Friday, September 28, 2018

マッチョのための文学案内(1)

「ボディ」 Body by Harry Crews

1992年に出た小説。ボディビルを真っ向から扱った英語の小説は、おそらくこの作品だけではないだろうか。

本編の主人公はドロシー・ターニップシード。ターニップシードとは「カブの種」という意味になる。泥臭い名前だ。事実、彼女はジョージア州の田舎に生まれた。しかし秘書の資格を取り、ボディビルのジムに就職してから、彼女の人生は変わる。

ジムのオーナー、ラッセル・モーガンは彼女の骨格のよさにほれこみ、みずからコーチとなって彼女を鍛え上げる。さらに名前をシェリール・デュポンに変えさせ(フランス風の気取った名前だ)、ミス・コスモスというボディビルの大きな大会に出場させる。彼女は優勝候補の一人と噂される。

しかしここで問題が起きる。彼女はコンテストに出る自分の姿を見てもらおうと、田舎の家族、および(かつての?)フィアンセを会場のあるホテルに宿泊させるのだが、こいつらがとんでもなく無知な田舎者で、おまけにフィアンセは半分、殺人狂のような男なのである。

さて彼らがホテルに着いてまずなにをしたか。

彼らがホテルのプールに来ると、チャンピオン候補のビリー・バットがプールサイドでラット・スプレッドをしていた。猛烈に身体に力を入れていたので、全身がぷるぷると震えている。これを見てボディビルディングのことなどなにも知らないターニップシード一家は、ビリーが痙攣を起こしているものと思いこみ、全員で彼に飛びかかり、彼らが救急処置と考えるものを行ったのだ。すなわち彼を押し倒し、胸を殴りつけ、首を絞め、娘がマウス・トゥ・マウスに取りかかった。

いやはや。しかし話はここからさらにとんでもない方向に進んでいく。ビリーはかんかんに怒るかと思いきや、彼にマウス・トゥ・マウスを施した、巨大なデブ女に惚れこんでしまうのだ。彼は身体に脂肪がつかないよう、ずっと禁欲的な食生活をしてきた。ときどき我慢しきれずジャンクフードを食べることがあるが、食べたあと、すぐさま吐き出してしまう。だから油がべっとりついたピザやらマクドナルドのドラムスティックをむしゃむしゃ食べて、ぶよぶよに脂肪をつけた女が大好きなのだ。

この奇怪なカップルの話は異様な盛り上がりを見せるが、次の日のコンテストに場面が移ると、ふたたびシェリールが主役となる。ここはこの小説の最大の見せ場なので、詳しいことは書かないけれども、華やかなショーの背後で人間の欲望が渦巻き、コンテストに挑むトッププロの緊張感があふれ、ボディビルのグロテスクな側面も、崇高な側面も、すべてが垣間見られる。

この試合に人生のすべてを賭けたシェリールの姿、肉体を越えた肉体で人間の頂点に立ち、人間を越えようとする彼女の姿は、家族の者すら近づきがたい威厳を放ち、まるで別の次元に存在しているかのようだ。

そして小説は意外で衝撃的な結末を迎える。

*******

ハリー・クルーズの小説を読んだのはこれがはじめてだ。よい作品だったかというと……ちょっと疑問が残る。戯画的な描写やギャグは見事だと思う。南部訛りもうまく表現してある。しかしいささか品がなく、最後がとってつけたような展開で終わっている。「肉体」はアメリカを語る上で重要なテーマであるはずなのに、それに深みや豊かさを与えることができなかったようだ。ボディビルに関するテクニカルな情報はちりばめてあるが、肉体にあこがれ、魅了される人々の根本的な幻想に対する小説的な洞察がない。

が、冒頭でも言ったように、この小説はボディビルを真っ向から扱った、ほとんど唯一の作品である。それに文学としてはどうかと思われるが、エンターテイメントとしては標準といったところ。一読して損はない。

Tuesday, September 25, 2018

Jのコンビネーション

九月二十四日、王道トーナメントの最終日、ジョー・ドーリングとディラン・ジェイムズがタッグチームを結成した。

二人は王道トーナメントの一回戦でぶつかり、ジョーが勝利をしている。しかし試合後に彼がジェイムズを「尊敬できる」相手として持ち上げていたため、おそらく多くのファンが今回の事態を予想していたのではないだろうか。エボルーションを抜けてからジョーが単独で戦っている姿を見て、早くよいパートナーが見つかれば、と思っていたファンも多いだろう。わたしもその一人である。そして組むとしたらジェイムズではないかと思っていた。どちらも英語で意思の疎通ができるし、身体もでかい。似合いの二人なのである。全日本だけでなく、海外に出て活躍することも可能ではないだろうか。

