Wednesday, October 28, 2020

知性対野蛮

香港における中国の弾圧に対して、市民は公園でアップル・デイリーを広げて抗議した。アップル・デイリー(蘋果日報)の社長が弾圧の一環として逮捕されて以来、このタブロイド紙は一種、反抗の象徴となった。が、わたしが感慨深く思ったのは、「読む」という行為が政治的な態度の表明になるという点だ。

菅野完氏が学術会議問題にからんで官邸前にてハンストをはじめたが、そのとき彼は本に読み耽った。彼がハンスト現場に持って来た本や、彼が読書する姿を見て、同様に抗議の意志をもつ人々はハンスト現場に集まり、やはり本を読んだ。反知性的な政府の振る舞いに対して、知性的な姿勢を見せる人々の姿は、妙に印象的だった。

第二次大戦中、ニコ・ロストというユダヤ人ジャーナリストがダッハウの収容所に入れられたとき、彼は収容所の図書室にある本を読みふけった。日々、まわりでは人々が衰弱して死んでいき、彼も死体を埋めたりしていたのだが、けっして絶望にかられることなく本を読みつづけた。彼は自分の周囲で起きているのは野蛮であると見定め、それに対抗するには文化しかないと、決然と解放される日までドイツの古典を読みつづけた。地獄のような状況の中で読書はニコにできる最後の、しかし凄絶な抵抗活動だった。

人々はよく現実逃避のために本を読むのだ、などと言うけれど、読書はおそろしく政治的である。そのことは世界でもっとも古い文学迫害の例を見ればたちどころにわかるはずだ。つまりプラトンが詩人を国家から追放しようとした例を見れば。

じつを言うと政治家が持っている国家観というのは一種の物語である。それらは強いアメリカとか美しい日本とか、たいてい陳腐なタイトルがついていて、中身は劣悪であることが多い。文学の勉強の基本は、まずそうした劣悪さを見抜く目を養うことだ。つまり文学を学ぶとは、文学を批判する力を習得するということなのだ。

Sunday, October 25, 2020

基準独文和訳法

 権田保之助著

有朋堂発行

「基準独文和訳法」より


問題17(p. 56)

Vergegenwärtigen wir uns die Regsamkeit des politischen Lebens, die Teilnahme, die von jedem Staatsbürger an Fragen der Politik, der kommunalen Selbstverwaltung und anderen Einrichtungen heute mehr denn je gefordert wird, denken wir an die Entwicklung von Handel, Technik und Industrie, an den Einfluß der Tagespresse sowie des gedruckten Wortes überhaupt : an jeden einzelnen tritt die Notwendigkeit heran, dazu Stellung zu nehmen, an seiner Selbstvervollkommnung unablässig zu arbeiten, wenn anders er der Gefahr entgehen will, auf der untersten Stufe der Gesellschaft sozial zu verkümmern. 


研究事項

1)die Regsamkeit des politischen Lebens -- die kommunale Selbstverwaltung -- die Tagespresse -- die Selbstvervollkommnung の訳語。

2)mehr denn je の句。

3)Stellung zu etw nehmen の成句の使用。

4)wenn anders...の意味は如何?

5)sozial verkümmern の意味とその訳は?

6):の用法。


解釈要項

1)die Regsamkeit des politischen Lebens は「政治生活の溌剌さ」。

die kommunale Selbstverwaltung は「市町村の自治」「自治体の自治」(kommunale と kommunistisch とを混同する惧あり。注意を要す)。

die Tagespresse は「日刊新聞」。

die Selbstvervollkommnung は「自己完成」。

2)mehr denn je の denn は als と同じ、即ち mehr als je,「以前よりもより多く」。

3)Stellung zu etw nehmen は「或事に対して己が態度を決する」。

4)wenn anders...は「若し…なりとすれば」といふ接続詞。

5)sozial verkümmern は「社会的に跼蹐する」。

6)上の Vergegenwärtigen wir uns..., denken wir an... の一切の意味を要約して、次の言説を起し来るものである。


訳文

政治生活の溌剌さ、政策、市町村自治及び其他の諸施設の問題への国民各自の参与が今日曾て見ざりしが如く要望されゐることを想ひ、商業・技術及び興業の発達、日刊新聞併びに一般刊行物の影響を思ふの時、各人にして社会の最下層に社会的に跼蹐するの危険より脱せんと欲せば、常住、自己完成に努むべき準備を調ふるの必要が各個々人に迫るのである。


