Monday, December 30, 2019

パブリック・ドメインのにぎわい

わたしがよく閲覧するサイトはもちろん電子化された書籍が手に入る場所である。プロジェクト・グーテンバーグ(これにはヨーロッパ、カナダ、オーストラリアなどの「支部」がある)、FadePage、ManyBooks、Hathi Trust、Internet Archive などだ。ほかにも書評を書くという条件付きで新刊書が読めるサイト、なんの条件もつけずに新刊書を無料配布する出版社のサイトなどもあって、これらをめぐっていると読む本には事欠かない。

パブリックドメイン入りした本を扱っているサイトにあるのは古くて詰まらない本ばかりではないのか、と思い込んでいる人もあるかもしれないが、そんなことはない。

プロジェクト・グーテンバーグ・カナダを見ると、最近はオラフ・ステープルドンの「オッド・ジョン」や「シリウス」といったSFの名作が並んでいる。今でも人気があるし、SFが好きな人にとっては必読とさえいえる小説である。

FadePage を見ると、ジェイムズ・ヒルトンの「So Well Remembered」(日本語訳はまだないはず)やオルダス・ハックスレイの「島」、イアン・フレミングの「オクトパシー」が並んでいる。いずれも秀作で、読んで損はない。(フレミングはわたしの愛読作家。映画のイメージとは違って文章は格調高い)

本家のプロジェクト・グーテンバーグは書籍を電子化する工場と化していて、娯楽書から専門書にいたるまであらゆる書籍がずらりと勢揃いしているが、今ちらりと「新刊」のリストを見ると、バジル・ウーンという人の「私が知るサラ・ベルナール」なんて本が出ているようだ。フランスの大女優や、ベル・エポックに興味のある人ならつい覗きたくなる本だろう。またスエーデンの作家シーグフリート・シーヴェルツの代表作 Selambs(英訳タイトルは Downstream)もある。これは第一次世界大戦と資本主義をテーマにした本として有名で、いま戦争文学を読んでいるわたしはいつか読もうと目をつけていた本だ。

Internet Archive となると、その蔵書は二百万冊を越える。重複するものも多数あるが、とにかくその増え方は尋常ではない。日本語の本も、近代デジタルライブラリの本よりきれいで読みやすい。わたしは芥川の全集を Internet Archive からダウンロードして愛読している。

こんな具合にフィクション、ノン・フィクションにかかわらず、興味深い本がほとんど常時あたらしく提示されている。読むのが追いつかず、本が溜まっていくというのが現実である。本好きにはたまらない時代になったと思う。

Friday, December 27, 2019

プロテインの摂り方

筋トレをしている人はたいていプロテインのサプリを飲んでいる。わたしも以前は愛飲していた。あれは小腹が空いたときに飲むと、空腹を抑えてくれ、お菓子などをつまみ食いするよりはるかに栄養的にすぐれている。

しかしほぼ純粋なプロテインを二十グラムも一気に摂取して身体にいいのかどうか。それが気になった。そこでサプリをやめてすべて食品からプロテインをとるようにしたらどうだろうと考えた。

去年の十月くらいから、小腹が空いたらチクワやナルト、ハンペンなど、魚の練り物をちょこっと食べるようにしてみた。あれはカロリーも少ないし、タンパク質を豊富に含んでいる。しかも安い。

トレーニング後は鮭缶を食べる。近くの業務スーパーでは一缶が79円、それに含まれるタンパク質は30グラム近い。カルシウムも EPA も DHA もとれるのだからいいことだらけである。魚なので脂質は多いが、同時に野菜を食べれば、余計な脂質は繊維質が体外に排除してくれる。

三度の食事はチキンサラダなどの肉類、卵、乳製品などを必ず食べる。そうすると一日で80グラムぐらいは動物性のタンパク質がとれる。わたしは小食な方なので、これ以上は無理である。

が、このような食事を一年くらい続けてわかったのは、サプリでなく食品からタンパク質をとるようにしても、ちゃんと身体は大きくなるということだ。腕も胸も太ももも、とりわけパンプしたときはあきらかに去年よりも太くなっているのがわかる。

筋トレというとサプリを飲まなきゃならないと思っている人がいるが、べつにそんなことはない。サプリがいやな人もいるだろうし、身体に合わない人もいるだろう。そういう人は食事でタンパク質をとったらいい。とくに身体を大きくするのが目的ではなく、わたしのように健康のため、あるいはダイエットのために筋トレをしようとする人は、食事からタンパク質を摂取した方が飲みつけないサプリを利用するよりずっと身体にいいと思う。

