Friday, January 31, 2020

ビートリス・ハラデン「夜中にすれちがう船」

イギリスの世紀末、1890年代というのは女権論者の小説がわんさか書かれた時期である。ハラデンも有名な女権論者で、本作は1894年に公刊され大ヒットを納めた。素っ気ないほど簡潔なロマンス小説だが、悪くない。

バーナディンはばりばりの女権論者で、文学者を目指し、積極的に社会に出て行こうとしていたのだが、身体を悪くし、スイスの療養所へ行く。肺炎の末期患者が多いせいだろう、ここでは次々と人が死んでいくようだ。しかも感心しないことに、付き添いの人々は病人をそっちのけにしていろいろな国から来た男性女性と色恋沙汰を繰り広げているのだ。

バーナディンは女権論者だけあってまじめ一方だが、おかしなことに療養所で「不愉快な男」と呼ばれているある男性と親しくなる。普段は皮肉屋なのだが、あるときふと優しい、人間らしい姿を見せ、そのときから彼女は彼に恋をはじめる。

バーナディンが療養所を出てロンドンに帰ったため、二人はしばらく別れ別れになるが、あるとき「不愉快な男」はロンドンへ彼女を訪ねてゆき、結婚を申し込む……。

話の大筋はこんな具合で、べつにどうということもない。ただ、ロマンスだけれども、感傷性をいっさい排した、乾いた文章がすばらしく、なぜか最後まで読んでしまう。ロマンチックなものをロマンチックな書き方を拒否しながら描き出すという、ちょっと面白い作品だ。哲学的な言い回しもふんだんにあらわれ、無学なはずの療養所の女中さんまで Da wo ich nicht bin, da ist das Gluck などと独りごちるのだからびっくりだ。しかも意外な終わり方をしていて、奇妙な余韻を残す作品となっている。

Wednesday, January 29, 2020

語彙を増やす

わたしは本を読むときは面倒くさいがノートを取る。自分の知らない語彙、使ったことのない表現、知らなかった漢字の使い方、そうしたものにぶつかるとすぐノートに取っておいて、あとで見返す。そのファイルは十数メガバイトにもなる。わたしが小説を一冊訳すと、一般的な小説の場合は500キロバイトくらいのファイルができるから、小説数冊分の表現資料をつくったことになるだろう。

それを全部憶えているわけではないし、資料をつくったことによってわたしの語彙力が大幅に強化されたわけでもない。それでも「ちょっとは」表現の幅が広がったように感じる。

そうやって苦労しながら語彙を増やしている人間からすると、安倍首相というのはじつに情けない男で、知性のかけらもない。彼は「退位礼正殿の儀」で「国民代表の辞」というのを読んだのだそうだ。そこには

「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願って已みません

と書いてあったのだが、彼はそれを

「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません

と読んだ。この男が漢字が読めないことはつとに有名だが、恐れ多くも天皇にむかって「健康を願っていません」とはなにごとか。いや、もしかしたら彼は本音を吐いたのかも知れない。そんなふうに勘ぐりたくなるほどひどい間違いである。

つい先日も「桜を見る会」疑惑に関して追求されたとき、会への招待者を「募っているけど募集はしてない」などとちんぷんかんぷんな答弁をした。

ゴルフなんぞをやっている暇があるなら漢字のドリルを勉強なさい。そして漫画版でいいからウィンストン・チャーチルの伝記を読んで政治家のあるべき姿を学ぶことだ。

Monday, January 27, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 73-75)

範例
He advanced as rapidly as his great age would permit.
彼は其老齢の許す限り疾く進んで來た。

解説
As....as....permit (allow, let, etc)
 = にて出來得る限り。
 = が許す限り。

 此形は「或故障(一字読めず)爲め充分……すること能はざれども其故障の許す限り……す」の意。

上掲の例を此意味に書き改むれば次の如し。

    (He could not advance rapidly enough because of his great age, but) he advanced as rapidly as his great age would permit.
  (彼は老體の爲に疾く進めなかつたが)其老體の許す限り疾く進んで來た。

 猶ほ as....as 以下の Clause の Subject が動作を妨ぐるもの、即ち、故障を意味する時は permit, allow, let 等の動詞を用ひ、其動作を行ふもの又は之を助くるものなる時は make, enable 等の動詞を用ふ。

1.  Jean Valjean watched him hurrying across the garden as rapidly as his leg would allow.
    V. Hugo
  ヂヤンヴァルヂヤンは彼が一本足で歩ける丈け早く庭内を橫切つて急いで行くのを見て居た。