英雄並び立たずで、いつかはまた戦うことになるだろうけど、強力なタッグができたことで、われわれは新たな楽しみを得た。

ジェイムズは今まで崔領二と組んでいた。おそらく崔には全日に来るまでのあいだ、いろいろと世話になったのだろう。なにかの記者会見の席でジェイムズが神妙な顔で崔や秋山社長に礼を言うのを聞いたことがある。しかし同時に彼の優等生じみた振る舞いにもやもやしたものを感じたことも事実だ。今回彼はそうしたしがらみを一応振り切り、全日を主戦場に自分らしく戦うという宣言をしたのだと思う。諏訪魔・石川組を追い上げ、追い越してくれるか、楽しみである。

Sunday, September 23, 2018

寝返り

腕立て伏せをする際、肩幅に合わせて床に手をつけば、腕の筋肉を鍛えることができる。肩幅よりもやや広く手をつくなら、胸の筋肉を鍛えることができる。わたしは両方をやるようにしている。

ホーム・ワークアウトではあまり筋肉は大きくならないと言われているけれど、そんなことはない。短期間に一気に、ではなく、時間をかけて少しずつ筋肉をつけたいという人は、すくなくとも最初のうちは自重運動がもっとも適していると思う。

わたしが腕の太さを感じたのは寝ているときだった。わたしは結構寝返りを頻繁にうつほうなのだが、あるとき、寝返りが打てなくて、はっと目が覚めた。

それまでは腕が細かったから、腕を下にしたまま、ごろりと反転することが可能だったのだが、腕が太くなると、反転しようとする身体の邪魔をするようになったのである。まるで自動車の行く手に横たわる倒木のような感じだった。

自分の腕に、自分の動きが疎外されるという、それまでになかった事態が発生し、夢うつつの状態だったわたしはぎょっとして起きてしまった。

それ以来、寝ているときに腕が邪魔に感じられるようになった。仰向けに寝ながら胸の上で腕組みすると、重くて圧迫されるような気がする。体側に伸ばしておくと寝返りの邪魔になる。

筋肉がつくのは嬉しいことではあるけれど、自分との付き合い方が変わっていくということでもある。

Friday, September 21, 2018

古井由吉の「影」

小説というのは物語の形で認識を語る。認識とは、まあ、哲学と言ってもいい。小説が鋭さを持つとき、それは認識に切り込む鋭さを持っているということだ。

哲学的な言辞を弄している部分に小説の「哲学」があると思ってはいけない。具体的で日常的な事実について語っているように見えても、実はそれが認識を語るひとつの装置として機能している場合がある。古井由吉の「影」が冒頭で提示する夜の景色はまさにそれだ。

語り手はマンションかアパートに住んでいるらしい。夜中にベランダに出ると、彼が住む建物と同型の建物が遊園地をはさんで真向かいに建っている。語り手は夜更かしするタイプらしく、時刻はもうだいぶ遅い。しかし向かいの建物を見ると電気がぽつぽつとともっている。「スタンドの光のひろがりの中心に、じっと動かない影がある。その影がときどき机から躰を起して寛いでいるのが、手に取るようにわかる」それを見て語り手は「いい加減にして寝ろ」とつぶやく。

二段落にわたってこれだけのことが書かれているのだが、すでにこの作品が語ろうとしている認識の、重要な要素が提示されている。

まず、語り手の「わたし」がいて、「わたし」はもう一人の「わたし」を見ている。スタンドの光の中心で、じっと動かないでいる影とは、まさに古井由吉を思わせる語り手本人の姿にほかならない。わたしと、もう一人のわたし。すなわち「影」。

さらにわたしと影のあいだには遊園地がある。わたしと、もう一人のわたしの間には、ある距離が存在するのだ。

この三つの要素、つまり「わたし、影、距離」がこの作品の認識を説明するキーワードである。

このことは三段落目において、語り手が父親そっくりの咳の仕方をするようになったと語る部分でも確認される。父と子、それは明らかに「わたしと影」の関係と重なり合う。

「わたし」と「影」は分身関係であり、両者はまさしく同一でありながら、同時に同一ではない。そこには不可解な「距離」が存在するのだ。この奇妙なパラドクスを「影」という短編はさまざまな例を通じて探っていく。

