Tuesday, January 29, 2019

見えないテキスト

市立図書館で本を読んでいたら、となりの児童書コーナーから子供が本を読み上げる声が聞こえてきた。その子の読み方は非常に奇妙なもので、一語一語を拾うように読み上げるかと思えば、急に声高に、怒鳴るように読み、しかも喉が悪いのか、しきりにゲッ、ゲッという音を立てて咳をする。この異様な朗読にはわたし以外の人もぎょっとしたようで、立って声のするほうをじっと見つめる人が二人ほどもいた。

そのときわたしはこんなことを考えた。子供が読んでいるテキストは、実は、あのような異様な読み方をも可能性として秘めているのではないか。テキストの背後にはさまざまな可能態が隠れていて、あの子供の読み方はその一つを現実態として引き出したのではないか。子供の読みにはいくつもの誤読が含まれていたが、しかし可能態の総体としてテキストは、そのような誤読すら含んでいるのではないか。もしかしたらあのゲッ、ゲッという咳も含まれているのだ。

日本人が英語のテキストを読むとき、テキストに日本語が入りこむことは避けられない。ケンポウスキーなどという固有名を見ると、瞬間、「憲法好き」という日本語が頭をよぎる。英語圏の子供はドイツ語の「父」がファーターであると知ると、それが英語のファーター「屁をする者」につながるものだから、大笑いする。このような「事故」も、実は、もとのテキストに潜在的な可能性として秘められているのではないか。いや、そういうテキストを越えたテキスト、見えないテキストをわたしは考えたい。

そのような可能態の総体としてのテキストは、いったいどのように記述されるだろう。どのような特徴を持っているだろう。英語とドイツ語がショートをおこし、日本語と英語が交錯するするテキスト。無意識が無意識に連接するテキスト。

そんなものを考えてなにになると言われそうだが、フロイトを読めば読むほど、テキストの無意識における連接を考えさせられるのだから、あながち意味が無いとも言えないと思う。

Monday, January 28, 2019

2019 Jr. BATTLE OF GLORY

佐藤光留選手が今年の Jr. BATTLE OF GLORY にたいする意気込みをビデオにしてあらわしている。「2019 Jr. BATTLE OF GLORY 開幕目前! 佐藤光留 特別映像」がそれだ。相変わらずなにがいいたいのかよくわからないが、要するに「優勝するぞ」ということらしい。この人は「好きだ」と一言大声で言えばすむのに、ねちねちと得体の知れない理屈を展開して女に「わざと」嫌われるような話し方をする。諏訪魔にたいする愛憎を振り返れば、それはわかってもらえるだろう。しかし試合のほうでは意外とすばしこく動き、関節技を決める。フリーではあるけれど、全日本にいつもあがって興業を盛り上げてくれる貴重な選手、いや、実力者だ。

今、ジュニアの王者は岩本選手ということになっているけれど、まだその地位は盤石とはいいがたい。青木や佐藤の挑戦を受け、岩本が勝ったなら、そのときはじめて名実ともに全日本ジュニアの王者となるだろう。逆に言えば、それくらい佐藤や彼の盟友である青木の存在は大きいのである。

Jr. BATTLE OF GLORY について話そうと思っていたのに、佐藤選手のことから話しはじめたら、だんだん関係のないほうにずれていってしまった。佐藤選手というのは他人の頭をかき乱すのが得意なのだから仕方がない。

今年の大会の目玉は吉岡世起と断言する。Wrestle-1 のことはあまりよく知らないが、週刊Wrestle-1 という動画をいくつか見た限り、吉岡選手は生きがよくて、向こう気の強い、いい選手だ。全日本所属の選手にはああいう一匹狼的な人はいない。だから彼がどんな活躍を見せるか楽しみである。彼が戦うBブロックには青木、佐藤も入っている。この二人同士の戦いも見ものだけど、吉岡が彼らとどう戦うかがいちばんの見ものである。