Thursday, October 22, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著

應用英文解釋法

東京英文週報社發行

(p. 131-132)


範例

You had best go at once.

あなたは直ぐに行くに限る。


解説

Had best.

    = Would find it best to......

     ......するが一番よい。

     ......するに如くはない。

     ......するに限る。


用例

1.  You had best take it, then.

    C. Doyle

    それなら君はそれを持て行くが一番よい。


2.  "Then I had best tell the police," the gamekeeper replied.

    J. E. Muddock

    番人曰く「そんならわしは警察に訴へるが一番よい」。


3.  One of our number remarked that we had best take a short cut.

    仲間の一人は近道を行くに限ると云つた。

  short cut (=short road) 近路、捷径。


4.  "Have a cigar," said Holmes; "and you had best take a pull out of my flask, you are very wet."

    C. Doyle

    ホームス曰く「まあ、葉巻をやり給へ、それから僕の壜から一杯飲むがいゝ、君は大分濡れて居るから」。


5.  Now that I had got so far I had best proceed on my own lines, and then clear the whole matter up once and for all.

    C. Doyle

    もうこゝまで進んだから、自分の方針でやつて行つて、すつかり明かにして了ふがよい。

  Now that (=since now) もう……したから。clear......up 明かにする。once and for all 「一度ぎり」と云ふ意より「……して了ふ」の「了ふ」の意となる。


6.  If we do not rule wisely, and if our rule is not in the interest of the peoples who have come under our guardianship, then we had best never to have began the effort at all.

    T. Roosevelt

    吾人が善政を施さぬなら、又吾人の政治がその保護の下に來た人民の利益とならぬなら初より斯る事を企てなかつたがよい。

  at all 假初にも


Monday, October 19, 2020

来年のパブリックドメイン

著作権が著者の死後五十年で切れる国において、来年は1970年に亡くなった作家がパブリックドメイン入りすることになる。これがなかなか豪華な顔ぶれとなっている。

まずジョン・ドス・パソス、「U.S.A.」の作者。わたしはどちらかというと初期の One Man's Initiation とか Thres Soldiers, Manhattann Transfer などのほうが好きだが。

つぎにE. M. フォルスター。この人はほんとうにいい小説を書く。筋がよく練られていて表現も格調高い。「洗練」という言葉がぴったりの作家だ。

それからジョン・オハラ。日本での知名度はないが、アメリカでは今でも映画化された作品を通して知る人が多い。わたしは訳そうかな、と思っている作品がひとつある。

さらに小説家ではないが、文化的影響力では上記の誰にも負けていないバートランド・ラッセル。

ドイツ語圏からはエーリッヒ・レマルク。「西部戦線異状なし」の作者だ。フランス語圏からはフランソワ・モーリアック。「テレーズ・デスケール」は読んだ人も多いはず。日本人作家としては三島由紀夫がパブリックドメインに入る。

いずれも国際的知名度の高い、じつに豪華なメンバーだが、これにミステリ分野からスタンレイ・ガードナーが加わるのだ。圧巻としかいいようがない。

ほかにも良い作品を書いているマイナー作家が大勢、パブリックドメインに入る。ナイジェル・バルチンとかガイ・エンドアとかフランシス・パーキンソン・カイズとかV. C. クリントン・バデレイとかジョン・ガンサーとか、たぶん本国でも知る人はほとんどいないだろうが、いずれも生きていた頃は著名な作家で、今読んでもおもしろい作品を書いている。フランシス・パーキンソン・カイズのチェス小説やミステリは訳したいけどやたらと長いのでどうしようか迷っている。

Friday, October 16, 2020

学術?