哲学における同一性と非同一性の議論や精神分析に興味のある人であれば、上記の三つの要素を通してこの作品が語ろうとしている認識を興味深く読むことができるはずだ。

とりわけこの三者関係の中から「死」が析出されていく過程はスリリングであり、また不気味でもある。

Wednesday, September 19, 2018

ジェイク・リー

全日本プロレス・王道トーナメントの開催にあたって、選手たちがその意気込みを記者会見(ドンキホーテ渋谷本店)で語った。

その中で笑ってしまったのが秋山準とジェイク・リーのやりとりだった。

ジェイクは、自分は母子家庭に育ったので、秋山は軽い父親のような存在だ、と言った。秋山は「軽い」とはなんだ、と怒った振りをしたが、まんざらでもないような顔だった。

ジェイクのいわんとすることはわかるが、もうすこし語彙力をつけてほしい。「軽い」じゃなく、「ある意味で」くらいのフレーズを使ってくれ。

しかしそんなことはどうでもいい。

このやりとりで、ジェイクは秋山を父親、師と見なし、秋山もジェイクを息子、弟子として、温かく見守り、期待を掛けていることがわかった。それを見てわたしは、秋山も年を取ったな、と思ったり、社長として若手の育成に力をいれるのは当然のことだ、と思ったり、プロレスの中でつくられる不思議な人間関係や、若いなりに苦労してきたジェイクの来し方を振り返り、複雑な感情が湧いてきた。全日本プロレスは秋山が社長に就任していい団体になったと思う。

さて、九月十七日後楽園でおこなわれた秋山準対ジェイク・リー戦では、ジェイクがジャイアント・キリングで秋山に勝った。シングルではまだ秋山に及ばないと思っていただけにジェイクの勝利にはびっくりした。単に力だけなら若手のほうがすぐれているかもしれないが、試合運びとなると秋山に一日も二日も長がある。ジェイクもその点はまだ足りないと思っていた。

実際、試合の詳報を読むと、秋山の猛攻にジェイクが苦戦を強いられつづけたようだ。が、とにかく一勝を挙げたことは彼にとって大きな自信になるだろう。

わたしは若手の中では青柳よりも、野村よりも、ジェイクがいちばん力があると思っている。彼の膝の攻撃やキックはいかにも重くて迫力がある。野村に較べてスタミナにはやや難があるのかもしれないが、頭を使った攻め方をする。

次の相手は宮原。秋山が父親だとしたら、宮原は兄貴になるだろう。そして宮原もジェイクの成長を待ち望んでいるはずだ。ジェイクはつくづくいい環境にいると思う。奮起して早くトップ戦線に躍りでてほしい。

Monday, September 17, 2018

アマゾンから自己出版→文学賞候補

マルコ・コスカスはフランス系イスラエル人の作家で、今までに十冊以上の本を普通の出版社から出していた。ところが新作 Bande de Francais はどの出版社からも出版を拒否され、とうとうアマゾンから自己出版せざるをえなくなった。

するとどうだろう、この作品がフランスで最も有名な文学賞の一つ、ルノードー賞の候補にあがったのである。

とたんにフランスの書籍販売業者から審査員に「本を守って欲しい、本を脅かす連中を守るのではなく」という要請が出た。

どういうことかというと、アマゾンから出た本は本屋の店頭に並べることができないからである。かりにコスカスの本が賞を受賞したとしても、フランスの書籍業者には一文の溶くにもならないのだ。アマゾンができたときから伝統的な書籍販売業者とのあいだには確執があったが、それがここで大きく再燃した格好である。

しかしアマゾンも本屋も同じ出版業者だと思う人に取っては、これはどうでもいい問題である。どこから出版されようが、その本に価値があれば、文学賞が与えられて当然ではないか。

以前、文学賞は「文学的価値のある本を選ぶ」ためのシステムと考えられていたが、アマゾンが出現してからは、「本を売るための仕掛け」、つまり書籍販売業者が売り上げを伸ばすためのツールという側面が露わになった。よくは知らないが、多分大手の出版社は文学賞にそれなりの金を出しているだろうから、なおさら自分たち以外の業者にその果実をかっさわれることに不満を感じているのである。

が、そういう金にまみれた欲望をあらわに表出することはできないから、「本を守って欲しい」などという体裁のよい要請をでっちあげたのだろう。

AIの活用によって人間の職業に大きな影響が出ると取り沙汰されているが、インターネットの出現により伝統的な出版形式(本だけでなく新聞雑誌なども含む)が変化を余儀なくされているということも、何年も前から言われつづけているではないか。いまさらなにを、というのがわたしの感想である。

