Tuesday, October 13, 2020

同一性の不可能

フロイトやラカンの根本的テーゼとして、わたしはわたしでありえない、という考え方がある。わたしはわたしでありえないもの、わたしの内部にあってわたし以上のものに支えられ、脅かされている。わたしがわたしであるという自己同一性の瞬間は永遠に訪れない。

ジジェクはこの議論を社会にも適用できることを示し、かつまたヘーゲルの弁証法を、同一性とその不可能性のパラドキシカルな運動を表現したものと考える。

わたしはまだラカンを読んでなかったころに同一性の不可能性について考えはじめた。シェイクスピアやホラー映画の分析を通じてそのことに気づいたのだ。同時に日本の戦争責任についても考えはじめた。国粋主義にそまった国語学者や植民地の人々に日本語を教えようとした日本語教育者、ひいては日本の帝国主義的拡大のなかに同一性への欲望を見出し、日本の敗北はそのその不可能性の当然の帰結だったと見なすようになったのである。

同一性の議論はいまでも盛んに行われている。たとえば在日韓国人の排除などはその典型だろう。ドイツや西洋では、社会にあってその有機的全体を損なう契機は、ユダヤ人によって表象された。同一性は同一性を達成しようとする欲望を持つが、それは必ず失敗する。なぜなら欲望じたいのなかに欲望を否定するものがあるからだ。いや、もっと正確に言うと、欲望の達成への路は、メビウスの帯のようにねじれていて、それをつきつめると反対の結果が生まれるようになっているのである。

このパラドキシカルな論理をよく知っているのがじつは資本主義だ。資本主義は変質を繰り返しているが、なぜそれができるかというと、資本主義は同一性の不可能性という論理を内部に取り込んでいるからである。そう遠くない過去において資本主義は社会主義と対立し、資本主義には自由があるともてはやされた。しかし現在、自由とは職を失う自由を意味する。なぜこんな変化が可能かというと、資本主義に於ける自由の定義がパラドキシカルだからだ。言論の自由、宗教の自由、移動の自由などさまざまな自由が資本主義では認められるが、その自由のなかでもっとも大切な自由は、自由を売る自由である。まさに自由の反対物が資本主義の自由を構成している。

だから同一性を求める欲望が資本主義の論理によって挫折させられるという事態が起きてもなんら不思議ではない。たとえば前者が外国人の排除を要求するが、後者は外国人の導入を要求するというように。

社会の動きを考える上で、今くらい哲学が求められている時期はない。

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