Thursday, April 30, 2020

ロックダウンと読書

イギリスではロックダウンがはじまってから本の売り上げが急速に伸びたという報道が繰り返されている。しかも、この新しい生活が数週間はつづくとあって、大部の本が売れているらしい。ガーディアンは特に売れている本を四冊紹介していた。(https://www.theguardian.com/books/2020/apr/25/tolstoy-steinbeck-defoe-why-are-so-many-turning-to-classic-novels)

ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」

ペンギンによるとオーディオ・ブックの売り上げが30%アップしたそうだ。傑作という評判は高いが、あまりの分厚さにイギリス人もあまり読んでいないのだろう。日本の「源氏物語」みたいなものだ。

オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」

イギリス世紀末を代表する作品。オーディオ・ブックの売り上げはなんと59%のアップ。誰もが一度は読んでいる作品かと思ったが、そうでもないのだろうか。

ヴァージニア・ウルフ「自分の部屋」

オーディオ・ブックの売り上げは64%アップ。ウルフはフェミニストのあいだでもてはやされている作家だし、部屋に閉じこもるこの時期に読むには、まあ、ふさわしいかもしれない。ついでにこれをきっかけに優秀な作家があらわれればロックダウンも無駄ではなかったと言うことになる。

ローリー・リー「ある真夏の朝に外に出て」

電子書籍の売り上げが154%アップ。よりによってなぜこの本が、という気がしないでもないが、とにかく名作である。「ロージーと林檎酒を」および「戦争のとき」と組み合わされて三部作をなしている。作者がロンドンからスペインまで旅をし、内戦に巻き込まれる様子を描いたものだ。

ほかに売れている本というとトルストイの「戦争と平和」、ヒントンの「アウトサイダーたち」、スタインベックの「鼠と人間」、デフォーの「悪疫の年」、ボッカチオの「デカメロン」、フォン・アーミンの「魔法の春」(驚くなかれ、この本の売り上げは5000%上昇した)、カーの「田舎での一か月」などがあるそうだ。

これを見てなんとなく不思議な気がする。どれも本格的な文学作品、まじめな作品ばかりだからだ。もちろんスティーブン・キングを読む人もいるだろうけど、なぜリストのトップにあがってこないのだろう。われわれの直面している情勢が深刻だからだろうか。たんに現実逃避として読書しているのではなく、なんらかの知恵を得ようとしてこうした本に向かうのだろうか。わたしはたぶんそうなのだろうと思う。文学というのは閑文字ではなく、人間が危機に直面したときに真価を発揮する、あるいは真価を発揮しなければならないものなのだ。

Tuesday, April 28, 2020

ニュージーランドの場合

ここ二か月ほどずいぶん熱心にBBCやガーディアンを読んできたが、各国政府の能力が如実にあらわれた期間だったと思う。国家的な危機への対応という、政府にもっとも求められる能力をためす、絶好の機会をコロナウイルスは提供してくれた。

ニュージーランドはそのなかで輝かしい成果をあげた国家の一つである。まことに小さな国でありながら、傍目にも驚嘆すべき政府の危機管理能力だった。

いったい彼らのどこがよかったのか。BBCの記事が簡潔にまとめていた。(https://www.bbc.com/news/world-asia-52450978)それによると成功の秘訣は
(1)早期の国境閉鎖
(2)素早い、断固としたロックダウン
(3)感染源の追跡と検査
(4)ソーシャル・バブルの選択と自粛
(5)わかりやすいパブリック・メッセージ
なのだそうだ。

(1)について言えば、ニュージーランドが旅行者に世界的にも厳しい制限を発令したのは三月十九日である。アーダーン首相は「我が国には百二名の患者しかいない。しかしイタリアもそうだった」と言って断固国境を閉ざした。

(2)三月二十一日にニュージーランドは新しい警戒システムを発表し、ほどなくして全国が警戒レベル四の最高レベル体制が敷かれた。会社、学校、海岸や遊技場、バーやレストラン、持ち帰りや出前なども禁止された。

(3)ニュージーランドはいわゆるクラスター対策をしつつ、一日に八千人の検査も行った。さらにシンガポールやオーストラリアで使われているような追跡アプレットも導入した。