ただ、ガーディアン紙に載っていたマルコ・コスカスの意見にはちょっと疑問がある。彼はこう言ったのだ。「なによりもアマゾンは文学的意見を持っていない。それが重要だ。彼らはわたしの書き物の内容にコミットしてこない。彼らはわたしに出版費用を求めることはない。マッチメーカーと同じで、製品が売れたらその分彼らにも金が渡る。わたしはそのどこにも不満はない」

アマゾンははたして文学的意見を持たないだろうか。ここが大きな疑問である。アマゾンも結局のところ企業であり、時の権力と結びつくこともありうる。そのとき、アマゾンは権力との結びつきを巧みに隠蔽しながら検閲や何らかのコントロールをはたらかせようとするだろう。そうした事例は実際すでに起きている。

フランス国内の出版社は反イスラエル的な感情を持ってコスカスの本を拒否したのかもしれないが、国際企業であるアマゾンにとってそんなことはどうでもよいことだった。アマゾンが中立的立場だからコスカスの本を出版したのではなく、利益の得どころがフランスの出版社とは違っていたのである。

この利益の問題を文学的意見のあるなしと見間違ってはいけない。

Saturday, September 15, 2018

「わが名はジョナサン・スクリブナー」 I Am Jonathan Scrivener

クロード・ホートンが1930年に出した名作である。わたしは数回この小説を読み返している。

主人公で語り手でもあるジェイムズ・レクサムはもう四十に近いというから若いとはいえないだろう。戦争を経験し、人生をある程度学んだ彼は、ふとしたきっかけからジョナサン・スクリブナーという紳士の秘書になる。

秘書になるといっても、彼は雇い主にあったことが一度もない。スクリブナーはずっと海外に出ていて、仕事の指示は手紙でなされるだけなのだ。

レクサムは雇い主の家に住み込み、そこで雇い主の知り合いたちと出会う。レクサムは雇い主がどんな人物なのか知りたいと思うのだが、知り合いたちから得た情報はてんでばらばら、一貫した人物像がまるで浮かんでこない。

これはどういうことだろう。レクサムはジョナサン・スクリブナーという謎に取り憑かれ、断片的な手がかりからあたかも推理小説のようにその人物像を再構築していく。

はじめて読んだときはとにかく驚いた。これだけの作品がなぜ人に知られず埋もれているのだろう、と。Goodreads.com の評価を見ればわかるが、この作品に接した人は一様にみなそう思うようだ。

わたしが面白いと思ったのは、この作品が集合論を想起させる点である。どういうことか。たとえば1,2,3,4……という自然数の集合を考える。要素はさまざまな性質を持つ個々の数値で、これが無限に存在する。この個々の自然数の要素の中にすべての自然数という集合それ自体が混入することを考えて欲しい。これが「ジョナサン・スクリブナー」という物語だ。

これはマルクスが商品世界における貨幣の存在について次のようにいったことと関連してくるだろう。

形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

集合それ自体が要素の中に混在するなど、奇妙なことだと思われるかもしれないが、マルクスによれば、われわれの社会の根底を作る貨幣は、まさにそのような「奇妙な」存在である。

この集合論をもっと文学に近づけよう。これは「ジョナサン・スクリブナー」の中でも言及されていることだが、シェイクスピアは「万の心を持つ myriad-minded」と言われている。彼はあらゆる階層、あらゆるタイプの人間を生き生きと描き、その想像力の幅の広さではおそらく古今東西で唯一の劇作家である。彼のケースを集合論にあてはめるとこんな具合になる。シェイクスピアの心は集合で、彼が描き出した人物たちはその要素、という具合に。そして「ジョナサン・スクリブナー」が興味深いのは、まさしくすべての要素を含む集合それ自体が、要素にまじって闊歩している点である。

しかもこのような存在は不可能な存在でもある。人間の可能性のすべてを所有しているということは、絶対的に善良な心を持ち、かつまた同時に絶対的に悪の心を持つことでもある。このような矛盾をかかえる一者ははたして存在するのか。いるとすればそれは謎であり神秘である。「ジョナサン・スクリブナー」はその謎と神秘を見事に感じさせてくれる、とてつもない作品なのだ。

Thursday, September 13, 2018

地震のあと

九月六日の午前三時頃、北海道に地震が起きた。

目が覚めてすぐに大きな地震だとわかったが、別にあわてることはなかった。ただやたらと本棚や机の上の物が落ちた。あんなに物が落ちた地震ははじめてだ。

地震の直後は家の中の片付けをした。物が落ちたと言っても、壊れ物はなく、元に戻せばいいだけだ。しかも電気がついていたからさっさとすんだ。家人がテレビで臨時ニュースを見ていた。原発が動いてなくてよかったと話をした。