Aブロックには岩本がいる。彼はすくなくともAブロックで優勝しなければ、ファンから頼りないチャンピオンと思われてしまうだろう。背水の陣で戦わなければならないはずだ。TAJIRI や鈴木鼓太郎というややこしい選手がいるので、なかなか難しいだろうけど。Aブロックにはフランシスコ・アキラというイタリア出身の新顔の選手もいる。デビューしたのが十六歳のとき、現在十九歳である。若いけれど、すでにチャンピオンシップや、タッグのチャンピオンシップを複数獲っているので、才能はあるのだろう。身体の小ささはいなめないものの、青柳風の整った顔立ちで、女性にもてそうである。

Friday, January 25, 2019

みんな敵がいい

スラヴォイ・ジジェクが「真っ昼間に、泥棒の如く」という新しい本を出したので読んでみた。その序文のところにこんなことが書いてある。

アラン・バデゥーという哲学者は、ソクラテス以後、哲学の役割は若者を堕落させ、「異化」させることであると挑発的な意見を述べている。要するに若者を支配的なイデオロギー、政治体制に順応させるのではなく、それに対して根本的な疑問を抱かせ、自律的に考える能力を与えることが、哲学の役割だというのである。

その一方で、いわゆる御用学者という連中もいる。上記のような哲学者によって乱された秩序を回復しようとする人々である。

ジジェクは、ユルゲン・ハバーマスとペーター・スローターダイクはこの二つのタイプをあらわす最新の例と言えるのではないか、として論を進めていく。

わたしは体制順応的な思想家は読んでもまるで面白くない。そこには発見などなにもないし、思考につながる手がかりもない。いや、あることはあるのだ。すなわち、そうした思想家がもうすこし明敏であれば見えていたかもしれないものが、巧みに糊塗されていく過程を見て、その盲目ぶりのなかにイデオロギーの働きを認めることができるからである。しかしそうした脱構築的な読み方を別にすれば、体制順応的な思想家はじつに退屈きわまりない。

わたしにとって魅力的な思想家は、危険な思想家である。全体や安定が必然的に不可能であることを示してくれる思想家である。その虚妄や虚偽をあばいてくれる思想家である。そうした思想家の著作を読むと、わたしは脳が刺激され、考えることをはじめる。体制順応的な思想家が教えることは、「今、存在は満ち足りている。まどろみなさい」ということでしかない。まどろんでいては思考はできない。

しかし今の世の中を見ると(日本だけの話ではない)、まどろみたい人がほとんどのようだ。体制側の人々も、反体制側の失敗に次ぐ失敗に絶望した人々も、あるいは現在とは異なる全体や安定を夢見ながら、反体制の側で必死に戦っている人々も、結局のところ、あるまどろみの中に沈みこみたがっている。

そんななかでジジェクは猛烈に思考しようとしている数少ない人々のひとりである。彼は右からも左からも嫌われている。右のまどろみも左のまどろみも批判するからだ。まわりはみんな敵ばかりという状況で、彼は発言をつづけている。いや、彼はまわりが敵ばかりのほうが居心地がいいのだろう。彼には勝海舟のようなトリックスター的資質があるから。

日本では彼の著作は翻訳されていても、彼の思想が左派にとりあげられることはないようだ。たんなる勉強不足と言うより、左派が持つ夢を彼が木っ端微塵に砕いてしまうことを感じ取っているから、彼を敬遠しているのだろう。しかしわたしは今読むに値するテキストを書く、貴重な人間のひとりだと思っている。

Wednesday, January 23, 2019

「魂を取り替えて」 An Exchange of Souls (1911)

バリー・ペイン(Barry Pain 1864 - 1928)を知っている人はあまりいないと思うが、「宝島」のスチーブンソンに「イギリスのモーパッサン」と称された、当時はそれなりに知られた作家である。特に本書はラブクラフトのある短編に影響を与えた作品として知られている。

マイアスという天才的な医学者が、他人と魂の交換を可能にする装置をつくりあげた。彼は自分の実験を積極的に手伝ってくれた若い女と魂を取り替えるのだが、装置の故障が原因で死んでしまう。(魂を交換するには身体を麻酔状態に置かなければならないのだが、その投与が正確に行われなかった)その結果、彼の魂は……女の身体に移ってしまったのである。

