な一部を外在化し、他者に預けるということではないのか。すなわち、「わたし」の権能の及ばない、それどころか「わたし」の権能を否定する他者にそれを預けるということではないのか。考えて見れば、「わたし」の権能がある程度及ぶ他者があったとして、そのような他者に信を置くのは、本当の意味で信を置くことにはならない。まさに自分と敵対するもの、自分を否定するもの、まったく理解不能なものに信を置くことが、本当の意味での「信」だろう。信はその構造上、もともと疎外されているものではないのか。メイヴィス・クレアは作品を書くことでおのれの信を外在化させている。外在化された彼女の信は、彼女のものであると同時に、彼女のものではない。それは他者(作品)のものであって、本来彼女のものであるはずの彼女の信さえも他者性をおびるのだ。だからこそそれは彼女が憎む批評家たちによって誤解され、また、商品として交換価値をまとうことにもなる。自己と他者の(あるいは同一性と非同一性の)不可解な関係をコレーリはしっかり見定めているが、しかしそこからさらに議論を発展させるのではなく、ナイーブで凡俗な信の通念に逆戻りしてしまっている。

Saturday, December 15, 2018

信の構造(2)

「悪魔の悲しみ」には信の転移が三つ描かれている。第一に主人公ジェフリーとその妻の関係にそれが見られる。

ジェフリーは貧乏作家だったのだが、悪魔に魂を売ったおかげで、一気にイギリス一の金持ちになる。そしてイギリスでいちばん美しい女を妻にする。しかし彼は家の外で悪友どもと遊び廻る。アルコール漬けになったほぼ全裸の踊り子たちをそばにはべらしたり、まあ、酒池肉林といったありさま。それが当時は「世間を知る」ということだったのだ。もちろん彼は神さまなんて信じていない。

ところが彼は、妻はセンチメンタルで、信仰深くあってほしいと願うのだ。これは妙な話だ。自分が神を信じていないなら、他人が神を信じていなくてもいいではないか。しかし彼は自分の妻が神を信じず、精神的に堕落していることを知り、絶望のあまり自殺を考えるのである。

なぜ彼は神を信じる「他人」を必要とするのか。彼は他人を通して神を信じているのである。ヴィクトリア朝時代、妻は「家庭の天使」と呼ばれていたけれど、彼女が家で祈っている限り、夫が外で悪徳の限りをつくしても、彼は信仰を失ったことにはならないのだ。「泣き女」が会葬者のかわりに泣くように、妻は夫の代わりに祈る。夫の信は、実は、妻の中に転移されている。

第二の信の転移はジェフリーとジェフリーの書いた小説の関係に見られる。ジェフリーは貧乏時代に書き、どの出版社からも出版を断られた小説を、金持ちになってから自費で刊行する。彼は校正のために何度もその作品を読み返すのだが、自分が書いたにもかかわらず、まるで自分と無縁の作品のような気がする。彼は金を持つようになってから放埒で自堕落な生活を送っているし、神も信じていない。しかし小説はじつに理想主義的な内容なのだ。彼は貧乏時代にその内容を信じ、真剣になって書きつけたのだが、今それは彼には受け入れがたいものとなった。端的に言えば、彼は信仰心を持っていないが、本はそれを持っている。創造者は無神論者だが、被創造物は神を信じている。それが彼には耐えがたいのだ。

第三の転移は悪魔と人間の関係の中に見出される。悪魔はもともとは天使であって、罪を犯したがために天国を追放された。その際、彼は神によってある条件を与えられた。「おまえは人間を誘惑する。しかしもしもおまえの誘惑を拒否する人間が一人あらわれたら、おまえは一歩天国に近づくことができる」悪魔は神に逆らったから神を信じていない。しかし彼が誘惑に失敗し、一歩天に近づくとき、彼は恍惚となるのである。彼は神への信仰を捨てたように見えるが、本当は神を信じている。しかしその信仰を人間に転嫁しているのだ。彼は「祈りを捧げることのできない者のために祈ってくれ」と人間にいう。彼自身は信仰を持たないが、信仰を持つ他者を必要としているのだ。

創造主(神・作家)は信じていない。しかし被創造物(人間・作品)が代わりに信じている、という関係は非常に興味深い。信仰の意味を一新するような観点ではないだろうか。(ちなみにギルバート・キース・チェスタートンも同じようなことを考えている)すなわち神こそが無神論者なのである。そしてこの対立物の一致によって示されるのは、神という概念が内破しているという事態である。神は全能、一部の隙もなく充溢した存在ではない。逆に彼は自分が創り出した世界のでたらめさ加減にあきれ、途方に暮れているのである。彼こそ、みずからの全能を信じていない。