Wednesday, December 25, 2019

アルンダティ・ロイ

ガーディアン紙に迫力のあるインタビュー記事が載っていた。「小さなものどもの神」を書いたアルンダティ・ロイと、ジャーナリストのゲイリー・ヤングの対談だ。(Arundhati Roy: 'I don't want to become an interpreter of the east to the west')

ゲイリー・ヤングの質問はいずれも鋭い。現在の政治状況の急所をつかんでいて、容易に答の見つからない難問ばかりだ。ロイはそれに対して驚くべき答を返している。こんなに白熱した議論を読むのは久しぶりだ。

全文を訳したいくらいだけど二箇所だけ紹介するに留める。ヤングは「左派は支持者は多いものの、ひとつにまとまって効果のある力とはなれない。アメリカでは過去二年間に史上最大級のデモが四回も行われたが、まだトランプは政治生命を保っている」という。インドでもアメリカでもオーストラリアでも日本でも同じ問題が発生している。ロイはそれに対してこう答える。「インドでは左派は共産党を意味します。インドの左派の大失敗はカースト制度に対処してこられなかったこと。アメリカは人種問題に対処してこられなかったのだと思います。『小さなものどもの神』以降のわたしの書き物はおおいにその問題を扱っています。カースト制度は近代インドの駆動エンジンです。ただ単には階級の問題ではないのです」

人種問題にしろ、カースト制度にしろ、社会に内在する亀裂を意味する。こうした亀裂は左派がもっとも知るべき所なのに、それに対して有効な手を打ち得ない。それは社会に否定的な影響を与えると同時に、社会を前進させるものでもあるからだ。ロイはそう言っているように思える。

別の箇所で、ヤングは「近代の右派の特徴として、起きてもいないことを起きたとして人々を納得させる、人々をまるめこんで、みずからを傷つけるようなことをさせる、ということがあると思います。わたしは人々に、自分の利益にならないことをさせる、という力に興味があります」と言う。それに対してロイは「共産党左派の最大の欠点は、すべてを物質主義で片づけようとする点です。彼らは人々の複雑な心理を理解できない。インドでは何千何万という農夫が借金を苦に自殺しています。人々は飢えている。ゆえに革命が起きる、とはならないのです」とこたえる。

質問と答えのあいだに齟齬があるような気がするが、ロイが言わんとしているのは「自分の利益にならないような行為をする背景、左派はそこに対する洞察が足りない。そこには複雑な心理があるのだが、左派は教条主義的な思考しか展開してこなかった」ということだと思う。これは今後も左派の問題点となりつづけるだろう。

ロイは作家を止めて政治活動に入ったと思われているけれど、このインタビューを読むと彼女にとっては作家活動自体が政治活動、すなわち戦いであることがわかる。すごい記事だ。

Monday, December 23, 2019

エコについて

エコについて最近二つのことを学んだ。

第一。プラスチックバッグは海洋汚染の原因になるとして世界的に評判がよくないが、ところがもともとプラスチックバッグはエコのために北欧のなんとかいう人が作ったものらしい。あれが発明される前は商品を入れるために紙袋が利用されていたのだが、この発明家は、そのために木が切り倒されるのはまずいと考え、安価で簡単にできるプラスチックバッグを考え出したのだ。(BBCの情報番組で紹介されていた)

なるほど。木から紙を作るにはコストもかかるし、CO2も大量に排出する。プラスチックバッグのほうがエコなのだ。ところがそれが便利すぎて大量にゴミにまじって海に棄てられるようになった。さらにそれは海洋生物の体内に取り込まれ、それを食べた人間の体内にも入り込んでくる。エコの理念のもとにはじまったものが、いつのまにかエコの理念を裏切るようになってしまった。この反転現象についてはよくよく考えるべきだと思う。

第二。温暖化を防ぐためにCO2の規制が叫ばれているが、車とか飛行機とか列車を含む全輸送部門よりももっとCO2を発生させているのが有畜農業なのだそうである。さらに有畜農業はCO2の80倍以上も有害なメタン、300倍以上も有害な亜酸化窒素を発生させている。この部門を変革しなければ、ほかの部門でどんなにCO2を削減しても、パリ協定は実現可能とならない。つまり温暖化を防ぐためには我々の食生活を変えなければならないということである。どれくらい減らさなければならないのかというと、アメリカやイギリスの平均的市民は牛肉の摂取を90パーセント減らし、乳製品の消費を60パーセント減らさなければならないくらいだそうだ。(ガーディアンの記事why we must cut out meat and dairy before dinner to save the planetから)

筋トレをやっている人間はぎょっとするだろう。ホエイプロテインの摂取は温暖化防止のためにならないのだから。わたしも牛や豚の肉は食べるのを減らし、主に魚からタンパク質を取ろうかと思っている。プロテインを作っている会社も、そのうちツナプロテインなんてものを出すようになるかも知れない。