彼の魂は女の身体を次第に支配していく。最初は女の意識が彼の邪魔をしていたが、外国語の知識が一気に舞い戻り、そのうち医学的な知識も忽然と戻ってくるだろうと考えていた。それまで人から怪しまれぬよう、友人(語り手)の力をかりて、人里離れた場所でひっそり暮らそうと考えていたのだが、そこへ行く途中、鉄道事故に遭い、命をなくす。

魂の交換というのは F. Antsy という人が1882年に書いた「取り替え物語」が最初とされている。実業家の父親とパブリック・スクールで学ぶ息子がふとしたことから魂を(あるいは肉体を)取り替えるというコミック小説である。この愉快な状況は、父親の弟がインドから持ち帰った不思議な力を持つ宝石によって引き起こされるのだが、バリー・ベインの作品では魂の交換は、電話の「交換」(交換局の交換)に譬えられているところが面白い。魂はある種の機械的な操作によって肉体間を移動するのである。最初は魔力によって引き起こされたものが、機械的操作によって生じるようになる。主題へのアプローチの仕方の変化には注目すべきだろう。

もう一点、この作品で興味深かったのは、語り手が事件の一部始終を語り終え、物語の後書きとして書いている部分だ。彼はとある高名な医者と話をするのだが、その医者は女の身体に女とマイアスの魂が共存している状態を単に「多重人格」、いわゆる解離性同一性障害とみなす。そんな症例は山ほどある、マイアスが言っていたような魂の交換などできはしない、というのだ。

しかしこの議論はちょっとおかしい。語り手は魂の共存という状態に畏怖の念を抱いているが、医者はそれを「多重人格」と呼び、なんのことはないという。しかし「多重人格」とはなんなのか。それは依然として「謎」ではないのか。医者は命名によって「謎」を消し去ろうとしているだけではないのか。

マイアスはこう言っている。「分類は説明じゃない……科学が困難を回避できないとき、科学はそれに名前をつけ、それで満足してしまうのだ」

この視点も重要だと思う。命名が大事であるとはわたしも思うが、しかしそれは謎解きへの第一歩に過ぎない。謎が片付いたわけではないのである。

Monday, January 21, 2019

資本主義と作家

三文文士という言葉があるけれど、作家はたいてい儲からないものである。一部の流行作家はメディアの脚光を浴びて華やかに見えるけれども、多くの人々はほかの仕事をしながら、こつこつと言葉を紡いでいる。

昨年、アンナ・バーンズという聞き慣れない名前の作家が「ミルクマン」という小説でブッカー賞を取った。そのとき彼女は地元のフード・バンクや労働年金省の助力があって、はじめて本がかけたのだと、謝辞を述べた。今では押しも押されもしない大御所の作家であるJ.K.ローリングやサラ・ウオータースだって人気が出るまで相当な経済的苦労を味わっていたのである。

作家というのはもともと経済性から逸脱した存在であるらしい。

イギリスには「ユニバーサル・クレジット」という福祉制度がある。簡単にいうと低所得者のために給付金を与える制度だ。ただつい最近改正されたの給付金制度を貧乏な作家が利用しようとするといくつか問題が生じる。ガーディアン紙の記事 Universal credit could silence working-class writers, MPs told に出ていた内容をかいつまんで紹介する。

新しいルールによると、作家は「利益を出そうとビジネスをしている」ことを示さなければならない。しかし作家協会の会長ニコラ・ソロモンは、作家の収入は月によって増減が激しく、「利益を出そうとビジネスをしている」ことを示すことが難しいという。

さらに新しいルールによると、この給付金を受けるには最低賃金以上の収入があることが条件になっているが、作品の売り上げ収入が少ない場合は、この条件をクリアすることができないこともあるという。

それなら作家業につくなという意見が出て来そうだが、それにはソロモン氏はこう反論する。「作家業が特権であるなら、特権者のみが書くことができるということだ。それは書く人間、書かれる対象、作品を読む人々を、きわめて限られたものにする。つまるところこういう問題に行き着く。アンナ・バーンズのような労働階級の女には書くことができないのか、という問題だ」

わたしはこれを読みながらちょっと考えさせられた。(この記事には新しい制度の、書店側からの反応も書いてあるけれど、そこは割愛しよう)