2.  "No Brandy," I gasped in English, as well as my swollen tongue would allow; "give me water."
    H. R. Haggard
  私は腫れた舌で言へるだけよく英語でやつと斯う言つた「ブランデーはいけない、水をくれ」。

3.  By the time that we had done laughing as heartily as our swollen lips would allow, it was daylight.
    H. R. Haggard
    我々が腫れた唇で笑へる丈け心から笑つて了つた頃には、もう夜が明けて居た。

4.  Then number of schools and pupils increased  as rapidly as the financial condition of the government would allow.
    Munsey's Magazine
    學校と生徒の數は政府の財政状態が許す限り早く増加した。

5.  As the vehicle draw up at the door of the unpretentious inn, I hurried out as fast as the stiffened state of my legs would allow me.
    J. E. Muddock
    馬車が其質素の旅館の門前に止つた時、私は脚が硬ばつて居たけれども出來る丈け早く、急いで出た。
    drew up (=stopped)止つた。

6.  Impressed with awe which the humblest sleeper usually sheds around him, the merchant trod as lightly as the gout would allow; and his spouse took good heed not to rustle her silk gown, lest David should start up, all of a sudden.
    N. Hawthorne
    最も賤しい睡眠者でも通常その周圍に投ずる畏怖の念に驅られて其商人は通風の脚で歩ける丈け輕く歩いた而て彼の妻もデヰドが急に驚き覺めぬやうに其絹の服の音をさせまじと大いに注意した。
  Impressed の前に being を補ひ見よ。lest...should (=that...might not)...しないやうに。all of a sudden は「突然」にて of a sudden に all の加はりて意味の強くなりたること all at once の at once より強きが如し。

7.  I walked on as briskly as the heat would let me, till I reached the cross-road which led to the village.
    W. Collins
    私は熱いけれども出來る限り急いで行つて、終に村の方に通ずる四つ辻に出た。

8.  The strange boy whistled; and put his arms into his pocket, as far as the big coat-sleeves would let them go.
    C. Dickens
  その見知らぬ少年は口笛を鳴らした、而して大きな上着を着て居たが、入るだけ深く衣嚢の中へ兩腕を突き込んだ。

9.  As soon as his chattering teeth would let him speak, he smiled vacantly, and said he thought it must have been the cramp.
    W. Collins
    彼は寒くて齒をガタガタと鳴らして居たが物が云へる樣になるや否や妙な顔をして云ふには「どうもこむらがへりであつたらうと思う」と。

10. He begged a few halfpence from a passers-by, and having bought a small loaf, for it was his interest to keep the girl alive, if he could, he shuffled onward as fast as the wind and the rain would let him.
    C. Dickens
  彼は道行く人の袂に縋りて數錢を得つ、麺麭の小塊を購ひ(出來得可くば娘を生かし置くは己の利益なればなり)風は吹き雨は降り居たれども出來得る限り疾く歩き行けり。

11. When he met with anything interesting or entertaining, he would read it aloud as well as his hoarseness would permit.
    W. Irving
    将軍は聲は嗄れて居たけれども面白い事が有れば出來る丈の大きな聲で、それを讀み聞かせたりした。

12. Coming suddenly on to a mound somewhat more elevated than the surrounding hummocks, I saw, not thirty yards away, a man bent almost double, and running as fast as his attitude permitted, along the bottom of a gully.
   R. L. Stevenson
  周圍の丘よりは稍々高い丘の所へ不意に出て來ると、三十ヤードも離れて居ない所に、溝の底に沿うて體を殆ど二重にし、その態度で走れるだけ早く走つて居る一人の男を見た。

Saturday, January 25, 2020

トッド・ロビンス「街の精霊」(1912)

作者名は Tod Robbins であって Tom Robbins ではない。後者はちょっと奇妙な小説を書く現代作家。トッドのほうは、「フリークス」という映画の原作を書いた人として有名だ。なんと彼が書いた最初の小説「街の精霊」が Internet Archive にアップロードされていたので読んでみた。

ジム・ホリデーという若者が田舎から都会のニューヨークへと出てくる。彼は自分に文学的才能があると自負している。彼は都会の出版社から偉大なるアメリカ小説を出して名声を獲得する日を夢見ている。