温暖化が議論される場で食が問題として取り上げられることはほとんどない。テレビなどは広告主への気兼ねがある。食肉や乳製品の関連企業はこれを問題にすること自体に異を唱えるだろう。一般の人も食生活の変更を強いられることに抵抗を感じる。しかしこの問題に取り組まなければならない状況にわれわれはもう追い込まれている。

追記

小泉環境相のアホさ加減にはあきれるほかない。彼はグレタ・ツンベルグを批判して「大人を糾弾するのではなく、全世代を巻き込むようなアプローチを取るべき」と言う。そして「こういう(全世代を巻き込むような)アプローチの仕方もあるんだということを、日本(の若者)から発信してはどうか」と言っているが、おいおい、若者にやらせるんじゃなくておまえがやれよ。環境相だろうが。それがおまえの仕事だろうが。 そしてどうやって全世代を巻き込むのか、世界に向かってちゃんと計画を示せ。まったく、しゃべればしゃべるほど世界の恥さらしになる男だ。

Sunday, December 22, 2019

全日本プロレス十二月二十一日ファン感謝デー

前座の二試合が無料放送だったので見てみたが、じつに面白かった。ファン感謝デーにふさわしいすばらしい内容だった。

第一試合はゼウス・TORU 組対 UTAMARO・入江茂弘組の戦い。もともとは UTAMARO と丸山敦が組むはずだったのだが、丸山が「まだ準備が出来ていない」という妙な言い訳をして、かわりに入江が登場することになった。リングに登場するとき丸山がマイクを握り、新ユニットの結成を予告したが、それは大笑いを誘うと同時に、新年の試合に向けてファンの期待を高めるもので、丸山のユーモアとプロデュース力を示す、見事なマイク・パフォーマンスだった。

入江の登場もうれしい限りだ。わたしは入江のファイト・スタイルが大好きだから。あの体型でスピード感のある技をよく繰り出せるものだ。愛嬌のある顔つきのせいか、女性ファンも多く、盛んに黄色い声援が飛んでいた。

試合ではさすがにゼウスが頭一つ抜け出た動きを見せていたが、入江がうまく TORU を捕らえ、スリーカウントを取った。役者がそろっていただけに、技も多彩で、迫力も充分。目を見張る第一試合だった。

第二試合は諏訪魔とジュニアヘビーの岡田のシングル。はっきり言って二十対一くらいの実力差があったが、岡田が懸命にスリーカウントを跳ね返し、ねばった。岡田は作戦を考える必要があるだろう。試合開始直後、彼は諏訪魔の脚を取ろうとしたが、すぐに上から潰されてしまった。こういうやり方ではヘビー級には勝てない。やはり相手から離れて、蹴り技などでダメージを与えなければ、苦しい。ヘビーが相手でも有効な決め技を持つことも必要だろう。青木はたしか岡田とおなじくらいの身長だったが、それでもヘビーを相手に一発を入れることのできる選手だった。青木の遺志を引き継ぐなら岡田も彼とおなじくらい戦略家にならなければならない。

Saturday, December 21, 2019

「ミスタ・エマニュエル」

ルイス・ゴールディングは1895年にイギリスのマンチェスターに生まれた。家族はウクライナ出身のユダヤ人一家である。オクスフォード大学で学び、第一次世界大戦に従軍したあと、1932年に「マグノリア通り」という小説で一躍人気作家となる。「ミスタ・エマニュエル」はその続編として書かれた。

わたしはカナダの fadepage.com にアップロードされていた本作をたまたま手にして読んで見た。「マグノリア通り」はまだ読んでない。読みはじめて、これは続編だな、と思ったが、中断するのもいやなので、とにかく読んでしまうことにした。正編を読んでいなくてもわかるといえばわかる。ただ、後日談的なおもむきが随所にあるので、「マグノリア通り」や「シルバー家の五人娘」などから読んだほうがはるかに楽しめるのだろう。

「ミスタ・エマニュエル」(1939)はマンチェスターがモデルと思われるドゥーミントンという町が舞台だ。ここのユダヤ人居住区に住むミスタ・エマニュエルは退職して息子たちがいるエルサレムに行くことを計画していた。ところがドイツからの難民(ドイツはちょうどナチスが台頭してきた頃である)ブルーノ少年と知り合いになり、彼の計画は大きく狂う。ブルーノ少年は、ドイツにいる母親から連絡がないことを苦にし、母親は死んだのではないかと思い込んで、自分も自殺しようとする。さいわい一命はとりとめたものの、この事件をきっかけにミスタ・エマニュエルはドイツへおもむき、ブルーノ少年の母親の安否をさぐろうと考える。