Thursday, December 13, 2018

信の構造(1)

今年の九月の初め頃だろうか、フィリップ・プルマンがガーディアン紙に、理性では解消しきれない人間の非合理的信念(迷信)について語っていた。

よくある議論なのだが、しかしそれを読みながら、迷信はフロイドの失策行為とよく似ていると思った。

失策行為、たとえば言い間違いは、疲労や肉体的錯誤によって起きた、意図しない行為として無視される。しかしフロイドはそれを無意識と関連づけた。これは画期的な考え方だった。

魔術的なものに対する信念も、誤った態度、教育のない人間の考えとして理性は退ける。しかしフロイドが失策行為を無意識と関連づけ、システマチックな精神分析の手法を考えだしたように、迷信もあらたな人間理解の糸口になりはしないだろうか。

プルマンはガーディアン紙に寄稿した文章の中でニールス・ボーアの面白い逸話を紹介している。

ボーアは実験室のドアに馬蹄をぶらさげていた。馬蹄は彼が育ったあたりでは魔除けとして使われていた。彼は知人に「迷信を信じているのか」と問われ、こう応えた。「信じちゃいないが、このお守りは信じていない人にも効果があるそうだからね」

この逸話をひいてプルマンは「魔除けとか、天使の名を刻んだ指輪とか、魔方陣の描かれたまじない札とか、そういうものを擁護することは不可能だし、同時に理性的な観点から攻撃することも馬鹿げている。理性はそういうものを理解するには間違った道具だ。迷信を理性的に理解しようとすることは、木でできたものを磁石で吸い付けようとするようなものだ」

これはニールス・ボーアの逸話に対するもっとも一般的な解釈の仕方である。

ここに同じ逸話をこよなく愛する哲学者がいて、その名をスラヴォイ・ジジェクという。彼はその著作や講演の中で何度この話を引用しただろうか。

彼の解釈の仕方はプルマンとちょっと違う。今までのどんな解釈とも違うかもしれない。しかしわたしには決定的に重要な解釈に思える。

ジジェクはこう考える。なるほどボーアは迷信を信じていない。しかし馬蹄が「彼の代わりに」信じているのだ。

いったいどういうことだろうか。

ジジェクが挙げている別の例を見るとわかりやすかもしれない。チベットには祈祷用の回し車というものがある。手に持てる小さなもので、車輪にはお祈りの文句が書きこまれている。それを機械的に一回回転させると、人はお祈りを一回唱えたことになるのだ。なんなら風車をつけてひとりでに回るようにしてもいい。車輪は人の代わりに延々お祈りを唱えてくれる。車輪が回っているあいだ、人は宗教的なことを考えなくてもいい。車輪が彼の代わりに信仰してくれているのだから。

このような信のあり方は未開の文明だけではなく、現代にも見つかる。わたしが十九世紀から二十世紀初頭にかけてもっともポピュラーな作家だったマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」を翻訳したのは、この作品が「信の転移」ともいうべき状況を見事にとらえているからだった。

(つづく)

Tuesday, December 11, 2018

新人選手

最近、全日本プロレスのサイトでは、試合後のコメントやさまざまな行事を収録したビデオを更新していない。あれがあると選手の様子がわかって楽しかったのだが、おそらくテレビ放送を見る人が増えているのだろう、すべてのリソースがそちらに回ってしまった感じである。それで全日本プロレスの収入が増えているなら結構なことだ。

さて、気がついたら新人の選手が次々と三人も現れているようだ。大森北斗選手は写真で見る限りまだ幼い顔をしているが、なにしろわたしの住んでいるところからすぐ近くの江別市の出身である。応援しないわけにはいかない。新人だからなかなか勝てないだろうけど、もっと身体を大きくして活躍して欲しい。

さらに来年のお正月には青柳亮生選手と田村男児選手がデビューすることになっている。青柳選手は青柳優馬選手の兄弟なのだろうか。出身地も同じだし、顔も身体つきもなんとなく似ている。昔はファンク兄弟とか百田兄弟が全日本で活躍していたが、久しぶりに兄弟タッグが見られるのだろうか。

田村選手は、写真で見ると、なかなかいい面構えをしている。向う意気が強そうで、こういう選手が全日本のジュニアにはもうすこし増えてほしいと思う。岡田佑介選手がエヴォルーション入りし、闘志を剥き出しにするようになったときは頼もしく思った。田村選手は諏訪魔選手を目標にしているようだが、ふてぶてしい顔つきだけは諏訪魔に負けていない。大いにあばれてほしいと思う。

Monday, December 10, 2018

図書館は死にかけている

イギリスの図書館が次々と閉鎖されているというニュースを見るにつけ、おなじ事態が日本でもそのうち始まるだろうと暗い気持ちになってしまう。(日本は世界のトレンドから十年~二十年くらい遅れているから)