彼はニューヨークを隅々までよく知るノーマンという男に連れられ出版社へ行く。そして編集者からまじめな作品は書くな、娯楽的な作品だったら雑誌に出してやると言われる。

ジムは、当初の野望とは異なるけれど、それを受け入れ浅薄な作品を書き、作家として(金銭的には)成功するようになる。

ジムは同郷の友人ジョージとアパートに同居する。ジョージは銀行に勤めているのだが、彼もノーマンのアドバイスを受けて株に手を出し、大もうけしていた。

しかし彼らの成功が虚飾に満ちたものであることが、ある日、突然わかる。とりわけジョージのケースは悲劇的で、彼は結局命を落とすにいたる。

おおざっぱに言えばこんな話しである。これはファウスト伝説の変形版といっていいだろう。ジムとジョージを成功に導くノーマンはメフィストフェレスで、約束通りに依頼人にこの世の栄華を味わわせた後、魂をいただいて契約の決着をつけるわけである。

都会と田舎、虚飾と真実、物質的富と精神的豊饒、こうしたものが対立させられて物語は展開する。この道徳臭さがなんとも興ざめだが、しかし作者にストーリーテラーとしての才能があることはよくわかる。一つ一つのエピソードが面白く、また皮肉もよくきいている。また、ノワール的な雰囲気もうまく醸し出している。都会に潜む悪が、悪霊のように窓の外に見える場面などは、なかなかのものだ。本作は処女作のようなので、二作目以降、どのように作者が欠点を克服し、長所を伸ばしていったのか、都会の闇をどう表現していったのか、興味がある。

Wednesday, January 22, 2020

The Statement of Stella Maberly

LibriVox はパブリックドメイン入りした本の朗読を収録したサイトである。最初の頃は読み間違いが多かったり、訛りのきつい朗読も多かったが、最近はわかりやすい朗読が増えた。読み間違いも気になるほどはない。随分質が向上したものだ。

このサイトを見ていたら「ステラ・メイベリの告白」が所蔵リストに加わっているのに気づいた。

この本は以前にもレビューしたことがある。1896年に F. Anstey が出した作品だ。(F. Anstey は Thomas Anstey Guthrie のペンネーム。「ファンタジー」みたいに読めるのがミソである)彼は父と息子の心が入れ替わってしまう「入れ替わり」という奇想小説を書いて有名になった。

しかし「ステラ・メイベリ」は恐怖小説である。ステラの親友の心が悪魔に乗っ取られている。そう思った彼女が、親友を殺害するのだ。しかし本当に親友が悪魔に乗っ取られていたのか、ステラのほうが精神に異常をきたしてそんなふうに思ったのかはわからない。

面白い小説なので LibriVox に朗読が出たのをきっかけにまた読み直してみようと思った。つまり朗読を聞きながら読み直そうと思ったのである。

しかしながら正直に言うが、朗読者 annie70 さんの朗読はわたしの好みではない。少々抑揚をつけすぎで、そくそくと迫ってくるステラの異常性が感じられないのだ。おしゃべりが大好きな、そこらへんによくいるおばちゃんのように感じられてしまう。コメディである「入れ替わり」ならこの読み方でいいかもしれないが、「ねじの回転」を彷彿とさせる「ステラ・メイベリ」の場合はまずい。ちなみにジェイムズの「ねじの回転」も LibriVox に所蔵されているが、Elizabeth Klett さんによる朗読はわたしが理想とするものに近い。表情を内輪に引き締めた、緊張感のある朗読である。

というわけで、朗読は聞かず、Valancourt から出た新しい版の「ステラ・メイベリ」を手に入れて読むことにした。解説やら資料が豊富に添付された版でなかなか勉強になる。

Sunday, January 19, 2020

失われた本

クリストファー・コロンブスの非嫡出子でヘルナンド・コロンという人が十六世紀の初頭、世界最大の本のコレクションをつくろうとしたらしい。このたびそのコレクションに収められていた本のタイトルや内容を記した二千ページ以上の原稿が見つかったという。

これは興味深いニュースだ。ルネサンスの時期にどんな本が出ていたのか、どんな内容だったのか、そしてあの当時の人々は本をどのように読んでいたのか、それがわかる貴重な資料となるだろう。

十六世紀に出た本はほとんどが現代には伝わっていない。コロンは一万五千冊あまりをかき集めたようだが、現在ではその四分の一しか残っていないらしい。十六世紀といえばイギリスでは宗教改革が行われ、多くの修道院が解体の憂き目に遭った。その際、修道院に保存されていた貴重な本がずいぶんと失われてしまったらしい。

十六世紀の本なら失われてもしょうがない、と思うかもしれないが、じつは百年前だって、つい最近だって、本はけっこうなくなっている。1900年には義和団の乱のせいで翰林院の蔵書がほとんど失われたそうだし、2014年にはボズニア・ヘルツェゴヴィナを襲った政情不安のために、サラエボの国立文書館が燃やされ、貴重な資料が灰となった。