資本主義の進展は、功利主義的思考のさらなる拡大という形であらわれてきたが、これからもそれは過酷なまでに昂進していくだろう。昔は功利的でないものも社会には(まだ)存在が認められていたが、今は、そしてこれからは、それが認められない世の中になっていくだろう。たとえば「創造性」という概念は、かつては、功利主義とはまるで異なる意味を持っていたが、Oli Mould によると今それは新自由主義的な意味合いを持つようになったという。利益の出ないものは創造的ではないのである。つまり現在「創造的であれ」という呼びかけは暗に「功利主義的であれ」ということを意味している。

三島由紀夫は「絹の明察」の中で資本主義のイデオロギーが変貌するさまを描いたが、あきらかに今はあの作品に描かれた資本主義とは異なる、はるかに過酷でシニカルな資本主義が存在している。

問題なのは資本主義だけではなく、読者の側にもある。読者反応論が想定するような醇乎たる読者というのは存在しない。今の読者は資本主義的価値観に染まった読者である。たとえばまったく売れていない作家、今はもう忘れ去られた過去の作家の本を、積極的に読もうとする人などいるだろうか。読者が本を買うのは、J.K.ローリングのファンタジーがそうであったように、ほかの大勢の人が買って読んでいるから、自分も読もうとするのである。しかし本当の読書家、文章に対して鍛えられた感覚を持っている人は、そんな本の読み方をしない。彼らは最新流行の本など、その流行が過ぎ去った頃に、読んだり読まなかったりするものだ。

文章にたいして鍛えられた感覚を持っている人は実に数が少ない。文章にたいする感覚はそう簡単に身に着くものではないから、仕方がない。そこで広範囲の読書へと人々をうながす、重要な役割を果たすのが文芸批評家であるはずなのだが……少なくとも現在の日本には存在しないし、世界的にも数は減ってきている。(昔は日本にも江藤淳や吉本隆明や柄谷行人など高いレベルで文学を論じる人々がいたのだが)

なんだか暗い気分になってきた。文句をつけるばかりで、まとまりはつきそうにないからこれで止める。

Saturday, January 19, 2019

諏訪魔という牽引車

一月十八日の全日本プロレス横浜大会、メインの試合がダイジェスト版で全日本プロレス公式チャンネルにあがっている。こんなふうにビデオを出してくれるとわたしも記事が書きやすいし、試合を見に行けない全国のファンも嬉しいだろう。

メインの試合は六人タッグマッチ。諏訪魔、石川、青木というエヴォルーション軍と、宮原、野村、青木のネクストリーム軍の対戦である。結果は諏訪魔が宮原からスリーカウントを奪った。抜群のスタミナを誇る宮原も、諏訪魔に投げ捨てのジャーマン、直後に石川のジャーマン、さらに棒立ちしているところを諏訪魔にドロップキック、とどめにラストライドを決められては、なすすべがない。とりわけ石川のすばやいジャーマンによるアシストは相当きいたように思う。

この勝利に気をよくした諏訪魔が試合後、三冠挑戦を表明したが、これは当然。ファンもトップにからむ諏訪魔の姿が見たい。インタビューでも言っていたが、諏訪魔も石川も四十を越え、体力的にも衰えを感じる年齢となったが、しかしそこで失速するのではなく、若手への壁としてまだまだ頑強に立ちはだかって欲しい。そういうのを見て、われわれも、よし、まだがんばろうという気になるのである。若手にとっても越えがいのある人間が上にいないと実力がのびない。鶴田越え、三沢越え、川田越え、ハンセン越え、どれもドラマチックだったが、それは下の者がついに上の者と互角になった、あるいは越えたという、単純にして感動的な力学的関係を見せてくれたからである。

諏訪魔は体格がいいし、投げ技の技術は群を抜いている。まだまだ第一線で戦えるはずだ。石川といっしょにまだまだ暴走して欲しい。

Thursday, January 17, 2019

精神分析の今を知るために(2)

Seton Hall University において行われたスラヴォイ・ジジェクの講演から。YouTube で聞くことができる。(Poetry-in-the-Round with Slavoj Zizek (October 24, 2018) )

