Sunday, March 24, 2019

Secondhand books: the murky world of literary plagiarism

アリソン・フラッドがガーディアン紙に「古本 文学的剽窃という薄暗い世界」というタイトルで記事を出していた。

最近ガーディアン紙上で盗作問題が連続して取り上げられたので、それをまとめたような内容になっている。それを読んで思ったことを書きつけておく。

わたしは学術論文でもないかぎり、盗作にはさほど目くじらをたてるべきではないと思っている。著作権をやかましく言い立てることも、どうかと思う。なぜなら文化とか思想といったものはいろいろな形で「伝播」するもの、「伝播」をうながすべきものだからである。今までにもおなじことは何回か書いた。

アリソン・フラッドはマーク・トウェインのこんな言葉を引いている。「人間が話すことも書くことも、みんな盗作じゃないかね」

そうなのだ。子供がままごとをし、大人の口真似をして成長するように、作家だって既存の言語、表現を真似ることで新しい作品を作っていくのである。これもアリソン・フラッドが引用している言葉だが、T. S. エリオットは「未成熟な詩人は真似をする。成熟した詩人は盗む」と言ったらしい。

日本はまだ文字がなかったころ、中国人が使う漢字に一驚し、それを輸入した。中国人の真似をして、自分たちの文化・文学をつくりはじめたのだ。和歌なんていうのは、本歌取りといって、他人の作品を上手に自分の作品に取り込むことがその重要な技術のひとつに数えられている。明治に入ってからは西洋の単語、西洋語の文脈を日本語に取り入れ、近代化をはかろうとした。経済成長するときも、日本の企業は西洋の製品を真似して作り、そこに洗練を付け加えていったのである。日本はいつも他国の文化を真似て成長してきた。上手に真似をすること、これが大切なのだ。古今東西を通してシェイクスピアはおそらく最高の言語芸術を残したが、そのすべては昔からある言い伝えや物語の焼き直しである。

べつに真似する気はなくても、作品の発想が似てしまうことはよくある。われわれの思考や発想はある程度、時代によって規定されているので、それは仕方のないことだ。同じ時代に生きていればいくつかの問題系をどうしても共有してしまう。

また無意識のうちに他人の作品を摸倣することもある。これは記事にはない例だが、ヘレン・ケラーの書いた童話が盗作扱いされたことがある。たしかによく似た話がすでにあって彼女はそれを「読んだ」(ヘレン・ケラーのことなので、読んだ、には括弧をつけておく)事があるのかもしれないが、「読んだ」としてもヘレン自身はその話をすっかり忘れてしまっていたのである。無意識の摸倣なんてことはしょっちゅう起きているだろう。

物語のプロットや登場人物の名前までが「偶然」に似通うことだってあるだろう。アリソン・フラッドは、A・J・フィンのミステリ「窓の女」と自己出版されたサラ・A・デンジルの「エプリルを救って」がよく似ていることを詳細に報告しているが、記事の内容を見る限り、どっちがどっちを真似たともいえないようだ。二人の人間が別々に、しかし同時期に、おなじ発明をすることがあるように、文学の世界においても別々の人間がおなじ想像をふくらますことがあっても不思議ではない。文学作品同士の類似とはちょっと違うが、モーガン・ロバートソンが書いた「タイタン号沈没」は、作品が出版されて十四年後に起きたタイタニック号の沈没を実に正確に「預言」していたことで知られる。船の名前もそっくりだし、タイタン号は全長八百フィートだが、タイタニック号は八百八十二フィート、排水量は前者が四万五千トン、後者は四万六千トンと驚くべき類似を見せている。タイタニック号の製造もその根本には巨大船にたいする人間の夢があると考えるなら、これまた夢想、空想、想像が偶然にも一致した例と考えていいだろう。

摸倣したり情報を伝播するのは人間の条件みたいなもので、それをいちいち資本主義の原理である著作権などで縛るというのは意味がないし馬鹿げている。丸谷才一は「文学は文学からつくられる」と言ったが、文学というのはとりわけ摸倣、パロディ、剽窃をこととする、まことにあやしげでいかがわしく、謎めいていて得体がしれず、かつ猥雑なバイタリティに富んだ領域なのである。お上品とか秩序をここに見るのはおおきな間違いだ。

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