しばらくして急に電気が消えた。わたしは妙だなと思った。揺れてもいないのになぜ停電するのか。あとで聞くとブラックアウトだという。あとでその仕組みを聞いたが、なぜこんな欠陥システムを用いて送電していたのか。

七日の日に近くを出歩いてみた。道路のアスファルトが盛りあがって裂けたところが一箇所あった。折れた街路樹が数本あった。公園の木も二本折れていた。電線が切れて応急処置を施したところも一箇所目についた。

人々が舗道上で右往左往している。買い物のできる場所を捜しているのだ。普段よりも交通量が多いように思われたが、おそらくあれも買い出しの人々の車だろう。

コンビニに入ってみると棚はからっぽ。わたしの好きな業務スーパーを見ると大混雑……と思いきや、なんだか様子が変だ。よく見るとレジ待ちの客の列がうねうねと通路を埋めているのだ。日本人は列を作るのが好きだから、あれで結構楽しんでいるんだろうと思いながら店を出る。誰かが「お正月みたい」と言っているのが聞こえた。

Tuesday, September 11, 2018

隠された人種差別

全米オープンでナオミ・オサカがセリナ・ウィリアムズを破って優勝した。その優勝決定戦が論議の的になっている。

試合で劣勢に追いこまれたセリナが、審判からコーチングの注意を受けて、苛立ちのあまりラケットを足もとに叩きつけ毀した。その行為が二度目の注意となって、セリナは一ポイントのペナルティを受ける。

その後、セリナは審判に対して「謝れ」「嘘つき」「泥棒」と暴言を吐き、今度は一ゲームを失うという重いペナルティが科せられた。わたしはテニスのファンではないのでよくは知らないが、一ゲームを失うなんてペナルティははじめて見た。

観客はみなセリナびいきで、セリナが得点すると大喚声、ナオミが得点するとブーイングというありさま。審判に対しても大いに不満を持っているように見えた。表彰式の時までナオミにブーイングを浴びせるのだから、あきれたものである。

さて、新聞を見ると審判の判断が正しかったのかどうか、その点ばかりが議論されているようだ。しかしわたしは本質的なことはこれが人種差別であるということだと考える。セリナがいうような黒人差別のことではない。アメリカの外国人に対する差別のことである。(ナオミは父親がタヒチ人、母親が日本人だ。現在はアメリカに住んでいるが、国籍は日本らしい)

まず、セリナの勝利になにがかかっていたか。第一に、彼女が優勝していれば、オーストラリアのコート夫人が持つテニス四大大会女子シングルス優勝記録二十四勝に並んでいた。第二に、セリナの出産後の初優勝になったはずだった。第三に、その記念すべき勝利を彼女のホームグラウンドで実現できたはずだった。

強い母親像、世界でトップの記録。いずれもアメリカ的心情をくすぐるものだ。セリナが優勝していれば、アメリカ人はスーパーヒーロインを通してこうした愛国的満足を得ていたはずなのだ。

ところがその快楽が盗まれてしまった。盗んだのはもちろんナオミという外国人だ。彼女に終始ブーイングが浴びせられたのは、彼女がアメリカ的快楽の源泉を盗もうとしているからである。審判はたまたまこの二者の構図に割り込み、とばっちりを受けたにすぎない。「泥棒」と呼ばれたのは、実は審判ではなく、ナオミのほうである。

バーバラ・バーカーというスポーツ記者は、「セレナにペナルティを与えたのは、NBAファイナルの第七戦、残り十秒という瞬間にマイケル・ジョーダンにトラベリングの反則を宣告するようなものだ。審判にはそうする権利はあるのかもしれないが、しかし優勝決定戦がそんなふうに決まることを審判は本当に望むだろうか」と言っている。なにを言っているのだろう。反則は反則である。国民的英雄が活躍しているのだから邪魔をするな、ルールを無視しろ、とでもいうのだろうか。

しかし彼女がいっていることは、今回の事件の本質を明らかにしてくれる。アメリカ人は快楽を求めていたのである。快楽の充足が第一に来るのであって、ゲームをゲームたらしめる規則は二の次になるのだ。

人種差別というのはまさに「他者がわれわれの快楽を奪っている」という感情に根ざす。たとえば日本で在日韓国人が差別されるのはなぜか。彼らはわれわれに支払われるべき生活保護の金を得ている、われわれに使われるべき福祉の金が彼らに費やされている、などなどいろいろな理由があるが、いずれも「われわれの快楽が他者に簒奪されている」という感情である。