いくらイギリス人であるとはいえ、ユダヤ人への迫害が日増しに厳しくなるドイツへ行くというのは、無謀な行為である。じっさい、ブルーノ少年の母親の居場所を突き止めようとする彼の振る舞いは疑惑を呼び、おまけにユダヤ人による要人暗殺が起きて、彼も国際的なスパイではないかと疑われ、ゲシュタポに逮捕されてしまうのだ。しかしミスタ・エマニュエルは苛烈な取り調べにも耐え、また彼のふるさとの友人たちのおかげで、なんとか無罪放免となる。そしてついにブルーノ少年の母親の居場所を見付けるのだが……。

いちばん最後の部分は、読む人がいるかもしれないから、伏せておこう。

これはいかにも大衆受けのしそうな物語である。ドイツへの憎悪をあおり、イギリス社会の寛容性を示し、適度に感傷的。わたしはこういう物語をあまり好まないが、しかし1930年代はまだコミュニティーを描くことが出来たのだなと、感慨深く思った。日本では村社会が核家族に、核家族が個人にと分解していったが、イギリスでもこのような現象が生じたのである。

Thursday, December 19, 2019

全日本プロレス十二月七日後楽園大会

世界最強タッグ決定リーグも終わり、全日本プロレスもなんとなくのんびりした師走の一時期を迎えたようだ。十二月七日の後楽園大会は選手同士がばしばしと火花を散らすと言うより、新たな「外敵」の力量をはかったり、試合を楽しもうとする雰囲気にあふれていた。観客としても最強タッグリーグで何人もの故障者が出たことを知っているので、この時期は勝負よりもショーを前面に打ち出した興業のほうが見ていてほっとする。

なかでも出色だったのは諏訪魔・石川・渕という全日本軍と、グレート小鹿・バラモン兄弟という大日本プロレス軍との戦い。バラモンたちの異様なパフォーマンスには毎度度肝を抜かれる。しかしテレビで見ている分には非常に楽しかった。渕さんも小鹿さんもお元気なようだし、年忘れにはちょうどいい取り組み、乱闘ぶりだったと思う。(会場にいった人は傘を用意したり、ビニールシートを広げたりと大変だったようだが)

ほかの試合もよかったが、この大会で唯一本気で戦っていた試合が二つある。ジュニアヘビー王座決定トーナメントの二試合だ。一つは岡田対 Kagetora 戦、もう一つは丸山対横須賀ススム戦である。どちらも全日本対ドラゴンゲートの戦い。岡田も丸山も鬼気迫る表情で怖さを感じさせたが、ドラゴンゲートの選手のほうがはっきりと実力的に上だった。チャンスを見いだしてからの攻撃の仕方、技のたたみかけがじつにうまかった。全日ファンにはちょっと残念な結果だけれど、逆に次の岩本対横須賀戦、佐藤対 Kagetora 戦がぐんと楽しみになった。

追記

18日に全日本プロレスのホームページを見たら、「丸山敦選手失踪のお知らせ」というのが出ていた。後楽園大会後、丸山が失踪したので21日の「ファン感謝デー」新木場大会のカードを変更するというのだ。たぶん覆面でもかぶってぬけぬけと出てくるのだろう。まったく転んでもただでは起きない、というか、負けてもその負けをなんだかんだ次へとつなげていく男である。

Wednesday, December 18, 2019

クリスマスプレゼント

今日はびっくりした。

買い物の帰りに書店によったら、「このミステリがすごい」という雑誌があったので、ちょっとのぞいた。わたしはリストマニアなので、ベストテンみたいな企画が大好きなのだ。

ぱらぱらとページをめくっていたら、ある選者がわたしの訳した「わが名はジョナサン・スクリブナー」を邦訳ミステリの第六位にあげているではないか。この前、ネット上にレビューを書いてくれていたストラングル・成田さんという方だ。

目を疑うとはこのこと。いや、あの瞬間、地面が揺れたような気がしたのだが、いまのところその時刻に地震があったという報道はないようだ。ストラングル・成田さんにはもう足を向けて寝られない。ありがとうございます。すばらしいクリスマスプレゼントをいただいた。

Monday, December 16, 2019

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 66-70)

範例
(a) As I live, he is the very man we met yesterday.
(b) As I am here, he is the very man we met yesterday.
(c) As you sit there, he is the very man we met yesterday.
(d) As you stand there, he is the very man we met yesterday.
    Etc. etc.
確に彼は我々が昨日會つた人である。

解説
(a) As (true as) I live,....
(b) As (true as) I am here,....
(c) As (certainly as) you sit there,....
(d) As (certainly as) you stand there,....
   Etc.   etc.