学術会議が推薦した会員候補を首相が任命拒否した問題はずいぶん有名になった。反対を表明してハンガーストライキをする人もいるし、野党も批判的コメントを出している。

漫画しか読まない大臣、ゴルフばかりしている元首相、答弁のできない現総理、要するに言語能力に欠ける人々がこの国の舵取りをまかされているわけだ。言語能力は知的能力の基本だから、彼らが知的なものに反感を覚えるのはよくわかる。残念ながら多くの日本人も同様である。

しかし本当の問題は学者の側にある。政府による大学への締め付けがはじまった三十年、四十年ほど前から学者たちは学問の自由とか大学の自治とか、そんなことについては考えなくなっている。しかも彼らの学問的レベルも低下の一方で、それは世界に於ける大学のランキングを見れば一目瞭然だろう。

かつて日本には小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、柄谷行人といった人々がいて(柄谷はいまも活躍しているが)、日本の知的風土の形成に大きな役割を果たしてきた。しかしいま彼らに比するような若い人は出てきていない。マルクス研究者に一人わたしが期待する人はいるけれど、その影響力は先行者にくらべてはるかに小さなものとなるだろう。これは一般大衆が知的なものへの興味を失ったからでもある。

わたしはアメリカや中国の大学で教えた経験があるからよく知っているが、いずれの国の教師も言語能力が高い。いわゆる語学の四技能において傑出していて、しかもさらに専門分野の知識を有しているのだ。一方、日本の語学教師はどうだろう。はっきりいって語学能力の低い人が多い。教えている言語でその国の人と議論できないくらいの実力しかない人が大勢いる。マルクスを研究しているくせに、ドイツ語を読めない経済学者なんてのもごまんといるのだ。

日本の学問を支える人々は残念ながら知的能力に於いて世界的に劣るし、また学問の自由を守ろうとする気概にも欠けている。自分の地位に固執するだけの小心者、文科省にこびを売りながらお上の命令に従って大学改革を進めてきた日和見主義者がごまんといる。もちろん知識人たる実力をそなえ、その役割を果たそうとする人々もいるが、それは少数派に過ぎないのだ。

だから今回の問題が起きて、政府の対応を批判する人が大勢出て来た時、学術会議そのものは毅然とした反対の態度を示すのかと、かなり疑問があった。そしてわたしの危惧したとおり、学術会議は政府にしっぽを振る犬になろうとしているようである。

Tuesday, October 13, 2020

同一性の不可能

フロイトやラカンの根本的テーゼとして、わたしはわたしでありえない、という考え方がある。わたしはわたしでありえないもの、わたしの内部にあってわたし以上のものに支えられ、脅かされている。わたしがわたしであるという自己同一性の瞬間は永遠に訪れない。

ジジェクはこの議論を社会にも適用できることを示し、かつまたヘーゲルの弁証法を、同一性とその不可能性のパラドキシカルな運動を表現したものと考える。

わたしはまだラカンを読んでなかったころに同一性の不可能性について考えはじめた。シェイクスピアやホラー映画の分析を通じてそのことに気づいたのだ。同時に日本の戦争責任についても考えはじめた。国粋主義にそまった国語学者や植民地の人々に日本語を教えようとした日本語教育者、ひいては日本の帝国主義的拡大のなかに同一性への欲望を見出し、日本の敗北はそのその不可能性の当然の帰結だったと見なすようになったのである。

同一性の議論はいまでも盛んに行われている。たとえば在日韓国人の排除などはその典型だろう。ドイツや西洋では、社会にあってその有機的全体を損なう契機は、ユダヤ人によって表象された。同一性は同一性を達成しようとする欲望を持つが、それは必ず失敗する。なぜなら欲望じたいのなかに欲望を否定するものがあるからだ。いや、もっと正確に言うと、欲望の達成への路は、メビウスの帯のようにねじれていて、それをつきつめると反対の結果が生まれるようになっているのである。