いつの間にかなくなってしまった本もかなりある。本の末尾によくその本の出版社が出している他の本のリストがずらずらと載っていることがある。わたしは好んでそのリストを眺めたり、面白そうなタイトルは入手可能か調べるのだが、どうやらなくなったらしいと思われる本は非常に多い。

まだ出版されていない時点での原稿の喪失を含めるなら、名を知られた作家に限ったとしても、かなり長大な「失われた本リスト」ができあがるだろう。これは映画のフィルムや絵画にも言えることだ。

近代デジタルライブラリーをよく利用する人なら、ページが破れてなかったり、インクが薄れて解読不能なページに遭遇した経験があると思う。村田祐治の「英文直読直解法」は、英語を頭から訳すという考え方をはじめて唱え実践した本だが、本文の最初のページが破れてない。国会図書館にあるコピーだけがこんな状態で、ほかに欠損ページのないコピーが存在しているのならいいが、どうやら、日本には「英文直読直解法」はこの一冊きりしかないようだ。日本に於ける英語学の発達を考える上で、貴重な本であるのは間違いないが、じつはすでに部分的に「失われている」のである。

文化というのは案外もろいものだ。わたしは文化保存の努力が充分ではない、などと言っているのではない。文化が伝達されるものであるかぎり、そして伝達の経路がつねに不完全で脆弱性に見舞われているかぎり、なにかが失われるということは不可避なのである。

Saturday, January 18, 2020

不安と期待

全日本プロレスの2020年は話題豊富にスタートを切った。その話題が少しずつ展開を見せているようで、ファンとしてはうれしいかぎりだ。

青柳が三冠に挑戦を表明して以後、試合のあるたびに宮原を襲撃している。彼は切れのいい啖呵をはく男で、試合後のインタビューもその威勢の良さに感心する。実力的にはまだ宮原に及ばないが、あと一つ、なにか凄みを身につければトップに立てる器である。これからも前に出て行く姿勢で戦ってほしい。レスラーというのは誰もが一国一城の主なのだから。

若手は順調に身体をつくり、実力もあがってきている。前座の試合を見ているとそれは如実にあらわれている。ただ、他流試合をすると、おとなしく見えるのはなぜなのか。正統派のレスリングといえばそうなのだろうが、なんとなく物足りない。試合中の気合いのかけ方でも、もっと観客が呼応できるようなかけ声を考えるべきだろう。もう彼らは新人じゃない。技だけじゃなく、ショーマンとしての見せ方も工夫すべきだ。

今年に入ってから怪我する選手が多い。野村、諏訪魔、青柳(弟)と小さな怪我が連続して発生している。小さな怪我でも大事を取ってしっかり治療し、万全の体制で試合に出てほしい。試合のやりくりとか、大変だろうが、わたしは選手が負傷を押して戦う姿など見たくない。

Thursday, January 16, 2020

女流作家

わたしが訳出した本は男性作家の手になるものが多い。べつに女流作家が嫌いとか、あまり読まないからというわけではない。逆にスリラーなどは女流作家の作品のほうが好きである。では、なぜ訳さないかというと、文体に自信がないからだ。

たとえばステラ・ベンソンの「お一人荘」という奇想小説をわたしは高く評価している。あれはすばらしい。しかしあのチャーミングな魅力をわたしに表現できるかというと、とてもじゃないが、無理だろう。あの感覚はわたしの理屈っぽい感性の対極にあるものだ。

E. M. デラフィールドが書いた「田舎日記」もすばらしい作品で、イギリスでは今でも人気のある作品なのだが、あれも翻訳はちょっとできない。女性特有の饒舌体の文章が、どうしてもわたしには書けないのだ。

ジェイン・オースチンの再来みたいな作家ドロシー・フィップルも好きなのだが、社交界の噂話とか、突き刺さるような女性の視線の交錯は、読む分には楽しいけれど、訳出するのはわたしの任ではない。

最近河野多恵子を読み返したのだが、話が進むにつれて、独特の世界が展開しだし(つまり、彼女は独特の世界を展開させる、独特の文体を持っている)、この独特さや感覚はわたしにはないものだな、と強く感じさせられた。

もちろん男の作家にだって、これは訳せないという人がいる。しかし女性の場合はその数が圧倒的に多い。

というわけでわたしの翻訳に女性作家の作品が少ないのは、自分の文章力の問題なのである。

Tuesday, January 14, 2020

精神分析の今を知るために(11)

われわれが自分自身について語る物語、今なぜ自分がこんなことをしているのかを説明する物語は、根本的に嘘である。真実は外側に、行動にある。

Slavoj Zizek: "Why I Am Still A Communist". The 2019 Holberg Debate(YouTube から)