(4)ニュージーランドはただ国民に自宅にひきこもれと言ったのではない。親しいごく少数の人々を選んで、ソーシャル・バブルをつくり、そのなかでのつきあいは認めた。それがルールを守りやすくしたのである。もちろん二メートルの社会的距離を置くことは求められた。

(5)アーダーン首相はつねに良識的な情報を落ち着いた態度で、しかし断固として国民に発した。彼女の演説・対話はいずれも圧巻であり、感動的ですらあったと思う。

こうやって項目的に列挙してみると、どの点においても日本政府のやり方はグダグダであったことがわかる。しかしこういう政府をつくりあげたのはわれわれ国民自身であって、人々は民度にふさわしいリーダーしか持てないのかもしれない。

Sunday, April 26, 2020

思考と歩行

わたしはなるべく身体を動かすようにしている。筋トレもするし、週末に図書館に行くときは往復で七キロくらい歩く。

七キロ歩くのにはだいたい二時間くらいかかる。交通機関を使えば時間は短縮されるけれども、わたしにとってはこの二時間は貴重な思考のための時間である。なにかにはっと気がつくのは、たいてい歩いているときだ。

思考は頭でするものと考えている人がいるが、じつは違う。たとえばわたしはひらがなの「な」が思い出せなくなったことがある。そのとき、わたしの身体でもっともそれを思い出そうとしたのは手である。さまざまな動きをこころみて、「な」を思い出そうとした。字を忘れたとき、たいていの人はわたしと同じように手を動かすに違いない。字を覚えているのは手の筋肉ではないか。

考えているうちに部屋の中を行ったり来たりするということもよくある。日本の家は狭いから貧乏揺すりですませなければならないかもしれない。なぜ足が動くのだろう。わたしは足が考えているからだと思う。身体じゅうが信号を発し、忘れたもの、未知のものを言語化しようとするのだ。

トイレに本を持ち込んで読むと難解な哲学書でも不意に意味がわかってきたりする。あれは大腸が考えているからではないか。すくなくとも大腸の動きが脳によい刺激・信号を出しているのだと思う。

さらに外を歩いていると、意外な刺激が外からやってきて、それが思考に思わぬきっかけを与えたりもする。

静かな部屋の中でじっと考えていてもなかなか考えはまとまらない。そこで外に出るわけだが、思考に没頭しているようでも、車の音やら建設中のマンションの風景やら、通り過ぎる人の会話やら風やら、いろいろな夾雑物が思考のはしばしに突き刺さってくる。そうした信号がまとまらなかった思考にまとまりを与えることもあるのだろう。わたしは看板を描いた英語の一節がよくわからず考え込み、外に散歩に出たのだが、おそらく信号機の光を見たせいだろう、忽然と意味が判明したことがある。また、別の英文の中で用いられた gold という単語の意味がわからず、歩きながら考えていたのだが、ある店屋の前ではっとそれが golf の誤植であることに気がついた。なぜあの店屋の前でそれに気づいたのだろうと考えたら、その店屋の少し手前の道からゴルフ場のネットが見えていた。それが無意識のうちにわたしの思考を導いたのだろう。

歩行は思考を助けてくれる。いま出歩くのを控えなければならないというのはちょっと辛い。

Thursday, April 23, 2020

謎の作家

ジャック・スティール(Jack Steele)という作家がいる。プロジェクト・グーテンバーグには「代理の夫」(A Husband by Proxy)という1919年に出版された本が収録されている。どんな話か。

ジェラルド・ギャリソンがニューヨークに探偵事務所を構える。そこへ、夫の代わりをしてくれる若い男を捜しているが、誰か知らないか、と若い女が相談に来る。結局ジェラルド自身が彼女の夫の代わりをつとめることになる。彼女が帰った直後にウィックスというご婦人がやってきて、ある紳士が死んだのだが保険金詐欺の疑いがあるから調べてくれと頼まれる。事務所を構えたと思ったらさっそく二つも事件が転がり込んできた。いや、事件だけじゃない。彼の身に危険も迫ってきたのだ。