このパラドキシカルな論理をよく知っているのがじつは資本主義だ。資本主義は変質を繰り返しているが、なぜそれができるかというと、資本主義は同一性の不可能性という論理を内部に取り込んでいるからである。そう遠くない過去において資本主義は社会主義と対立し、資本主義には自由があるともてはやされた。しかし現在、自由とは職を失う自由を意味する。なぜこんな変化が可能かというと、資本主義に於ける自由の定義がパラドキシカルだからだ。言論の自由、宗教の自由、移動の自由などさまざまな自由が資本主義では認められるが、その自由のなかでもっとも大切な自由は、自由を売る自由である。まさに自由の反対物が資本主義の自由を構成している。

だから同一性を求める欲望が資本主義の論理によって挫折させられるという事態が起きてもなんら不思議ではない。たとえば前者が外国人の排除を要求するが、後者は外国人の導入を要求するというように。

社会の動きを考える上で、今くらい哲学が求められている時期はない。

Saturday, October 10, 2020

基準独文和訳法

 権田保之助著

有朋堂発行

「基準独文和訳法」より


問題16(p. 55)


Heute weiß man, daß es sich kulturpolitisch um ein weit komplizierteres Problem handelt, daß man Kunst nicht ohne weiteres lehren kann, daß es vielmehr gilt, latent vorhandene künstlerische Schöpferkraft zu Betätigung, künstlerische Genußfähigkeit zur Entwicklung zu bringen, um allmählich für das ganze Volk annähernd jenen Zustand wieder herzustellen, wie er für den primitiven Menschen charakteristisch ist, jene Einheit zwischen Schaffen und Genießen. 


1)kulturpolitisch -- ein weit komplizierteres Problem -- latent vorhandene künstlerische Schöpferkraft -- künstlerische Genußfähigkeit -- annähernd -- jene Einheit zwischen Schaffen und Genießen の訳は?

2)es handelt sich um etw といふ熟語の意味は?

3)nicht ohne weiteres の句の意味。

4)es gilt..., zu ~といふ成句の意味は?

5)man weiß に三個の daß の Objektivsatz があるが、最後の daß 文章を分解し見よ。


解釈要項

1)kulturpolitisch は「文化政策的に」。

ein weit komplizierteres Problem は「遙かに複雑な問題」。

latent vorhandene künstlerische Schöpferkraft は「潜在的に存する芸術的創造力」。(künstlerisch を「芸術家的」と訳さぬやうに)

künstlerische Genußfähigkeit は「芸術的鑑賞力」。

annähernd は「略ぼ」「大約」。

jene Einheit zwischen Schaffen und Genießen は「創作と享楽との間のかの一致」。

2)es handelt sich um etw は「…が問題である」「…が重要なことである」。

3)nicht ohne weiteres は「無造作には…ない」。

4)es gilt..., zu ~は「当然~すべきである」。

5)daß es vielmehr gilt...の文を分解すれば:daß es vielmehr gilt, latent vorhandene künstlerische Schöpferkraft zu Betätigung〔zu bringen〕, künstlerische Genußfähigkeit zur Entwicklung zu bringen, um allmählich...jenen Zustand wieder herzustellen, 〔wie er (=Zustand) für den pimitiven Menschen charakteristisch ist〕, jene Einheit zwischen Schaffen und Genießen (jenen Zustand の Apposition).