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真実は全体的なもの、あらゆる側面をあらわすものではない。真実はいつも部分的で偏っている。たとえば次のような考え方は完全に間違っている。「1933年のドイツにおいてはナチとユダヤ人の二つの極端が存在する。真実はその間のどこかにある」ドイツで起きていた恐怖、その核心を知るには被害者の立場に立たなければならない。真実はユダヤ人の側にある。

Tuesday, January 15, 2019

中国の技術力 Boyue Likebook Mimas

Kobo から新しい電子リーダーが出ると聞いて、食指を動かしたのだが、その直後に Boyue の Likebook Mars のことを知り、しばらく様子を見ることにした。わたしは Internet Archive の PDF ファイルをダウンロードして読むことが多いのだが、これが非常に重たいファイルで、通常の電子リーダーではページめくりが遅すぎて読めないのだ。また図面を含むファイルの場合は一ページが一気に表示できるくらい画面は大きい方がいい。小さな画面で、まず上の部分を読み、つぎに下の部分を読み、とやっていると、下の部分に図面があり、上の部分でその解説をやられた場合に非常に不便を感じる。そこで画面が大きくてスペックの高い機種が出ないだろうかと考えたのである。

そうしたら Boyue が Likebook Mimas という画面は10.3インチ、オクタコア使用の、とんでもない電子リーダーを出した。これが来月あたりから買えるというので、よかった、待ったかいがあったと、喜んでいる。中国語版はとっくに出ているのだが、英語版は来月だ。Onyx もこれに対抗するように新機種を出すそうだし、日本はこれから円高に振れそうなので、今年は電子リーダーの買い時かもしれない。

電子リーダーに関して世界のトップを行くのはいまや中国といっていいだろう。ソニーは、昔の光りいまいずこで、大型のノート用端末は出しているものの、高価すぎるし、利用の幅も狭い。あれはもう売れなくなるだろう。中国には日本が出すような「高級品」を安価に提供できる技術力がある。

Sunday, January 13, 2019

蔵書印という野蛮

図書館の本を開いた一瞬、日本の野蛮さを感じることが多々ある。蔵書印が本文の第一ページにベタリと捺されているのを発見した時である。しかもわざと読みにくくするかのように、活字の上に捺されているのである。





なぜこんなところに捺すのか。白紙の空間はいくらでもあるのだからそこに捺せばいいではないか。外国ではみんなそうしている。たとえばアメリカの図書館の蔵書印はこんな感じ。



大きな印だが、白紙のページに捺してある。そしてインドの図書館はこんな感じ。



本文には重なってない。さらに中国はこんな感じ。


わたしの知る限り日本だけである、活字の上にべたりと所蔵印がついているのは。蔵書印はたいてい赤い色をしているので写真で見るよりも活字との見分けはつくのだが、それでも字が読みにくくなることに変わりはない。

なぜこんなことをするのか理由はわからないが、少なくとも書籍にたいする愛情や敬意はまるで感じられない。牛や馬に烙印を烙印を押すように蔵書印が捺されている。まさか今でもこんなことをやっているわけではないだろうが、近代デジタルライブラリーの本が敬遠される理由の一つが、この醜い蔵書印であることに間違いはない。とにかく読書意欲をそぎ落とすように本文の第一ページが読めなくなっているのだから。

Friday, January 11, 2019

「飛行士の死」 Death of an Airman(1934)

クリストファー・セント・ジョン・スプリッグは1907年にロンドンに生まれ、七冊のミステリを書き、さらにクリストファー・コードウェルの名前でマルクス主義理論に関する評論をあらわしもした。彼はスペイン内乱の際に国際旅団として従軍し1937年に命をなくした。

わたしは以前「日焼けした顔の死体」という彼の作品を読んだことがある。出来がよいとはいえないが、面白く読めた。最近、彼のミステリが復刊され、ミステリ・ファンのあいだではちょっとした人気を呼んでいるので、わたしももう一冊読んでみることにした。なにしろあの「幻想と現実」の作者である。彼がミステリ作家としてどれくらいの実力だったのか、気になって当然ではないか。

飛行士の養成所でインストラクターの一人が事故死する。単独で飛行していたところ、きりもみ状態になり、そのまま墜落したのだ。彼は計器に頭をぶつけ即死したものと考えられた。