おや、面白そうだな、と思わないだろうか。依頼がたたみかけるように二つも来る。そのうちの一つはいかにもわけありげで、どことなくロマンチックな匂いを放っている。もう一方は死と策謀の匂いがする。いったいこの二つの依頼がどんなふうに組み合わさるのだろうか、と誰しも気に掛かると思う。

1911年には「鎧の館」(The House of Iron Men)という本を書いている。この本でもジェラルド・ギャリソンが登場する。内容は……

ジュリアン・ヴェイルは二十七歳の誕生日に大きなプレゼントを受け取る。まるで棺のような大きさだ。ジュリアンは、どうせ友人たちがいたずらに鉄道の模型でも送ってきたのだろうと思っていた。ところがそのとき、彼といっしょにいたフィアンセが、プレゼントが揺れたといって大騒ぎする。ジェラルドが中をあけてみると、なんとそこには若い女性が入っているではないか! 彼女はぼんやりと眼を開けてジュリアンを見た。

ほほう、これはどういう状況なんだ? そのあとはどうなるの? と興味を引かれた人も多いはず。「代理の夫」も「鎧の館」も、出だしでいきなり読者の興味を引きつけ、わくわく、どきどき感が最後までつづく読み物となっている。

こんな優秀な娯楽小説を書いたジャック・スティールとはいったい誰なのか。これがさっぱりわからなくて十年以上も困っていたのだけれど、最近ようやくわかった。彼は本名を Philip Verrill Mighels (April 19, 1869 - October 12, 1911)といい、ベストセラー作品やらSF小説やミステリを書いていたのだそうだ。そしてミステリを書くときジャック・スティールという別名を用いていたらしい。ようやく彼の項目がウィキペディアに登場したおかげで正体が判明した。感謝、感謝。しかも Philip Verrill Mighels で検索すると、Internet Archive には彼の本がかなり収録されていることもわかった。これからしばらくは彼の本に読みふけることになりそうだ。十九世紀後半を生きた人だけに、表現はすこし古さを感じさせるのだが、それでも読みやすい。話の展開の早さは現代のエンターテイメント小説にだって負けない。

Tuesday, April 21, 2020

「わが手」(1936) C.St.ジョン・スプリッグ

C.St.ジョン・スプリッグはクリストファー・コードウェルの本名である。この早世したマルクス主義批評家については以前どこかで書いたような気がするので、ここでは省略する。彼は小説も書いていて、この方面でもなかなかの力量を示している。「飛行士の死」などはミステリとしても悪くない。

しかし「わが手」(原題 This My Hand)は彼の作品の中でもとりわけ傑出した出来を示している。わたしはこの心理小説に圧倒された。知られざる名作とはまさにこういう小説を云うのだろう。

なにがすごいのか。この作品では登場人物の心理的な側面に注目してその生い立ちがたどられるのだが、その成長の仕方が有無を言わせぬある種の論理性を帯びているのである。しかもそれでいて、確かにこういう人間はいるな、と思わせる自然な人間性の表現にもなっている。こんな書き方ができるだけでも並の実力じゃないのだが、さらに作者はそうした人物たちを絡み合わせて、やはりある種の必然性をともなった結論へと物語を導いていく。つまり個々の人物の心理表現もすばらしければ、異なる性格のインターアクションも見事に表現されているのである。

明らかにフランスの心理小説をモデルにして書かれているが、「マクベス」の一節をタイトルにしているところからもわかるように、イギリス文学もその根底には横たわっている。アクションによってわくわくさせる物語ではない。あくまで文学の玄人好みの作品である。しかし静かに鈍色の光を放つ秀作だと思う。

Saturday, April 18, 2020

戦争と権力のシニシズム

アマゾンから出した「闇の深みへ」には続編がある。「闇の深みへ」はアダム・エンバーたちがドロヒッツの町へ向かう場面で終わるが、続編「銀のバッカス」は彼らがドロヒッツの町に到着する場面から始まる。彼らは町の人々から大歓迎され、病兵は手厚い看護を、その他の兵士は贅沢なもてなしを受けることとなる。ところが彼らが町外れの紅灯の巷、つまり娼館シルバー・ホールで遊び浮かれている最中に、娼館の中で疫病による死者が発生する。部隊はさっそく町と娼館のあいだに非常線を張り、疫病の感染を防ごうとするのだが、もちろんそううまくいくものではない。疫病はドロヒッツ中に蔓延し、アダムは再び疫病による死者を埋める作業に従事する。