訳文

文化政策的には、それよりも遙かに複雑な問題が重要なことゝなつてゐること、芸術は之を無造作に教へ得べきものに非ざること、而して潜在的に存する芸術的創造力を働かしめ、芸術的鑑賞力を発展せしめ、以て漸次全国民の為めに、かの原始人に取つて其の特徴となりゐる略ぼあの状態、即ち創作と享楽との間のかの一致を再興することが、寧ろ当然なさるべきであることは、今日世人の知る所である。


Wednesday, October 7, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

 早稲田大學敎授 深澤裕次郎著

應用英文解釋法

東京英文週報社發行


(p. 128-131)


範例

I

(a) I will nurse her as best I|can.

               |may.

(b) I nursed her as best I|could.

             |might.

(a) 私は出來るだけ充分に彼女を看護しよう。

(b) 私は出來るだけ充分に彼女を看護した。


II

(a) I will nurse her as well as I|can.

                 |may.

(b) I nursed her as well as I|could.

               |might.

(a) 私は出來るだけよく彼女を看護しよう。

(b) 私は出來るだけよく彼女を看護した。


解説

 I の as best は II の as well as の well が best となり、後の as が省略されたるものなり、これ強き語(best の如き)を用ひたる時には其影響として次の語は省かるゝ傾向有るに因る。

 猶ほ as best one can (may, etc.) の形は極めて困難なること、又は不可能なる事を爲さむとする時に用ひられ「出來ねど及ぶ限り」の意を含む。


用例

1.  After that, let them solve the problem of happiness as best they can.

    Max O'Rell

    幸福の問題はその後で十分に解決させるがよい。


2.  His wife -- poor cat! who has to see in the dark -- goes on with her sewing as best she can.

    Max O'Rell

    細君……可哀想な猫のやうなもの、暗がりで見なくてはならない……は出來る丈け裁縫を續けて行く。


3.  You must turn up your collar and shelter yourself as best you can against this hailstorm that beats upon you from all side, and jump into the carriage for you.

    Max O'Rell

    襟を立て出來る丈け身を包み、四方より飛び來るこの霰を防ぎ、待て居る馬車に飛び込まねばならぬ。


4.  She returned to the dining-room and made her excuses as best she could.

    Askew

    彼女は食堂に歸つて出來る丈けうまく辯解をした。


5.  I recovered myself as best I could, and followed my guide into the grim interior.

    H. Conway

    私は出來る丈け氣を慥かにもち、案内人について中の凄い所へ入つて行つた。


6.  Mr. Grant Munro pushed impatiently forward, however, and we stumbled after him as best we could.

    C. Doyle

    けれどもグラント・マンロウはいらつて進んで行き我々はどうかかうか後に跟いて行つた。


7.  He had to go and fetch every sack of coal, put it on his back, carry it with his bent body, and then aim at the hole as best he could.

    Max O'Rell

    彼は行き、石炭の袋を取つて背中に載せ、曲つた體でそれを運んで行き、それから出來る丈けうまく、穴に入れねばならなかつた。


8.  "Very nearly, indeed," I answered, still panting, and arranging the rags of my nightdress round me as best I might.

    H. R. Haggard

    「いや、すんでの事に」と私は答へた、まだ恐ろしさに喘ぎ乍ら、寢捲の襤褸を出來る丈けうまく身に纏ひ乍ら答へた。


9.  The Poles were our friends, it was true, but out of a hundred thousand men, only the Guard had wagons, and the rest had to live as best they might.

    C. Doyle

    如何にも波蘭人は味方ではあつたが十萬の兵の中で車輛を持て居るのは所謂近衛兵だけ、あとは何とか工夫して生活して行かねばならなかつた。

  it was true, but は indeed (surely, certainly, etc.)......but と同じく「如何にも(なる程、尤も)……ではあるが併し……」の意。Guard は**(二字不明)の近衛兵にして一萬五千人なりしと云ふ。


10. The unhappy culprit sustained herself as best she might, under the heavy weight of a thousand unrelenting eyes, all fastened upon her, and concentrated at her bosom.