(a) 余が生くるが如くに(眞に)。
(b) 余が此處に在るが如く(眞に)。
(c) 貴下が其處に坐するが如く(確に)。
(d) 貴下が其處に立つが如く(確に)。

此等の Adverbial Clause は
    truly, surely, certainly
等を強く云はむが爲に
    (As) I live
    (As) I am here
    (As) you sit there
    (As) you stand there
等の如き確實動かす可からざる事實を比喩として用ひたるものなり。

用例
1. As sure as he lives he shall feel my resentment.
   O. Goldsmith
   必ず思ひ知らせて呉れるぞ。
2. As I live, the directions say give one tea-spoonful once an hour!
   Mark Twain
   いや、確に一時間一回茶匙一杯やれと書いて有ります。
3. But as I live, yonder comes Moses, without an horse, and the box at the back.
   O. Goldsmith
   「いや、モゼズがあすこへ來た、馬を連れないで箱を背負つて」。
   an horse 古くは斯くの如く讀めり。
4. "No! as I live, a hedgehog! Look, Ellen, how it has coiled itself into a ball! off with it, May! Don't bring it to me!"
   M. R. Mitford.騒
   「いいえ、本當に針鼠!御覽、エレン、まるでボールのやうに圓くなつて了つたわ!こらメイ、放してお了ひ、持つて來るんぢやないよ」。
   Off with 放せ、棄てよ。

5. "A little man! as i am alive, a little man! I did not know there were such little men in this country! I never saw one in my life before!"
    Mrs. Inchbald
  「子供の大人だ、本當に子供の大人だ、この國に斯う云ふ子供の大人が有らうとは思うはなかつた。見たのは今日がはじめだ。」

6. "Didn't know, you white-livered thief!" growled Sikes."Couldn't you hear the noise?"
    "Not a sound of it, as I'm a living man, Bill," replied the Jew.
    C. Dickens
  サイクスは怒つて唸るやうに云つた「なに、知らなかつた、この臆病泥棒め! 騷ぎが聞えなかつたのか、貴樣には」
  「いや、全くのところ、ちつとも聞えなかつたよ」と猶太人(のフエーギン)は答へた。
  white-livered 臆病なる(臆病者の肝臓は白し(一字読み取れず)説より)。

7.  While I stood thus, in despair, conversing with a trio of friends upon the all-absorbing subject of my heart, it so happened that the subject itself passed by.
    "As I live, there she is!"
  E. A. Poe
  わしが斯樣に寢ても覺めても忘れる事の出來ない意中の人について絶望して三人の友人と話をしてゐると不思議や噂の主が其處を通つた。
  すると友人の一人は「そら、あすこへ來た」と云つた。
  trio 三人。the all-absorbing subject of my heart 明けても暮れても忘るゝ事の出來ない意中の人。the subject itself 話の本尊其者。

8.  And as for you, 'spuire, as sure as you stand there, this young lady is your wedded wife.
    O. Goldsmith
  「して、貴下はどうかと云ふに、この嬢さんは確に貴下の奧樣ですぜ」。

9.  If what i say to you now is ever known by others to have passed my lips, as certainly as we sit here I am a dead man.
    W. Collins
  若し今君に云ふ事が僕の口から出たと仲間の者に知れでもしたら、それこそ、僕は命が無いのだ。

10. "Yes," he said. "Your face speaks the truth this time. Serious, indeed, as serious as the money matters themselves."
    "More serious. As true as I sit here, more serious."
    W. Collins
    彼は云つた「左樣貴下の顏も今度は眞を語つて居る、いや實に、眞面目、金錢上の事柄ほどまじめだ」
  「もっとまじめです、全くのところ、もっとまじめです。」

11. The next thing he did -- as true as I sit here, as true as the heaven above us all -- the next thing he did was to carry the free end of his long, lean, black, frightful slow-match to the lighted candle alongside my face.
    W. Collins
    彼が次にやつた事は……わしが爰に坐つて居るが如く確に、皆の頭の上に天が有る如く確に……彼の次にやつた事は長い細い黑い恐ろしい火繩の一方の(火藥桶に挿して無い方の)端をわしの顔の橫にある點火された蝋燭の所へ持つて行く事であつた。

12. "Yes," replied he, "I will shake hands; for, as sure as I am here, I bear no malice. But, remember, if, by some impossible accident, we should give the slip to these black guards, I'll take the upper hand of you by fair or foul."
    R. L. Stevenson
    彼は答へた「左樣、では握手をしよう、と云ふのは斷じて惡意を抱かないからだ、併しこの事丈は覺えて居て貰ひたい、若し何かのはづみで此奴等が逃げるやうな事が有つたらわしはどうしてなりとも貴樣を負かして見せるぞ」。
give the slip to を逃がす。take the upper hand of 「に勝つ」「を負かす」。by fair or foul (善惡)如何なる手段によりても。