しかし日本の図書館は本当に生きているか。もう半分死にかけているのではないか。わたしは最近そう思いはじめた。

理由はみっつ。ひとつは利用者の減少。ふたつ目はアマゾンの品揃えの拡充による相対的な図書館の価値低下。みっつ目は図書館自体が知の集積地としての活動を充分に果たしていないこと。

ひとつ目とふたつ目の理由は自明だが、みっつ目はどういうことか。

まず第一に図書館員の本にたいする知識の低下。要するに本を読んでいない。和漢洋にわたる広範な知識がない。とりわけ古典となると絶望的である。ある図書館の館長は鉢かづき姫の話すら知らなかった。洋書の購入は洋販のいいなりである。図書館が見識を持って購入する本を決めているわけではない。

第二に、図書館で開催される行事の内容があまりにも凡庸なものばかり(しかも誰の興味も惹かないようなものばかり)である。凡庸なものが多くてもかまわないのだが、テレビでやっているようなお座敷芸的知識の紹介ではない、先鋭的な知が一切拒否されている。それは常識をひっくり返す危険な知であって、それだけに一般受けはしない。しかし知の尖端とはそういうものなのだ。自然科学においても人文科学においても。そういうものに触れる機会を図書館はなぜつくらないのか。わたしは図書館が無党派性を主張しながら、じつは党派性をすでに有しているのではないかと危惧する。

第三に、図書館の発信力がおそろしく弱い。メディアを通じて図書館の魅力、読書の魅力をなぜ訴えないのか。欧米ではビッグ・リードのような行事が行われているが、なぜ日本の図書館はそうしたものを企画しないのか。また欧米の図書館では、独自に、さまざまなテーマに沿って(性や人種や労働、などなど)注目すべき書籍のリストを出しているが、なぜその程度の活動もしないのか。

図書館がたんなる知の集積地であったなら、もうすでに役目は失っている。アマゾンのほうがはるかに巨大な集積地だからだ。もう数年したら Internet Archive だってその蔵書数を増やし、世界の図書館と呼ばれるようになるだろう。図書館が生き延びるとしたら、その知を咀嚼したり、整理しなおして、つまり巧みに調理していかにもおいしそうに市民に提供できなければならない。それができない日本の図書館はもう半分死にかけているとわたしは思う。

Friday, December 7, 2018

腕立て伏せ

腕立て伏せは最もよく知られた自重トレーニングだが、その効能のすばらしさはあまり理解されていないような気がする。

わたしの大胸筋は腕立て伏せによって鍛えられたといってもいい。腕立ては普段もするけれど、とくに胸を鍛えたいと思ったときは一時間くらいかけてやる。だいたい600回くらい行う。あまり疲れないように30回の腕立てを20回繰り返すのである。最後のほうはかなり疲れるので、20回の腕立てを数回繰り返してノルマを達成することも多い。

わたしはプッシュアップバーをもっていないので、かわりに辞書を手の下に置く。ちょっとだけすべるし、高さもやや低いが、胸の筋肉には充分にきく。はじめてこれでやったときは数日間、胸に筋肉痛が残った。

Wednesday, December 5, 2018

大胸筋

外を歩いているときなど、ときどき無意識のうちに自分の胸をとんとんと叩くことがある。大胸筋が大きくなり出した頃から身に着いた癖である。

大胸筋が発達するのはうれしいものだ。腕が太いのは力をあらわし、足が太いのは頑健さを示すが、胸の分厚さは「頼りがい」を感じさせる。この「頼りがい」は他人が見て感じるだけでなく、自分にとってもそうなのである。自分が自分に頼りがいを感じる、それが自信というものだろう。

わたしが胸をとんとんと叩くのは、身体の変化を確認し自己満足にひたるというより、不安を鎮めるためのような気がする。自分にはこの大胸筋がある、怖れることはない。そう自分に言い聞かせているような気がする。

実は最近、風邪をひいてしばらく寝込んでしまった。今の風邪はわたしが子供の頃に経験した風邪とは違い、症状の出方が微妙に違うし、なかなか自然治癒しない。数年前にかかった風邪は、熱が収まっても咳だけが残り、しかもそれが数カ月間つづいた。風邪は意外と怖い病気である。