    N. Hawthorne

    この不幸な罪人は一千人の見物が其無慈悲な眼を自分に注ぎ、其眼を自分の胸に集中して居る中で、出來る丈け神妙に身を維持して居た。

  the unhappy culprit は Hester Prynne と云ふ女にて晒し者になりたるなり。under the heavy weight of(の重き重量の下で)は「と云ふ辛さ耻づかしさの中で」なり。at her bosom 胸に縫ひつけ居る犯罪の印の scarlet letter(緋文字)を眺めてんり。



11. We had no lights, and it was as black as pitch within; so I tumbled forward as best I might, feeling my way by keeping one hand upon the side wall, and tripping occasionally over the stones which were scattered along the patch.

    C. Doyle

    燈は持ては居らず、中は眞つ暗であつたから、我々は一方の壁に手を掛けて探り探り折々は下に散つて居る石に足を取られ乍ら、やつと進んで行つた。

    as black as pitch 眞つ暗、ぬば玉の如く暗い。stumbled forward 躓き乍ら進んで行つた。feeling my way (=making my way by feeling) 探り探り進んで。


12. This thought made me shudder in spite of myself; but seeing that I must sleep somewhere, I stifled my feelings as best I might, and returned to the cavern to fetch my blanket, which had been brought from the boat with the other things.

    R. Haggard

    斯う考へると覺えず身震ひがしたが、併し何處かで眠らねばならないのだから、私は出來る丈け恐ろしさを抑へ、毛布を取りに洞穴に歸つて行つた。其毛布は他のものと一緒に船から持つて來たのであつた。


Monday, October 5, 2020

S. S. ヴァン・ダインの短編

 よっぽどヴァン・ダインに詳しい人でない限り、彼がアルバート・オーティス(Albert Otis)名義で書いた推理短編を知ることはないだろう。

1916年にピアソンズ・マガジンの一月号から八月号まで以下のような作品を掲載している。

The Wise Guy(一月号)

Full o'Larceny(二月号)

The King's Coup(三月号)

Chivalry(四月号)

The Moon of the East(五月号)

The Scandal of the Louvre(六月号)

A Deal in Contraband(七月号)

An Eye for an Eye(八月号)

これらの作品が書籍にまとめられたことがあるのだろうか。わたしは寡聞にして知らない。日本語のウィキペディアの「S.S.ヴァン・ダイン」の項目や「ミステリー推理小説データベース Aga-Search」などを見ても、出ていないので、興味のある人のためにここに記しておく。ちなみに英語版やフランス語版のウィキペディアを見るとちゃんと記載がある。

内容はハリー・フランクリンという、育ちはいいのだが経済的事情と若者らしい冒険心から詐欺師の仲間になった男と、やはり詐欺師の手先として活動している美しいリリー、さらに古手の詐欺師レッドが芝居を仕組んで悪党どもから金をふんだくる連作冒険物語である。

第一話「頭のいい男」はそれほど面白いわけではないが、犯罪と物語の比喩的な関係が興味深い。ハリーは古手の詐欺師たちとカモを見つけ金をふんだくる。詐欺というのはある物語の中にカモをまきこみ、都合のよいように彼を動かすのがその要諦なのだが、ハリーは彼らが使う物語があまりに古くて、鼻白む。実際、彼らの物語はもう使い古され、みんなにばれているのだ。それゆえハリーは新しい物語を生み出そうとする。本編は、古いメロドラマじみた先輩詐欺師たちの物語に、ハリーが新しいひねりをつけ加える様を描き出している。

千九百十年代というのはモダニズムという文学活動が開始された時期だ。モダニストたちは古いタイプの物語、十九世紀的メロドラマを否定して、新しい物語を作り出そうとしたが、そうした文学的な機運がこの短編の中にも反映されていると見て好い。もっともこの作品がモダニズム作品というわけじゃないけれど、それでも、なんとはなしに当時の時代の雰囲気をあらわすものとはなっている。