Sunday, January 12, 2020

グーテンバーグ・カナダ

カナダは著作権切れの期限が五十年と日本と同じなので、ここと fadepage.com から出る本は本家のグーテンバーグUSより新しいものが多い。たとえばカナダから一月の一日に出た作品はルイス・ゴールディングの Honey for the Ghost。ゴールディングは最近「ミスタ・エマニュエル」という本をこのブログでレビューした作家だ。彼はSFっぽい作品や本作のようなホラー風味の作品も書いている。どの本も手に入りにくいので、こうやって電子化してもらえるとありがたい。

Fadepage.com は今年に入って面白いコラム記事を載せている。百年前の1920年代に出た、著名な書籍を十点あげているのだ。もちろんいずれも Fadepage.com で手に入る。

The Age of Innocence (1920) by Edith Wharton
The Story of the Mikado (1921) by W. S. Gilbert
Nonsense Novels (1922) by Stephen Leacock
Emily of New Moon (1923) by L. M. Montgomery
The Adventures of Sam Spade and Other Stories (1924) by Dashiell Hammett
The Witches Brew (1925) by E. J. Pratt
The Great Gatsby (1926) by F. Scott Fitzgerald
To the Lighthouse (1927) by Virginia Woolf
Decline and Fall (1928) by Evelyn Waugh
The Sound and the Fury (1929) by William Faulkner

わたしは1850年代から1950年代の本をよく読む。この時期は小説形式が完成され、それが古い形式として否定されるという、波乱に富んだ期間だった。二十年代というのはその転換点にあたる十年だ。ウルフの「灯台へ」とかフォークナーの「怒りと響き」のような実験的な作品がリストにも含まれているが、これらは小説の新たな胎動を示すメルクマールである。

ウオートンの「無垢の時代」やフィッツジェラルドの「グレイト・ギャツビー」は、一応古い小説の形式を取っているが、それぞれに独特のひねりや新鮮な感性が加わっていて、今読んでも面白い。

ギルバートの「ミカド物語」はもちろん有名なオペレッタからの翻案作品だ。ギルバートの作品はどれもユーモラスでわたしは好きだ。訳したいけれども、あのしゃれやユーモア、そして音楽性豊かな言語を日本語に移植することを考えると、二の足を踏む。

リーコックはユーモラスな短編小説をたくさん書いているが、中でも Nonsense Novels はミステリファンには見逃せない。ウォーの「衰退と滅亡」もユーモア小説だが、リーコックの明るい健康的なユーモアに比べると、ちょっと諧謔味、あるいはグロテスクな味わいが加わっている。

ハメットの短編集は見逃せない。わたしはハードボイルドではチャンドラーが嫌いで、ハメットとロス・マクドナルドを好む。とりわけハメットの、新しいジャンルをつくりだす荒々しい所作には惹かれるものがある。

十作だけのリストだが、ちょうど百年前、新旧の文学が混じり合っていた時期を回顧するには、非常にいい作品ばかりが集められているように思う。

Friday, January 10, 2020

過去を目指すな

過去にノスタルジーを抱いている政治家は選んではいけない。彼らは新しい状況を理解しないし、その結果、あたらしい世代を苦しめる政策をとってしまう。ところが過去へのノスタルジーは感染力の強い病のようで、大勢の人によって共有されている。

過去にノスタルジーを抱き、過去に未来の模範を求めるのは、智的怠惰の最悪の例のひとつだろう。あたらしい状況を見通すにはあたらしい知性が必要になる。あたらしい知性を身につけるには、過去の思想を学び、たえず先端的な思考を追っていかなければならない。そのような努力を放棄したのがノスタルジーにふける人々である。

ジェイコブ・リース-モッグの新著「ヴィクトリアンズ」を出した。ヴィクトリア朝を代表すると作者が考える人物十二名に関して印象を書きつづったものだが、この本の骨子はこういうことだ。ヴィクトリア朝は明確な道徳を持ち、エネルギッシュで、愛国心に満ちた時代だった。ところが現代はどうだろう、政治的公正(politically correct)の前に道徳は相対化してしまっているではないか。

リース-モッグは保守党の国会議員だが、彼もノスタルジーにふけっている。そしてノスタルジーにふける人々に共通の欠点が見られる。それは過去の美化であり、現在への盲目である。たとえば彼はパーマストン首相をヴィクトリア朝を代表する人物の一人として選んでいるが、パーマストンは「明確な道徳」を持っている人物だったのか。彼はその性癖のゆえに Lord Cupid とまで言われたのに。しかし作者はそういう側面には目を向けようとしないのだ。また、彼は憲法学者アルバート・ダイシーを扱った章で「国民投票を持つ政治体制は長期的安定をもたらす傾向がある」とか書いているけれど、おいおい、ブレクスイットはどうなんだと誰もが突っ込みを入れたくなるだろう。