この物語の最後はどうなるか。敵軍がドロヒッツに向かっていることを知った最高司令部は、敵軍を疫病に感染させるため、アダムたちにドロヒッツを見捨てさせるのである。自分たちの利益のためなら無辜の民を平気で犠牲にする。それが戦争であり権力というものだ。

これを読んだとき、わたしは映画の「エイリアン」を思い出した。あの映画ではとある企業が、危険きわまりない異星の生物を地球に持ち帰ろうとする。戦争兵器として使おうというのだ。それを知ってシガニー・ウィーバー演じる宇宙飛行士は激怒する。自分たちに制御できないものを使ってまで戦争に勝とうとする、人間の非人間性がここにあらわれている。

日本政府はオリンピック開催のためにコロナ・ウイルスに感染した人の数を低く見せようとしていたが、経済を優先し、人間を二の次に置く日本政府の非人間性と、上記の小説や映画に描かれた権力とのあいだには、なんら逕庭はない。

Wednesday, April 15, 2020

基準独文和訳法

権田保之助著
有朋堂発行
「基準独文和訳法」より

問題6(p. 45)

Es darf als ein Vorzug der deutschen Filmindustrie
verzeichnet werden, daß sie erstmalig die Mittel für
den expressionistischen Film bereitgestellt und damit
die Notwendigkeit demonstriert hat, die Ausdruckswelt
des Films durch neue Formen zu bereichern.

研究事項
1)Vorzug, Mittel の本問題に於ける訳は?
2)der expressionistische Film は何と訳すべきか?
3)demonstrieren の訳?
4)und damit は何の意味か?
5)die Ausdruckswelt des Films durch neue Formen zu bereichern といふ zu 付き不定法の句は上の何処に関係するか?

解釈要項
1)Vorzug は「長所」。Mittel は「手段」。
2)der expressionistische Film は「表現派映画」と訳す。これを「表現的映画」なぞと訳しては意味を成さぬ。
3)demonstrieren は「例示する」。
4)und damit は「斯くして」「それで」「以て」である。これを「又それと共に」等と訳すやうでは、力の薄弱を示すものである。
5)die Ausdruckswelt...zu bereichern の句は die Notwendigkeit の Attribut である。

訳文

第一着に表現派映画の手段を調へ、以て映画の表現世界を新しき形式もて豊富ならしむる必要を例示したことは、独逸映画工業の一長所と称すべきである。

Monday, April 13, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 105-107)

範例
A good king is, as it were, the father of his people.
明君は宛ら民の父なり。

解説
As it were.  =As if it were actually so.
宛ら。    =事實然るが如く。

Adverbial Clause にして were は Subjunctive Past の假定を示し、全體の意は
(a) If one might so put it.
(b) If one might use the expression.
(c) If one might be allowed to say so.
爾か云ひ得可くば。
(d) So to speak.
(e) In some sort.
  云はゞ、宛ら、恰も。
(f) Figuratively speaking.
    譬へば。
に同じ。
例えば
 A good king is, as it were            , the father of his people.
=A good king is, so to say             , the father of his people.
=A good king is, so to speak           , the father of his people.
=A good king is, in some sort          , the father of his people.
=A good king is, if one might so put it, the father of his people.
=A good king is, figuratively speaking , the father of his people.
    Etc.        etc.

用例
1.  She has thought fit, as it were, to mock herself.
    Steele
    彼女は自分を嘲るのを善い事と思つたやうである。

2.  After travelling for miles through the desert we came to an island, as it were, of palm trees.
    四三 帝大農科
    砂漠を通して幾哩も進んだあとで我々は丁度椰子の木の島のやうな處に來た。

3.  For years the phrase had been in my mind--had, as it were, become part and parcel of myself.
    Max O'Rell
    此言は久しい間私の心にあるので、云はゞもう私の體の要素となつて了つた。
    part and parcel (=an essential part) 要素。