トランプ大統領は日本に貿易赤字の是正を厳しく求めてくるようだが、これまた「われわれが享受すべきものを外国が奪っている」という理屈である。自由貿易のルールに違反しているというならペナルティを受けるべきだが、トランプが考えているのはそんなことではない。差別的な感情に根ざす外交処置であって、こういう要求にへいへいと従っている日本の首相、閣僚、官僚たちにはうんざりする。

少し話がずれたが、全米オープンの事件において本当に問題なのは、ナオミがアメリカ人の快楽を奪ったという点なのである。審判が批判されているけれど、快楽を奪われた怒りの矛先がたまたま彼に向かったというだけのことだ。

この根底的な差別問題を無視して別の差別問題を取り上げること(黒人への差別、女性への差別)は、欺瞞なのである。

Sunday, September 9, 2018

エドガー・ミッテルホルツァー

今、ガイアナ出身の作家、エドガー・ミッテルホルツァーの「わが骨、わがフルート」を訳している。今年アマゾンから出した「エルトンズブロディ」がすばらしいホラーだったので、大いに期待して「わが骨、わがフルート」(原題は My Bones and My Flute)を読んだのだが、案に違わずいい作品だった。さっそく訳すことにした。

「わが骨、わがフルート」はホラーというより、幽霊譚である。ミルトンという若い画家が、材木会社の社長一家(社長、奥さん、娘)といっしょにジャングル奥地へ行く。そこで社長が手に入れた不思議な古文書の謎を解くためである。

この古文書は十八世紀にギアナを植民地支配していたオランダのとある農園主が書いたものだ。奇怪なことにこれに手を触れた者は、不思議なフルートの音楽が聞こえるようになり、さらに時間が経つと、白人の幽霊が見えるようになる。そして最後には死んでいくのだ。

死を逃れるためにミルトンと社長の一家は得体の知れない心霊現象と必死になって闘う。

わたしは「エルトンズブロディ」を読んだときに「亀裂」がそのテーマであると思った。「わが骨、わがフルート」もやはり亀裂をめぐってさまざまな思考が展開されている。

たとえばミルトンは、風景を見ていると、突然目にしているものが実体を失い、現実と非現実の区別がつかなくなることがあるという。SF映画などではよく見かける場面だが、堅固な建築物が急に埃の塊のように崩れ去り、輝かしい美女がたちまち腐食して骸骨となったりする。そういうことが起き、ミルトンはそれまで築きあげてきた価値観を転覆させられてしまうのだ。

「要するにすべてがーー意識に揺らめくさまざまな象徴の動き、みずみずしさ、豊かな活動がーーじつはすべて死そのものなのである。」

われわれはシンボルの世界、象徴界に存在しているけれど、それは水の漏れる隙もなく堅固に構築された世界ではない。そこには必ず亀裂、現実界の穴が開いているのだ。われわれはこの亀裂や穴を見ないようにしているけれど、しかしそれらが存在している事実に変わりはない。ミルトンが語っているのはそういうことだ。

この本で語られる悪霊どもは、じつは亀裂や穴の向こう側から(現実界から)やってきた者どもである。

さらに面白いのはここに芸術の問題が絡んでくることだ。呪いの古文書を書いたオランダ人は、フルートで新しい音楽をつくり出そうとしていた。芸術において新しい形式や内容を生み出すとは、それまでの価値観をラディカルに否定すること、すなわち亀裂の瞬間を生み出すことだ。悪霊どもと接触する瞬間を持つことなのだ。

「わが骨、わがフルート」はたんなる幽霊譚ではない。ミッテルホルツァーの芸術観や歴史観、現実に対する哲学的な考察が読み取れるのだから。

Friday, September 7, 2018

第六回王道トーナメント

チャンピオン・カーニバルに引き続いて王道トーナメントも注目の試合が目白押しの状態になっている。

まず九月十七日後楽園では火野とボディガーが対戦する。このブログで以前わたしは、二人の対戦を望むと書いた。そのときはアジアヘビーのタイトルを賭けてボディガーが火野を迎え撃つという構図だったが、王道トーナメントもなかなかいい舞台だ。これで火野が勝ちでもしたら、「ボディガーさん、そのベルト、わしの腰に巻いたほうが似合うんちゃいますか」てなことになり、面白くなる。ボディガーが勝つとしたら、相手の不意を突いたハイキック、その後の技のたたみかけが鍵となるだろう。