ところがこの養成所で免許を取りに来ていた牧師さんが、死後硬直をおこしていない死体に気づき、死亡時刻に疑問を抱く。調査の結果、彼は頭を銃で撃たれて死んだことが判明する。

このあとは二人の刑事がイギリスとフランスで調査を進め、飛行士の死の背後には国際的な麻薬組織が存在することをつきとめる。どうやら飛行士はこの組織の秘密を握り、脅しをかけながら金を手に入れようとしたらしい。それが逆に殺されてしまったのだ。

話はこんな具合に展開するのだが、エンターテイメントとしては上々の出来というのがわたしの感想である。死体と死後硬直の謎は読者を惹きつけてはなさないだけの魅力がある。それでいて充分な手がかりが与えられているから、じっくり考えれば読者は物語よりも早く真相にたどり着くことができる。そういう書き方も爽快感を与えていい。

もう一つの謎は麻薬組織の大ボスは誰かという点だが、これがわかる人はなかなかいないのではないか。偽の手がかりがふんだんにばらまかれているため、わたしもこれはわからなかった。しかし、ミステリに関していえば、「してやられた!」「うまくだまされた」という感を強くするとき、それはよい作品に出会えたことを意味するだろう。

本書は「日焼けした顔の死体」よりはるかにすぐれた作品である。イギリスのミステリ黄金期を支えた一作としてもっと知られてもいいだろう。ついでにいうと、この作者は This My Hand という犯罪者の心理を描いた小説も書いている。リンダ・カッツとビル・カッツが著した Writer's Choice によるとこれは隠れた名作らしい。早くどこかから再刊されないものか。

Wednesday, January 9, 2019

ハリウッド女優と日本語

ハリウッドの俳優で日本語が話せるのはスティーブン・セガールだけではない。「レベッカ」のジョーン・フォンテーン、「女相続人」のオリヴィア・ド・ハヴィランド、この二人の姉妹も上手だった。

アメリカにいたときたまたまジョーン・フォンテーンの自伝 No Bed of Roses を読み、知ったことである。この本は今 Internet Archive で読むことができる。

とくにジョーン・フォンテーンは高校時代を日本で過ごしていたから日本語がよくできた。彼女がアメリカに帰って最初にした女優活動は、確かラジオドラマへの出演だったと思う。主役の女の子が日系アメリカ人で日本語と英語の両方ができる必要があったのだが、ジョーンはこれは自分にうってつけの役だと思い応募したのだそうだ。

オリヴィアとジョーンのハリウッドでの活躍と確執はわたしが語るまでもないだろう。いずれもアカデミー賞を二回取った名女優なのだが、姉のオリヴィアはジョーンを毛嫌いし、アカデミー賞を受賞した姉を祝福しようとした妹から氷のように冷たくつんと顔を背けた写真はあまりにも有名である。

オリヴィアは高校時代から演劇・映画で活躍し、一家の稼ぎ頭だったのだ。(また演技力も当時の女優の中では一番だったと思う。ただしそれは舞台用の古いタイプの演技であって、新しいタイプの演技が求められるようになった三十年代、四十年代に入ると彼女は人気を失った)

ところがアカデミー賞の受賞も結婚も子供ができるのも妹に先を越され、彼女は面目を潰されたとかんかんだったのである。

しかし後年、ジョーンが健康を損ない、また夫の仲がうまくいかなくなったとき、オリヴィアが彼女の看護役として付き添ったことがある。ちょうどオリヴィアも夫婦関係に問題を抱えていたので、妹に同情したのだろう。

そのときだった。

オリヴィアはジョーンをベッドに寝かしつけると、そばに寄り添い日本語で歌をうたいはじめたのだ。それは彼らが幼少の頃、日本人の乳母に聞かされた、なつかしい日本語の歌だった。「ねんねん ころりよ おころりよ」五木の子守歌である。

Internet Archive に載っている No Bed of Roses ではきちんとしたローマ字に表記になっているが、わたしが読んだ版ではたしか「ねんねん」が Ning Ning をあらわされていたような気がする。それで何の歌だろうとしばらく頭をひねった思い出があるのだ。