この本の書評を探してみたら、ガーディアン紙にわたしとまったく同じ感想を表明した人がいた。この書評者はヴィクトリアンについて知りたいなら、A. N. ウィルソンやサイモン・ヘフナー、デヴィッド・キャナダイン、ピーター・アクロイドを読むべきだと最後に付け足している。わたしはサイモン・ヘフナーとデヴィッド・キャナダインは知らないが、他の二人はじつにいい文章でヴィクトリア朝について書いている。わたしはいま、A. N. ウィルソンの「ヴィクトリアンの後に」を読んでいるが、これも興味深い本である。

Thursday, January 9, 2020

「333 空想科学小説目録」

この本はグランドンという、聞いたことのない出版社から1953年に出された。ファンタジーの傑作を333冊紹介した本である。それぞれ「ゴシック・ロマンス」「怪奇小説」「科学小説」「ファンタジー」「失われた種族もの」「空想的冒険譚」「未知の世界」「東洋譚」「関連作品」に分けられ、結構くわしいあらすじが付されている。最後の「関連作品」というのは、「空想科学小説」とはいえないけれども、一般読者からそのようなジャンルに属すると認められている、やや周辺的な作品を意味する。

グランドン社は空想科学小説を専門に出す出版社だったようだが、小説のカタログを読者に郵送していたところ、マニアたちからそれぞれのタイトルの内容を知りたいという要望が度重なり、このような紹介本を編むに至ったらしい。編集したのはジョゼフ・H・クローフォード・ジュニア、ジェイムズ・J・ドナヒュー、ドナルド・M・グラント。紹介されている作品は、序文によると、1950年までに発表された空想科学小説のなかでも最高のものであるとのこと。

好事家のあいだではつとに知られた本だそうだが、わたしは初めて見た。紹介されている本がはたしてこの分野の最高の作品であるかどうかはべつにして、それなりに評価を受けた本として読んでみる価値はあるだろう。わたしが見たところ、三分の二くらいはわりと有名な作品が紹介されている。フレデリック・ブラウンの「発狂した宇宙」とかフィリップ・ワイリーの「闘士」とか、まあ、誰が見ても文句のない名作である。しかし残りの三分の一はほぼ無名の作家ではないだろうか。マーク・チャニングとかいう作家は四冊も作品がリストアップされているが、ウィキペディアにこの作家の記事はなく、Internet Archive を調べてもここに上がっている本はまだ収録されていない。(India Mosaic という見聞録みたいな本はあるのだが)

これは面白いリストが見つかった。わたしは忘れられた作品をあげたリストが大好きなのだ。もっとも興味を引かれた作品が、あまりにも忘却のかなたに行き過ぎて、今のところ、どこを捜しても手に入れようがないという難点はあるのだが。

Wednesday, January 8, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 70-72)

範例
(a) As long as gardens have flowers and the world has beautiful and amiable women, so long will life be worth living.
    Max O'Rell

(b) I beseech you to remember that, as surely oxygen feeds the fire of life, so surely does carbonic-acid put it out.
    C. Kingsley

(a) 花園に花の絶えざる限り、嬋娟温雅なる婦人のこの世に絶えざる限り、吾人は生を營む價値ある可し。

(b) 酸素が生命の火を養ふ如く炭酸瓦斯は之を消すものだと云ふ事を記憶して貰ひたい。

解説

As....as, ....so.... の so.... は初の As....(as) を強むる爲に反復したるものにして as よりも語氣強き so を用ひたるも之が爲めなり。されば上掲 so long, so surely は初の As long, as surely を反復したるものにして假に so long を省き will を life の後に置き、so surely と does とを省き
(a) As long as gardens have flowers and the world has beautiful and amiable women life will be worth living.
(b) I beseech you to remember that, as surely oxgen feeds the fire of life carbonic-acid puts it out.
とするも意味に於て異る所なく、唯語勢の強弱有るのみなり。

用例

1.  As surely as the force which moves a clock's hands is derived from the arm which winds up the clock, so surely is all terrestrial power drawn from the sun.
    J. Tindal
  時計の針を動かす力が時計を捲く腕より得らるゝ如く凡ての地球上の力は太陽より得らる。

2.  I speak as a dead man now, and I warn you, father, that as surely as you must one day stand before your Maker, so surely shall your children be there, hand in hand, to cry for judgment against you.
    C. Dickens
  己れは今死んだ人間の積で云ふのだ、それで今からお前に云うて置くが、お前もいつか必ず神樣の前に立たなくちやならないが、お前の子供も手に手を取つて必ず其處へ行つて、お前を罰する樣に祈るぞ。