わたしは薬を飲んで横になりながら、ぽんぽんと胸を叩いた。これだけ身体を鍛えているのだから、抵抗力はあるはずだ、心配することはない、と思いながら。

幸いにして寝込んだのは一日だけで、そのあと二日くらいで完全に回復した。今日からはまた普通にトレーニングを開始するつもりでいる。

Monday, December 3, 2018

ブック・クリニック

以前「文学の慰め」ということを書いた。困難な時に陥ったとき、苦しくてつぶれてしまいそうな自分を慰め、力を与えてくれる本が書店や図書館にあるかもしれない。だから藁にもすがりたい想いを抱いている方は、一度そうした場所を訪ねてはどうだろうか、といったことを書いた。書店も図書館も知が集積されている場所だ。自分の中にある混乱を鎮め、整理し、道を示してくれるものがきっとあるはずなのだ。

人生に挫折したとき、あるいは困難にぶつかったとき、こんな本を読んでみてはいかがですかと、本を紹介すること。それを英語ではブック・クリニックなどという。辞書に載るような固定された表現ではないけれど、たまに見かけるし、語感も悪くない。いつものようにガーディアン紙を見ていたら、両親が離婚したときにどんな本を読んだらよいのか、参考になる本が挙げられていた。ホリーさんというイギリスの十七歳の女の子への問いに答える形で記事は書かれている。

Stag's Leap by Sharon Olds
Hideous Kinky by Esther Freud
Eat Pray Love by Elizabeth Gilbert
Madame Doubtfire by Anne Fine
Tha Parent Trap by Erich Kastner
I Capture the Castle by Dodie Smith

挙がっていたのはこんな本である。十七歳ということで新しめの本が多いが、ケストナーのようなモダン・クラシックもまじっている。なかなかいいリストになっていると思う。ただし絶対に読むな、という本も一冊挙げられている。それは

What Masie Knew by Henry James

ううむ。どういうことだ? これは密かに(反面教師的な意味で)、読め、と言っているのかな。

Saturday, December 1, 2018

「ペテン」 Skuldoggery(1967)

タイトルの正しいつづりは skulduggery。しかし本作では犬が重要な役割を果たし、登場人物の一人がしゃれのつもりで skuldoggery という言葉を造った。それがそのままタイトルになっている。

作者のフレッチャー・フローラ(Fletcher Flora)は1914年に生まれ、1968年に亡くなっている。つまり来年彼はパブリック・ドメイン入りすることになっている。アメリカはカンサス州の生まれで、パルプ小説を書いたことで知られている。日本では短編はいくつか紹介されているが、長篇はまだ知られていない。わたしも彼の作品は今回がはじめてなのだが、意外にいいのでびっくりした。

最初にちょっと面白いことを書くと、今の時点で英語のウィキペディアにフレッチャー・フローラの項目はない。ところがフランス語版のウィキペディアには彼の紹介が載っている。これはアメリカとフランスにおける彼の評価の違いをあらわしていると思う。フレッチャー・フローラはフランス人好みの作家なのだ。

どこがフランス人好みなのかというと、まずユーモアがある。オスカー・ワイルド風のひねったものの言い方がすばらしくうまいのだ。第二にノワール風の味わいがある。ノワール風の、なんていうのだろう、大人の雰囲気をただよわせた、渋い作品はフランスでは人気がある。高倉健が主演した日本映画「新幹線大爆破」なんて映画もノワール風の映画だったが、確かあの作品も日本でよりフランスで人気が出たはずである。

ノワールの雰囲気をただよわせたユーモア小説なんて、わたしにはたまらなく興味深いが、今のアメリカ人にはどうも受けないようだ。表現が直截でアクションに充ちていないと彼らの集中力は途切れてしまうらしい。

物語は「祖父」の死から始まる。殺されたのではない。自然死である。巨額の遺産を残したはずなので、その子供たちや孫である相続人たちはにこにこ顔で葬儀に参列する。

ところが遺書が発表された途端、その顔色が変わる。遺産はすべて「祖父」のペットであるチワワに与えられることになっていたのだ。「祖父」の召使い夫婦がチワワの後見人だ。

しかし、もしもチワワが子供も残さず死んだなら、その遺産は相続人たちに分配される。チワワが子供をつくったなら、遺産は小犬たちのために使われる。「祖父」の子供たちや孫たちは、さっそくチワワ殺害をもくろむ。

わたしはこれだけでニヤニヤ笑いが止まらなくなった。遺産目当てに人を殺す話は腐るほどあるが、チワワを無きものにしようとするなんて話ははじめてだ。これは楽しい。こういう話を「馬鹿臭い」という人は、文学の贅沢な味わい方を知らないのである。しかも結末では見事にある「謎」が解明される。パルプらしいチープな謎だが、悪くはない。

登場人物はいずれもエキセントリック。語りも会話もひねりのきいた見事なもので、こんなに愉快な作家をいままで見逃していたとは不覚である。ほかの作品も読んでいちばんできのよいものを訳そうかと思っている。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...