アメリカの友人にこの二人の大女優と日本語の関係を示す逸話を話すと、「すごいトリヴィアだね」と感心していた。

Monday, January 7, 2019

「意外な物語」

ガーディアン紙に Tales of the unexpected: 10 literary classics you may not have read という記事が出ていた。驚くような話、しかもあなたが読んだことがないであろう古典文学、わたしにとってはまさしく興味津々のリストである。

以下の十作品が挙げられていた。

Petronius, The Satyricon, cAD64
Lady Sarashina, As I Crossed a Bridge of Dreams, 11th century
Sivadasa, The Five-and-Twenty Tales of the Genie, c13th century
Marguerite de Navarre, The Heptameron, 1558
Margaret Cavendish, The Blazing World, 1666
Jan Potocki, The Manuscript Found in Saragossa, 1805-15
ETA Hoffmann, The Life and Opinions of the Tomcat Murr, 1820-2
Comte de Lautreamont, Maldoror, 1868
Emilia Pardo Bazan, The House of Ulloa, 1886
MP Shiel, The Purple Cloud, 1901

「サティリコン」はわたしも素晴らしい作品だと思う。映画にもなっていたが、あれを見てから原作を読むとイメージが膨らみやすいかもしれない。「更級日記」が二つ目に挙げられているのは日本人としてうれしいし、この記事の書き手ヘンリー・エリオットの読書の幅広さに驚かされる。あの異様な情念は確かに世界的に見ても類例を見ないと思う。堀辰雄が「更級日記」の現代語バージョンを書いていて、これも悪くない。実を言うと、わたしは「菜穂子」なんかよりそっちのほうが印象に残っている。

ホフマンの小説は「牡猫ムルの人生観」というやつだが、もう内容はすっかり忘れた。「砂男」はいろいろな本で言及されているので、そのたびに思いだし記憶に残っているが、「ムル」のほうはまるで覚えていない。しかし覚えていない作品のほうが無意識に沈殿していて、いつのまにか意識に大きな影響を与えていることがある。「マルドロールの歌」も大学時代に読んだ。記事の脇にペンギン・クラシックスの表紙が出ていて、いまでもあの図柄を使っているのかとなつかしかった。怪奇をうたった作品ではあるが、あまりわたしの好みではない。ロマンチックな想像力から生まれた怪奇にはさほど惹かれないのだ。それよりも明晰な理性から生まれたポーのような怪奇のほうが面白い。

最後のシールの作品「紫色の雲」は訳そうかどうか迷っている。彼の Children of the Wind という作品もなかなかの出来だし、プリンス・ザレスキー以外にもすぐれた作品を書いていることはもっと知られるべきだと思う。「紫色の雲」は語り手が北極を探検している間に紫色の雲が世界を覆い、人がいなくなってしまうという話である。語り手は誰もいない各地域を彷徨い歩くのだが、これが案外読み手をわくわくさせるのだ。

以上を除いた残りの五冊はまだ読んでいない。できたら年末にでも目を通したいと思っていたが、次に翻訳する本の関係で今は第二次世界大戦を描いた作品を大量に読みあさっており暇がなかった。残念。

Saturday, January 5, 2019

石川修司の全日入団

石川修司が全日本プロレスの所属選手となった。一月二日の晩に全日のホームページを調べたら、所属選手一覧の中に石川修司がちゃんと入っていた。その下の「主な参戦選手」にも石川修司の名前と写真が出ていたのはご愛敬。若手も増えたし、だいぶにぎやかになってきた。

全日のいいところはフリーの選手や他団体の選手を積極的に自分たちのリングに招くことだ。主力選手達も外部の選手とチームを組んでうまくやっている。先のチャンピオン・カーニバルで秋山は関本と組んだし、宮原はヨシタツと、諏訪魔は石川とタッグチームを組んでいる。どの組み合わせも独特のカラーを創り出していて面白い。

また大きな大会になると、火野や崔、真霜や KAI といった在野の強豪を招くから、一種独特の凄みが出る。去年のチャンピオン・カーニバルで大型外人二人を呼んだのも大成功だったと思う。

国内だけでなく国外にも開かれたリング、それが全日の魅力である。そういう交流が所属選手を増やし、全日を大きくしつつある。石川は日本で最強のレスラーの一人だ。所属選手になったことを機にさらに大きく飛躍してもらいたい。