3.  Just as neat and clean as are the women of the middle and working classes, just so ignoble and filthy are women of the lower classes.
    Max O'Rell
  中等社會、勞働社會の婦人がさつぱりと小奇麗で有る如く、丁度その樣に、下層社會の婦人は卑しくてむさくるしい。

4.  So long as such conditions exist, and so long as mankind essays, through choice or necessity, to cope with them, just so long will neurasthenia continue to occur, unless in process of evolution the human species becomes more able to resist these factors.
    New York Herald
  斯る事情の存する間は、而て人類が好みて又は已むを得ず此等の事情と戰ふ間は、正しく其間は、人類が進化して此等の原因に抵抗し得るに至らざる限り神經衰弱は依然として生ず可し。

5.  Nations who are thus enslaved at heart cannot be freed by any mere changes of master or of institutions; and so long as the fatal delusion prevails that liberty sorely depends upon and consists in government, so long will such changes, no matter at what cost they may be effected, has as little practical and lasting result as the shifting of the figures in a phantasmagoria.
    S. Smiles
  斯の如く心中奴隷の如くなれる國民は啻に主權者を更へ制度を更ふるのみにては之を自由にする事を得ず、而て自由は專ら政治に據り政治に存すと云ふ不幸なる謬説の行はるゝ間は、其間は斯の如き變更は如何なる費用もて之を行ふとも、其實際的永續的結果を齎らさゞること譬へば走馬燈に於ける影子の變化に異なる事なし。

Monday, January 6, 2020

G.P.R.ジェイムズ「エーレンシュタイン城」

意外とよい本だった。中世のドイツを舞台に、若い騎士と、エーレンシュタインの城主の美しい娘が恋に陥る。二人のロマンスがメインストーリーだが、もちろんそれが順調に実るわけがない。主人公を嫉妬する騎士が嫌がらせをしたり、恋の邪魔をし、主人公はあわや命を失うかも知れないという危地に追い込まれたりもする。それを主人公は堂々と切り抜け、また最後にはその出生の秘密が明かされ、大団円を迎えるのである。

こう書くと平凡なロマンス・貴種流離譚ではないかと思われるだろうが、面白いのはゴシック風の怪奇現象も描き込まれている点である。エーレンシュタイン城のある部屋や地下では奇怪な物音がしたり、幽霊があらわれたりする。ある程度読み進めれば、幽霊やら物音の理由はだいたい想像がつくのだが、それでもこの怪奇趣味がプラスされて、物語はぐんを興趣を増す。

とりわけ第一章はすばらしい。嵐の晩に主人公が真っ暗な城の地下道を抜け、外の森を通り、僧院へと向かうのだが、不気味な雰囲気たっぷりの、極上の出だしである。第一章以降にこのようなゴシック小説的描写(あるいはペニードレッドフル的な描写)が少ないのは残念だが、それでも充分面白い。主人公と城主の娘のロマンスは、チャールズ・リードの「修道院と炉端」と比較してもいいくらいよくできている。

1847年に三巻本で出版された大長編で、物語の進行はゆっくりしているが、足取りの確かな文章で綴られている。最後まで退屈せず読むことができた。

Sunday, January 5, 2020

去年読んだ本のベストスリー

去年は戦争文学ばかり読んでいたのでベストスリーもその関係の本になる。

第一位は今日出海の「山中放浪」。これは長いレビューをブログに書いた。描写の背後に鋭い認識が潜んでいる傑作で、わたしにとっては「俘虜記」や「神聖喜劇」と並ぶ重要な作品。

第二位はカロッサの「ルーマニア日記」。恐るべき知性と静謐をたたえるこの作品の前には「西部戦線異状なし」も「武器よさらば」も色あせて見える。

第三位はポール・フッセルの The Great War and Modern Memory 。残念ながら文学が資料のように扱われているが、第一次世界大戦のいろいろな側面を教えてくれるし、読んで面白い。

Friday, January 3, 2020

全日本プロレスの勢い

一月二日の後楽園大会では、世界タッグ選手権でゼウスがノックアウトを喫し、大丈夫なのだろうかと心配になった。脳震盪なのだろうが、充分に検査して必要なら休養も取ってほしい。おなじことを翌日欠場した諏訪魔にも言いたい。われわれファンは、怪我をしたまま無理して試合をする選手を見たくない。充分に回復してから戻ってきたって、われわれは全日を見棄てはしない。