第二篇以下、彼らはハワイやら日本やらフランスやら、世界を股にかけて活躍する。

ピアソンズ・マガジンは Hathi Trust で読むことが出来る。

Friday, October 2, 2020

死の欲動

 ジジェクは死の欲動についてこんなことを言っている。

フロイトの死の欲動は自己破壊とか、生の緊張がない、無機質的状態に戻ろうとする欲求とはなんの関係もない。死の欲動は死とはまったく逆のものである。つまり「死ねない」という永遠の生命、罪の意識と苦痛にまみれて果てしない反復的循環の中に閉じ込められるという恐ろしい運命を意味するのだ。フロイトの死の欲動はそれゆえ、死とはまったく逆のものを指示する。死の欲動とは精神分析において不死が登場する契機であり、生物学的生と死、新世代が誕生し没落していくという循環を越えたところに持続する「不死」への欲求である。精神分析の究極の教えは、人間の生は「単なる生」ではないということだ。人間は単に生きているのではない。人間は過剰な生を享受しようとする奇怪な欲動に取り憑かれている。通常なるものから飛び出し、通常なるものを転覆させるある種の余剰と、情熱的に結ばれているのである。

   (The Parallax View)

ジジェクが唱えるこの死の欲動は十九世紀末の神秘思想を思い起こさせる。

わたしは以前コレーリの「悪魔の悲しみ」という本を訳した。コレーリは当時の神秘思想に深く影響を受けていて、この本にもそれがあらわれている。たとえば、不道徳な快楽にふけりまくったある女性は、死んでしまえばすべてが消えてなくなる、不道徳にふけった罪悪感も肉体の滅亡とともに存在しなくなると考える。ところが実際に自殺をこころみると、なんと肉体は死んでも魂だけはあらたな空間に引き出され、そこで永遠に生きつづけなければならないことに気づくのだ。つまり罪悪感は決してなくならない。実際、いつまでも消えない罪悪感に苦しむ人々の顔がいくつもその新しい空間には浮かんでいる。彼女はそれを知って愕然としてしまう。まさしく彼女は「罪の意識と苦痛にまみれて果てしない反復的循環の中に閉じ込められるという恐ろしい運命」に直面する。

わたしはこの本を訳出したとき、後書きに信念の外在性について書いた。これは本書の主題に直結する大きな問題だと今でも考えているが、コレーリが死の欲動についても考えていたという点を組み合わせれば、さらに深くこの小説を読み解くことができると思う。

本書の登場人物たちは神への信仰を否定している。神は死んだ、だから思いきり物質主義的に生きてやろうと考える。ところがよくよく観察すると、じつは彼らは神を信仰している「他者」を絶対的に必要としているのだ。彼らの代わりに信仰する他者がいて、はじめて彼らは不道徳な生き方ができる。これが信念の外在性の問題である。

不道徳な生き方をする者は信念を他者に預けることで、不道徳がもたらす罪悪感や苦痛をのがれる。そして彼らの死とともに罪悪感も苦痛もない無になると考えている。コレーリはこれを否定しているわけだ。まず人間は生から死へ移るわけではない。生から「死ねない」という領域に移るのだ。そしてこの領域においては信念を他者に預けることができない。罪悪感と苦痛は永遠に反復される。コレーリはこうして登場人物たちの「逃げ道」をふさいでしまうのである。

彼らの生は、一つのもの(信仰)の排除によって成立する生だ。ところがその幻想を支える基本的条件(すべてを無に帰すべき死)は、実際は一つの排除も行えない、逆の意味で obscene な領域への通り道になっている。この二つの領域の論理性と意味は深く考えるべきだと思う。

コレーリの作品は典型的なメロドラマだが、そこには奇妙な発想の鋭さがある。とりわけイギリスの女流ミステリ作家は、こうした側面を持っている。さらに、こういうメロドラマ的な発想がフロイトの議論の中で反復されているというのは面白い現象だ。ジジェクがメロドラマを好むという事実もこれとなんらかの関係があるのだろう。




英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...