13. My next words, as true as the good God is above us, will put my life into your hands.
    W. Collins
    この一言で僕の命は確に君の手に握られるのだ。

14. But, as sure as God made me, I mean to put a period to this disreputable prodigality.
    R. L. Stevenson
  併し斯う云ふ外聞の惡い奢りは斷じてやめさせる積りだ。
    put period (=end) to 終わらせる、やめさせる

15. "He is gone," murmured Sibyl sadly. "I wish you had seen him."
    "I wish I had, for as sure as there is a God in heaven, if he ever does you any wrong I shall kill him."
    O. Wilde
  シビルは悲しさうに云つた「もう行つて了つた。わたし見たかつた」
  「おれも見たかつた、若しお前の身に惡い事でもしたら、屹度、殺して呉れるから」。

16. I do not know how it shall be done, but I shall have that scoundrel at my mercy as there is a god in heaven.
    R. L. Stevenson
    どう云ふ方法を以てするかはまだ分らぬが、必ず彼奴を手に入れねばならぬ。
    have...at my mercy (=in my power) 我が手に入れる。

17. Well, then, when after my late Viscount's misfortune, my mother went up with us to London, to ask for justice against you all (as for Mohun, I'll have his blood, as sure as my name is Francis Viscount Esmond), we went to stay with our cousin my Lady Marborough, with whom we had quarrelled for even so long.
    W. M. Thackeray
  それから故子爵の不幸後に私の母がお前方を相手に裁判を仰ぐ爲め、私等と一緒に(モーハンはどうあつても殺さずばおかない)倫敦に上つた時、私達は長年爭つて居たマールボロ夫人方に滯在して居た。

Friday, December 13, 2019

ウィリアム・ル・キュー

今はもうウィリアム・ル・キューなんて誰も読まないが、彼が活躍した1890年代から1920年代は、現在のル・カレにも比すべき、スパイ小説の大家だった。

Project Gutenberg から出ている Tracked By Wireless というル・キューの小説をのぞいたら、冒頭に作者に対する各メディアの賞賛の声が集められて掲載されていた。それが十八もある。

「ウイリアム・ル・キュー氏はミステリーの巨匠だ。息もつかせぬ巧みな展開で、読者を次から次へと事件の渦に巻き込み、最後のページまで一気に読ませる」ペル・メル・ガゼット
「ル・キュー氏はもっとも熟練したセンセーショナル・フィクションの書き手の一人だ。読者の興味をがっちりつかんではなさない」パブリッシャーズ・サーキュラー
「ル・キュー氏はセンセーショナル・ノベルを完璧の極にまで高めた」ノーザン・ウィッグ
「『良酒に看板は不要』というが、今人気のミステリ作家ル・キュー氏の作品に賞賛の言葉は不要である。彼の名を冠した小説はどれも独創的で最後まで巧妙に造り上げられている」メソディスト・リコーダー

こんな感じである。

ル・キューを一躍有名にしたのは1906年からデイリー・メール紙に連載された「1910年 侵略」という小説。第一次世界大戦がはじまるずっと以前に、ドイツによるイギリス侵攻を描いた作品である。ロバート・アースキン・チルダースの名作「砂州の謎」もそうだが、このころはドイツの軍事力拡大に警戒の目を向けるよう呼びかける声があった。そういう警戒心、恐怖心にうまく乗っかる形で、この本は大ベストセラーになった。

ル・キューの作品でわたしが好きな一冊は1915年に書かれた「緑色光線の謎」。殺人光線という稚気に充ちたテーマを扱いながらも、この作者にしてはめずらしく文章が引きしまっていて、緊張感をもって最後まで読める。いや、彼の作品は、当時の小説作法をわきまえて読むなら、どれをとってもだいたい面白いと言える。

Wednesday, December 11, 2019

イギリスと翻訳の賑わい

イギリスでは翻訳文学がよく読まれているようだ。エレナ・フェランテは圧倒的な人気でもって迎えられ、ナタリア・ギンズバーグやヴィルジニ・デスペンテス、日本の津島祐子や小川洋子などもそこそこ読まれている。(イギリスから見て)外国の作家が新聞紙面を賑わせたり、書店に平積みされたりするのは珍しいことだったけど、このごろはそうでもないらしい。ガーディアン紙によると翻訳文学の売り上げは去年は5.5パーセントだったが、今年は20パーセントに跳ね上がったという。

