Wednesday, January 1, 2020

推理小説的読解ふたたび

以前、「推理小説的読解法」という記事を書いたけど、どうして「推理小説的」なのか、一言説明を入れるのを忘れた。

推理小説では、通常、もっとも犯罪を構成するとは思えない人間が犯人として指摘される。

わたしの読解法においては、作品の中でマージナルな存在、不在の存在が、作品のフレームワークを形作っていると指摘することになる。この操作によって作品の様相はがらりと変わり、別様の物語が現れ出てくる。

この類似性の故にわたしは「推理小説的」とわたしの読解法を呼ぶのである。

推理小説的読解はトポロジカルな読解ともいえる。この読解から見えてくる作品の構造が、メビウスの帯とかクラインの壺といったものを彷彿とさせるからである。最近ずっとこのことを考えている。

この読解でキーとなるのは、誰が語っているのか、という問題だ。Aが語っているようでも、じつはAを通してBが語っている、という構造を見抜かなければならない。AとBとは別人であり、かつ同一という奇怪な事態を。

次に気づくべき事は、このマージナルで、ときには不在でもあるBが、物語の内部にありながら、物語の外枠を構成するものでもあることだ。つまり内部はいつの間にか外部に接続する。両者のあいだに画然とした境界は存在しない。それどころか内部は常にすでに外部に浸食されている。

このトポロジカルな構造は、どうやら作者によって意図されたものではなさそうだ。作者は意識せぬままにそのような構造を書き込んでしまうのである。

さらにわたしがこの読解法を適用した作品は、物語がBの方向に向かって進行していく。映画「ドールズ」においてはラルフ青年とジュディは、ジュディの母親のもとへと向かうし、「わが名はジョナサン・スクリブナー」においては作者であるジョナサン・スクリブナーが最後に登場し、そこで終わる。AとBは同一であるというのはメビウスの帯に於いては裏と表が同一であるというのに等しい。そして物語はAから出発してメビウスの帯のようにねじれてBへと向かう、あるいはBにたどり着くのである。

ねじれはテキストにもあらわれる。たとえばメビウスの帯を彷彿とさせるイメージ(羊腸たる山道とか)があらわれたり、メタコメントが頻出したりする。メタコメントとは、作品世界を描くテキストの一部でありながら、テキストそれ自体の読み方を示唆するようなコメントのことである。このメタ・コメントの性質についてはまだわからないことがたくさんある。

わたしの読解法が通用する作品はほかにもあるだろう。それらを見つけて調べれば、さらにこの方法を精緻なものにできるはずだ。

なぜこんな読解が可能になるのか。わたしはそれはテキストが無意識の次元を必然的に含むからと考える。ラカンは無意識を考察するのにトポロジーを援用したが、それは正しいと思う。無意識の奇怪な働き方を考えるにはユークリッド幾何学的な空間を考えていてはだめなのだ。

しかしそうなるとすべてのテキスト(言語芸術だけでなく視覚芸術も含めて)が原理的に無意識の次元を含むと考えられるのだから、わたしの読解はすべての作品に適用されるということになってしまう。おそらく無意識の次元の働き方にはいくつかの型があるはずなのだ。わたしの読解が通用する場合もあれば、そうでない別の読解が要求されることもあるのだろう。そうした解釈のタイポロジーも考えていかなければならない。(アルチュセールの兆候的読解はそうした一つの型ではないかと思う)

そういうわけでわたしは一からやり直すためにいまはフロイトを読み始めている。

独逸語大講座(20)

Als die Sonne aufging, wachten die drei Schläfer auf. Sofort sahen sie, wie 1 schön die Gestalt war. Jeder von ihnen verliebte sich in 2 d...