Thursday, January 3, 2019

精神分析の今を知るために(1)

今哲学の世界でもっとも強力な議論を展開しているのはラカン派と言われる人々である。その内容をまとめることは、わたしにはとてもできないけれど、わりとわかりやすい断片的言説をこのブログで紹介してみてはどうだろうと思いついた。たくさんの断片を提示するうちに、もしかしたら読者の頭の中で点が線をつくり、線が面に広がるかもしれない。

わたしが今読んでいるアレンカ・ズパンチッチの「性とはなにか」からまず引用していく。

ひとつ注意して欲しいが、わたしはこの本のエッセンスを示すために引用するのではない。ラカン派の考え方がわかりやすく表出されている部分を抜き出すだけである。

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ルイ・アルチュセールがそのすばらしいエッセイ「マルクスとフロイトについて」で議論しているように、マルクス主義と精神分析に共通している点、それはおのおのが理論化しようとしている「対立」の「まっただ中」にそれらが位置していることである。マルクス主義も精神分析も、それら自身が、それらが対立的で相反していると認識する現実の一部なのである。そのような場合、科学的客観性は中立な立場となり得ない。それは存在する対立、あるいは現実にある搾取を覆い隠すものでしかないのだ。どのような社会的対立においても、「中立的」な立場はいつも、必然的に、支配階級の立場である。それが「中立的」と見えるのは、それがすでに支配的イデオロギーとなっていて、常に自明性を帯びて見えるからである。このような場合、客観性の範疇は中立ではなく、理論がその状況内においてどれだけ特殊な、個別的立場を取りうるかという、その能力である。この意味で客観性は「偏ること」「党派性を持ちうること」と結びついている。アルチュセールはこう言っている。対立的な現実をあつかう場合(マルクス主義も精神分析も対立的現実を扱う)、人はあらゆる場所に立ってあらゆるものを見るわけにはいかない。ある立場はこの対立を覆い隠し、ある立場は対立を剥き出しにする。対立的現実の本質をつかもうとするなら、まさにこの対立の中にある、ある特定の立場に立たなければならない。(前文より)

Wednesday, January 2, 2019

主体という概念

ラカンがいう主体の概念をわかりやすく説明するとこうなる。

われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。

では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。

それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。

これがラカンのいう「主体」である。

われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。

この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。

しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。

逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。

Tuesday, January 1, 2019

TAJIRI 対 力

YOUTUBE に GAORA TV チャンピオンシップをかけた TAJIRI と力選手の試合が出ていたので、見てみた。わたしはプロレスの試合は実況アナウンサーの声が嫌いで(単にうるさいという理由であって、個人的に声の質が嫌いとか言葉遣いが厭ということではない)いつも音声を消して見る。だから力選手のことは全日本のツイッターでささやかれていたこと以外はなにも知らない。

動きを見る限り、力選手はまだ新人の部類のようだ。チョップを打つとき、腰が入っていないため、ペチと音を立てそうな弱々しい打撃になってしまっている。動きもまだぎこちなく、怪我をしないか心配になった。

面白かったのは TAJIRI が場外で鉄柱を背にして立っているところへ、助走をつけてチョップを打ちにいったところ。一度失敗し、手を鉄柱に打ち付けたのだが、そのあと TAJIRI がもう一度鉄柱を背に立ったところ、力選手はまたもや助走をつけてチョップを打ちにいき、見事に鉄柱をたたいてしまった。こういうところがレスラーらしくて楽しい。いや、頭が悪いというのではない。奇妙な意地みたいなものがあって、それが合理性を無視した行動に走らせるのである。力選手はチョップに異常なこだわりがあるのだろう。たしか彼は空手チョップで有名な力道山の子孫だそうだ。

TAJIRI 選手は新人を相手に魅せる試合をしようといろいろ工夫を凝らしていた。ここが TAJIRI 選手のいいところだ。笑いを取ったり、相手の得意技を引き出したり、巧妙に場を盛り上げる試合の仕方を知っている。最後は「チョップを打つならもっと腕を鍛えろ」といわんばかりに肘関節をきめて王座防衛。フリーの選手だが、いまでは全日本になくてはならない一人である。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...