翻訳文学を熱心に出しているのは、どちらかというと小さい出版社なので、彼らの地道な努力が実ったのだ、とちょっとうれしい気分ではある。わたしは弱い者の味方だから。翻訳者もがんばっている。以前は淡泊な文章の翻訳が多かったが、今はずいぶん繊細な文章を書く人が出てきたと思う。翻訳者の努力も認めなければならないだろう。

さらに翻訳文学にイギリス人の目を向けさせた大切なもの、それは、ちょっと意外かもしれないが、ブレクスイット。離脱をめぐって大もめだが、あれによって自分たちはヨーロッパの一部なのか、それとも思っていたほどヨーロッパ的ではないのか、という奇妙な自意識、罪責感が生まれた。それが外国文学への興味へとつながった。わたしはブレクスイットを残念に思っているが、しかし翻訳文学への関心が強くなったという事実には希望を感じる。まだ他者への関心が旺盛だということだからだ。

Monday, December 9, 2019

全日本プロレス大阪大会

全日本プロレスの公式ページに、ボディガーが大けがをした大阪大会のダイジェストが出ていたので見た。

たしかに最後のほうでゼウスのスパインバスターを食らったあとボディガーは右膝を気にしている。しかし試合の流れのなかで異常を訴える暇がなかったようだ。

プロレスラーにけがはつきものと、プロレスラー自身は平然と言うけれど、わたしはこういう場面を見るとつらい気分になる。自分の楽しみのために他人を犠牲にしているような気がするからである。実を言うと、この罪悪感と向かい合うためにわたしはプロレスを見続けているような気がする。しかしこのことは場を改めて話したい。

ビデオで紹介されていたもう一つの試合は吉田・ヴァレッタ組対宮原・青柳組戦。吉田は見ていてほんとうに面白い選手だ。声も出るし、アクションも派手。ヒールだが力加減を心得ていて、無茶はしない。かえって安心して見られるのだからおかしなものだ。

試合は吉田が宮原に椅子攻撃をし、直後にヴァレッタが決め技をはなってスリーカウントを取った。一応、連携もとれているようだ。なんともおかしなくせ者コンビである。

Friday, December 6, 2019

アーサー・シュジク

前回に引き続き「わが名はジョナサン・スクリブナー」の裏話。今度はカバーの画について。

あれはアーサー・シュジクというユダヤ系ポーランド人の作品だ。本の挿絵や政治的な風刺画を描いて生前は非常に人気があったらしい。1894年に生まれ、1951年にずいぶん若くして亡くなっている。

カバーに選んだのは The Scribe という画。scribe は筆記者とか書記とか文士という意味で、わたしの翻訳の主人公スクリブナー Scrivener と非常によく似た言葉だ。これは非常に不思議な画である。眼光鋭い男はルネサンスの頃の服装をしている。しかし手に持っているのは万年筆だ。巻物に書いているのはドイツの表現派の詩である。アナクロニズム、つまり時代がめちゃくちゃである。窓の外には飛行機が飛んでいるし、壁にはアメリカのドル紙幣、ピカソ風の抽象画がかかっている。

シュジクがこの画でなにを描きたかったのかはわからない。(シュジクの伝記などを読みたいのだが、残念なことに大学の図書館は貸してくれないのだ)しかしわたしはスクリブナーという人物はここに描かれたような男ではないかと思った。金儲けもできるし、芸術家としても一流。画も描ければ詩も書ける。おそらくダヴィンチみたいに飛行機やいろいろな機械の発明もできるのだろう。彼は作品の中でシェイクスピアにたとえられているけれど、画に描かれた男もルネサンス期の衣装を着ている。うん、これだ、とわたしはこの画をカバーにすることにした。

「わが名はジョナサン・スクリブナー」はアメリカの小さな出版社ヴァランコートからも出されている。その挿絵はこんな感じである。

スクリブナーの多面性を表現した面白い画だと思う。しかしわたしの解釈では、その多面性はじつは一点に集約される。だから抽象的な画よりも、明確な一人の人物を表紙に据えてみたかった。その意味でも The Scribe はちょうどよかった。

つづく

Tuesday, December 3, 2019

推理小説的読解法

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」というサイトにわたしが訳した本(クロード・ホートン作「わが名はジョナサン・スクリブナー」)のレビューが出ていた。「訳者の解説とセットで味読したい逸品」とずいぶん持ち上げてくれて、素直にうれしい。商業ベースじゃない、個人の趣味でやっている企画にまで目を配ってもらえて、ただもう幸せの一言である。