九月十七日には石川と真霜の試合も組まれている。これまた大注目の一戦だ。真霜は怪我で長いこと休場していたが、体調は万全なのだろうか。彼は試合運びのうまさでは群を抜いている。攻め込まれても巧みに切り返す技術を持っていて、パワーを誇示するヘビー級の中では異彩を放っている。今年のチャンピオン・カーニバルはすごいメンツが揃った素晴らしいイベントだったが、ただ真霜が出ていないことが残念だった。是非ともその存在感を王道トーナメントで見せて欲しい。

その前日九月十六日、長野の試合ではドーリングとジェイムズが戦う。わたしはジェイムズは全日を盛り上げていくキーパーソンの一人だと思っている。たしかチャンピオン・カーニバルの最中の、六人タッグの試合で、この二人ははじめてぶつかったと記憶している。二人がリング上で向かい合うと、観客席から「おおっ」という静かなどよめきが湧き起こった。大型外人同士の試合は、今も昔もファンの心をときめかせるのだ。ジェイムズはまだ若いけれども、必ずトップ戦線に躍り出てくる選手だ。ドーリングの巨体はちょっとやそっとでは毀れないから、思い切りぶつかっていって、できることなら「喰って」見せて欲しい。

Wednesday, September 5, 2018

ゼウス vs 潮崎豪

プロレスの選手は自分のサインやロゴの入ったいろいろな物品を販売する。タオル、Tシャツ、パンツなどなど。少し前にゼウスがシルクのネクタイを販売していた。そして商品の写真の横に、ゼウス本人がスーツを着、商品のネクタイを締めている姿があった。それがはっとするほど素晴らしかった。

日本には「馬子にも衣装」という諺がある。だれでも上等の服を着れば立派に見えるという意味だ。これは「服が人間を作る」とも言い替えることができる。

しかしゼウスの写真の場合は違う。あきらかにゼウスの鍛えられた肉体がスーツとネクタイを引き立たせていたのである。ストイックで厳しい鍛錬を経たあの顔の線が、圧倒的な力でスーツやネクタイを支配し、それらを束ねていたのだ。いや、顔以外の肉体もスーツの内側からスーツを統括しているような、そんな感じさえした。

スーツ姿のスポーツ選手は不思議な色気を漂わせることがあるけれど、おそらくは肉体と衣裳の関係のうちにその秘密が隠されているのだろう。

閑話休題。

ゼウスが三冠王者になって、まず石川修司の挑戦をしりぞけた。わたしは五分五分の勝負か、もしかしたら六四で石川が勝つと思っていたから、ゼウスの勝利はすごいとしかいいようがない。

ゼウスは勝利後の記者会見でいろいろと「借り」のある選手をあげて、そうした人々とベルトを賭けて戦いたいといっていた。それは当然だろうと思う。

ただわたしは是非ともゼウスに戦って欲しい相手が一人いる。ノアの潮崎豪である。

どちらもチョップが得意で、腕力に自信を持っている。身長体重もさほど変わらないのではないだろうか。

ただし持っている雰囲気はまるで違う。ゼウスは熱血漢だが、潮崎はクールである。ゼウスは強面だが、潮崎はイケメンである。ゼウスは……

まあ、いいや。

とにかく、ある一定の共通点があり、その他はまるで反対という二人が戦うときくらい、面白い試合はないと思う。ゼウスと潮崎はまさしくそういう組み合わせなのだ。

しかも秋山・丸藤戦によって夜明けを迎えた全日本とノアの関係をさらに一歩進めることにもなるだろう。この両団体の関係は、チンケないがみあいの試合で表現してはならない。それではファンががっかりだ。しかし三冠ベルトを賭けた、格式ある頂上対決なら大歓迎である。

もしもこの対戦が実現するなら、解説には是非とも小橋建太をお願いしたい。ゼウスにも潮崎にも大きな期待をかけている人だからである。

もっともゼウス対潮崎豪に至るまでの道程は長くて厳しい。ゼウスがどこまで全日の未来を引っ張って行けるか、大注目である。

Monday, September 3, 2018

「うずくまる丘」 The Crouching Hill

ウィニフレッド・ブレイジー(1892-1964)が1941年に出したミステリ。ブレイジーはグラディス・ミッチェルの親友として知られていて、本書も彼女に捧げられている。冒頭の献辞には「この本の設定を考え、推理小説の形で書くべきだと示唆してくれたグラディス・ミッチェルへ」とある。ブレイジーは全部で四冊の本を書いているが、わたしは永年、本書と Grace Before Meat(1942)が読みたかった。Internet Archive に本書のデジタル化されたコピーがアップロードされていたのはまことに幸いだった。