一月三日の大会は近年まれにみる充実した新年興業だったと思う。話題が満載である。ライジングHAYATOと全日ジュニアヘビー若手選手の抗争、ヨシタツの入団、ルーカス・スティールの登場、横須賀ススムのジュニア王座奪取、ダニー・ジョーンズやフランシスコ・アキラといった外国勢の活躍、宮原の三冠防衛、青柳の造反、JR・クラトス選手の来日決定などなど。こうした要素がどのようにからまりあいながら全日を舞台にドラマを展開するのか、非常に楽しみである。

ルーカス・スティール選手は身長が196センチもある。大森やジェイクが192センチででかいと思っていたのに、それを超えるのだからあきれてしまう。ワイルドな顔つきをしているが、試合後のインタビューではごくごく紳士的に、平凡に、新年の挨拶をしていた。レスラーにはよくある、「リングを離れたら普通の人」タイプなのだろう。ただ彼が組み込まれた「神」チームの首領格が丸山で、彼がルーカスのコメントをおもしろおかしく「迷訳」というか「変換」していた。どれくらいの期間ルーカスが日本にいるのか知らないが、いつかジョーとも戦ってほしいし、三冠にも挑戦してもらいたい。

Wednesday, January 1, 2020

推理小説的読解ふたたび

以前、「推理小説的読解法」という記事を書いたけど、どうして「推理小説的」なのか、一言説明を入れるのを忘れた。

推理小説では、通常、もっとも犯罪を構成するとは思えない人間が犯人として指摘される。

わたしの読解法においては、作品の中でマージナルな存在、不在の存在が、作品のフレームワークを形作っていると指摘することになる。この操作によって作品の様相はがらりと変わり、別様の物語が現れ出てくる。

この類似性の故にわたしは「推理小説的」とわたしの読解法を呼ぶのである。

推理小説的読解はトポロジカルな読解ともいえる。この読解から見えてくる作品の構造が、メビウスの帯とかクラインの壺といったものを彷彿とさせるからである。最近ずっとこのことを考えている。

この読解でキーとなるのは、誰が語っているのか、という問題だ。Aが語っているようでも、じつはAを通してBが語っている、という構造を見抜かなければならない。AとBとは別人であり、かつ同一という奇怪な事態を。

次に気づくべき事は、このマージナルで、ときには不在でもあるBが、物語の内部にありながら、物語の外枠を構成するものでもあることだ。つまり内部はいつの間にか外部に接続する。両者のあいだに画然とした境界は存在しない。それどころか内部は常にすでに外部に浸食されている。

このトポロジカルな構造は、どうやら作者によって意図されたものではなさそうだ。作者は意識せぬままにそのような構造を書き込んでしまうのである。

さらにわたしがこの読解法を適用した作品は、物語がBの方向に向かって進行していく。映画「ドールズ」においてはラルフ青年とジュディは、ジュディの母親のもとへと向かうし、「わが名はジョナサン・スクリブナー」においては作者であるジョナサン・スクリブナーが最後に登場し、そこで終わる。AとBは同一であるというのはメビウスの帯に於いては裏と表が同一であるというのに等しい。そして物語はAから出発してメビウスの帯のようにねじれてBへと向かう、あるいはBにたどり着くのである。

ねじれはテキストにもあらわれる。たとえばメビウスの帯を彷彿とさせるイメージ(羊腸たる山道とか)があらわれたり、メタコメントが頻出したりする。メタコメントとは、作品世界を描くテキストの一部でありながら、テキストそれ自体の読み方を示唆するようなコメントのことである。このメタ・コメントの性質についてはまだわからないことがたくさんある。

わたしの読解法が通用する作品はほかにもあるだろう。それらを見つけて調べれば、さらにこの方法を精緻なものにできるはずだ。

なぜこんな読解が可能になるのか。わたしはそれはテキストが無意識の次元を必然的に含むからと考える。ラカンは無意識を考察するのにトポロジーを援用したが、それは正しいと思う。無意識の奇怪な働き方を考えるにはユークリッド幾何学的な空間を考えていてはだめなのだ。

しかしそうなるとすべてのテキスト(言語芸術だけでなく視覚芸術も含めて)が原理的に無意識の次元を含むと考えられるのだから、わたしの読解はすべての作品に適用されるということになってしまう。おそらく無意識の次元の働き方にはいくつかの型があるはずなのだ。わたしの読解が通用する場合もあれば、そうでない別の読解が要求されることもあるのだろう。そうした解釈のタイポロジーも考えていかなければならない。(アルチュセールの兆候的読解はそうした一つの型ではないかと思う)

そういうわけでわたしは一からやり直すためにいまはフロイトを読み始めている。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...