というわけで今回は「わが名はジョナサン・スクリブナー」の裏話を披露してみたいと思う。お読みでない方には意味の通じない記事になるが、ご容赦を願う。

裏話その一。

あの解説はじつをいうと、ジャック・ラカンの議論の焼き直しに過ぎない。ラカンは「語る主体」とか「大文字の他者」といった概念を用いているが、それを小説論的に言い換えただけなのだ。ラカンの議論との平行性を明かしてさらに読解を深めることもできたけれど、一般読者でそんなものに興味のある人など、いそうもないと思ったので、やめにしておいた。でもあの解説が面白いとしたら、それはラカンの議論が面白いのである。

ラカンを読む人間は「ジョナサン・スクリブナー」のような作品が好きだ。ラカンの専門家でいちばん有名な学者の一人ジジェクは「否定のもとに留まりながら」という著作を「ブレードランナー」の話からはじめている。あれは人間としての記憶を植え込まれたレプリカントの物語だ。自分の核心にある最も内密な記憶さえ、人工的なものであったことを知り、レプリカントは涙をこぼす。彼らの主体性の内実はゼロなのだ。この映画と「ジョナサン・スクリブナー」がどうつながっているのか。この小説の登場人物もみな「作者」によってつくられた人々だ、という点で両者はつながっている。彼らもレプリカントなのだ。主体性の内実がゼロであるという考えは、ラカンの議論の一つのキモになっているのだが、こういうことを扱った作品をラカン派の人々はよく取り上げる。

ただ「ブレードランナー」の場合、登場人物のだれがレプリカントであるか、ということは明示されている。「ジョナサン・スクリブナー」の場合、登場人物のだれが「登場人物」であるかということは、ある読解操作を経なければわからない。ここは大きな違いだ。

じつをいうと、わたしは以前にもこのような読解をこころみたことがある。「ドールズ」というスチュアート・ゴードンが監督した映画を解釈した際にも、全く同様の手続きを経て、表面的な物語の背後において別の物語が展開していることを示したのである。(こちらの記事

このような読解操作で肝心なのは、ある人物を通して他者が語っているという語りの構造(おそらく作者自身も気づいていない無意識の構造)を見抜くことである。「ジョナサン・スクリブナー」の場合は「語り手」を通して「作者」が語っている。「ドールズ」の場合はジュディを通して「母親」が語っているというように。これに気づけば作品構造の奇妙なゆがみも見えてくる。そして推理小説のような読解が可能になる。わたしはこのテクニックを「わたしが語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから」という言い方でまとめている。

第二に気をつけるべき事は、背後から語っている存在が、作中に登場するとともに、作品のフレームワークともなっている点である。ジョナサン・スクリブナーは作中人物だが、その作品を形作る作者でもある。「ドールズ」の場合、母親は作品の中でその存在を言及される人物だが、同時に物語全体にその欲望を染み渡らせている存在でもある。あの映画はじつは彼女の夢なのだといってもいい。本来ならメタレベルに存在するものが、オブジェクト・レベルに混入している、あるいは階層性が維持されない、ある種トポロジカルな(内側外側の区別がないクラインの壺のような)作品構造を見抜かなければならない。

この推理小説的読解法には考えるべき事がたくさんある。テキストと無意識の関係とか、無意識と推理小説という形式の関係とか、物語とフレームワークの関係とか、テキストそのものに潜む階層性とかである。いずれも大問題に突入するだろう。わたしもじわじわと考えてはいるのだが、本格的にそこにいくまえに、もう二三作、この読解の通用する作品を見つけたいと思う。「ドールズ」のような単純なホラー映画にすらこの構造が見つかるのだから、たぶんわたしには見えていないだけで、かなりの数の作品があるはずだ。

つづく

Sunday, December 1, 2019

大丈夫か、ボディガー

全日本プロレスの最強タッグリーグに関本と出場していたボディガーが怪我で欠場することになった。大阪大会でゼウス・崔組と30分フルに戦ったとき、大腿四頭筋全断裂をおこしたらしい。

筋トレをしている人なら震え上がるような診断結果だ。大腿四頭筋とは要するに太ももの筋肉である。自重運動をする人ならスクワットで、ジムに行く人ならレッグプレスマシンで鍛えたりする。この太い筋肉が全断裂なんて、想像したくもない。

よっぽど危険な体勢で技をくらったのだろうか。それとも筋肉疲労がたまっていたところに強い衝撃が加わったのだろうか。

わたしは家でトレーニングをするときはたいていプロレスを見ながらやる。レスラー同士の力比べを見ると、ダンベルを持ち上げるこっちの腕にも力が入ってちょうどいいのだ。ボディガーの試合もよく見る。彼は筋肉量では日本でも有数のレスラー。見るだけで気合いが入る。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...