しかし内容はかなり期待はずれと言わざるをえない。よい点もあるけれど、ミステリとしてはいただけない部分も相当ある。

事件は、とある女学校の教師たちが、生徒たちを、まあ、林間学校へ引率していったときに起きる。教師ら五人は生徒たちとは別の場所に宿を取るのだが、翌日の朝、そのうちの一人が絞殺死体となって発見される。検死によると彼女は前日の真夜中からその日の朝六時頃までに殺されたらしい。犯人はいったい誰か。

物語の冒頭にこの単純な事件ががさっそく示され、そのあとは刑事による関係者への取り調べが延々とつづく。

さて、この本のよいところは、関係者の個性がひとりひとり際立っているという点である。若い女性教師、オールドミス、密猟者、小生意気でおしゃまな生徒たち、それぞれ特徴があって面白い。取り調べの過程は、アガサ・クリスチーの場合であっても、事実を探すためだけの、味気ない記述になることが多いが、本書はそこを読むのが楽しい。しかも新しい参考人の話を聞くたびに、事件の新しい側面が示され、謎が深まっていくのである。わたしは前半部分を読みながら相当にこの本に期待を持った。

しかし後半に入ってから、いくらなんでもこれは……、という部分にぶつかり出した。一つだけ例を挙げると、殺された女教師と同じ部屋で寝ていたもう一人の教師が最有力の容疑者になるのだが、刑事の考える彼女の殺人の動機がひどい。彼女は教師であると同時に売れない作家でもあるのだが、刑事は「この女、殺人を犯せば有名になり、本の売り上げがあがるだろうと考えて、同僚を殺したのではないか」などと考えるのである。このあと刑事は彼女の本を出している出版社やエージェントを訪ねて、自分の考えが間違っていることを知るのだが、しかしこんな動機がありえないことは最初から明白ではないか。

また、最後に完璧なアリバイを持つように見えるある人物が見事逮捕されるのだが……この辺の話の作り方はご都合主義もいいところで、アリバイ崩しの過程も示されてない。いままで丁寧に捜査の過程を示してきたのに、最後で一気に話をはしょった感じである。

ウィニフレッドは作家としてはアマチュアである。それは事件が展開する田舎町の丘を(表題の「うずくまる丘」はそこから来ている)、シンボリックに描写しようとして、完全に失敗しているところを見てもわかる。しかし前半で感じた面白さはなかなかのものだ。色彩豊かな人物造形の技術をうまく生かした作品があればいいのだが。

Sunday, September 2, 2018

食事のこと

筋トレをするようになってから、基本的に脂質の多いものは食べないようになった。しかし脂質を制限するのは大変だ。たいていの加工食品には脂質が相当含まれているからである。

加工食品を買うときはいつも栄養成分表示を見る。するとそれまでよく食べていたパンとかお菓子のたぐいは脂質が五十とか六十グラムも含まれていることがわかった。自分は太りやすい体質なのだろうかと思っていたが、食事内容を反省するとそうではないことがわかった。食事の質がよくなかったのである。

それじゃあ脂質の少ないものばかりを食べよう、と思うと、これが最初に言った理由でなかなか難しい。加工食品で脂質が少ないものは数が限られていて、徹底して脂質を管理しようとするなら、同じようなものを毎日三度食べ続けなければならないことになる。

しかし脂質を減らすと太らなくなるというのは事実である。すくなくともわたしの場合はそうだ。一度腹回りが八十五センチ近くなり、そこから運動して八十センチくらいまで減らした。が、八十以下にはなかなかならなかった。筋トレを始めても食事を変えなかったころはやはり腹回りは八十くらいだ。ところが脂質を減らした食事を心掛けると、数カ月でさらに四センチ近く腹回りが減った。腹筋もうっすら浮いて見える。運動量が同じでも、脂質の少ない食事をすれば脂肪は落ちていく。

脂質の少ない食品ばかりであったなら、と思うけれども、おいしいものはたいてい大量に脂質を含んでいる。カロリーも摂りすぎることになる。かといって脂質を制限しすぎた食事はちょっと味気ない。

そこでわたしは一日三食のうち二食は脂質をできるだけ制限し、一食は脂質を気にしないで食べることにしている。二食だけでも、わたしのように長期的な視点で健康を考えている人間にとっては、その累積的効果は大きい。残りの一食はだいたい半額弁当とか半額総菜を食べる。弁当は揚げ物が入っていたりして脂質たっぷりのことが多いのだが、この一食だけは安くてうまいものを食べる。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...