4.  The French girl is every day getting free. She is no longer cloistered, as it were, at home and at school.
    Max O'Rell
    佛蘭西の娘は日に日に自由になつて來る、今はもう家庭にあつても學校にあつても譬へば僧庵に閉ぢ込められて居ると云つた樣子は無い。

5.  The wind drooped, as it were, folded its wings and sank to rest; the fragrant warmth of night rose in whiffs from the earth.
    Turgenev
    風は譬へば悄然とうなだれ、翼を収めて眠に就いて了つた、暖い芳ばしい夜の空氣が大地から立ち昇つて居た。

6.  They stood there, as it were, in the utter solitude, which would be made none the less solitary by the densest throng of human life.
    N. Hawthorne
    彼等が其處に立て居たのは宛ら無人の境に在るが如くで、人は如何に多數居つても淋しさは更に變らなかつた。
  none the less (=all the same) 少しも減ぜず、依然として、同じく。

Saturday, April 11, 2020

エリザベス女王と「博士の異常な愛情」

エリザベス女王がロックダウン下で生活するイギリス国民にメッセージを出した。わたしはそれをBBCで聞いた。じつをいうと、わたしは彼女のクリスマス・メッセージを聞いて英語にのめりこんだ。気品のあるクイーンズ・イングリッシュに魅了されたのである。彼女がメッセージを出すのはクリスマスのときと国会が開かれるときぐらいだから、今回のメッセージは異例といっていいだろう。それはともかくエリザベス女王はメッセージのなかで医療従事者に感謝し、「弱いものを守るために」自粛生活を送る市民に感謝した。そして最後に "We will be with our friends again, we will be with our families again, we will meet again" と結んだ。

それを聞いたとき、なにか妙に聞き覚えがある言葉だなと思ったのだが、それがようやくわかった。ヴェラ・リンの We Will Meet Again という曲だ。これは1940年代、第二次世界大戦中にはやった歌である。わたしがこの歌を知ったのはキューブリック監督の「博士の異常な愛情」を通してだ。この傑作映画のいちばん最後に彼女の歌が流れる。それを思い出したとき、エリザベス女王が第二次世界大戦のころを思い出し、今の状況をそれにたとえているのだということがわかった。女王が第二次世界大戦中、はじめてスピーチをおこなったときのことを語った理由もよくわかった。コロナとの戦いは戦争なのだ。歴史を知る女王には、あのときと今とが折り重なって見えている。そして不自由をしいられるけれども、われわれはかならず勝って「ふたたび相まみえるだろう」という、どことなく悲壮で、どことなくセンチメンタルなメッセージを国民に発したのだ。国民のほうも、現在のイギリスが世界大戦に匹敵する危機に見舞われているという女王の認識を、印象深く受け取ったにちがいない。

ひるがえって日本は、これが戦争だということがわからないらしい。この戦争のストラテジーは人間の接触の縮減、罹患者の発見とその行動の追跡なのだが、政府はそのための施策、たとえば接触の縮減がもたらす経済的損害に対する補償とか、検査の拡充、人の動きの規制などといったことを、なにもしないというありさまである。戦争をしたがるこの国のリーダーは、じつは戦争の仕方を知らないのである。

Thursday, April 9, 2020

全日本プロレス新木場無観客試合

無観客試合でも面白いプロレスは見られるのではないか.逆に無観客だからこそ独特の空間が生まれるのではないか。そんな期待は裏切られなかった。わたしが見た最初の無観客試合はプロレスリング・ノアの潮崎対藤田戦。これは観客がいたなら絶対にありえない試合だった。ゴングが鳴ってからまるまる三十分間、両者がにらみ合うだけだったのだから。あんまり二人がじっとしているので、身体が冷え切って動いたときに怪我をしないかと気になってならなかった。しかしとにかくこの試合は無観客試合の可能性を示したと言える。生放送で見ると、いつなにが起きるかわからないと、画面に釘付けになってしまった。試合後もファンのあいだではずいぶん話題になった。

さて四月六日の全日本の試合だが、こちらはまた独特の雰囲気が漂っていた。選手のレスリングに対する愛がぎゅっと詰め込まれたような興業だった。試合が次々と中止になり、身体の中にエネルギーが鬱積しているのだろう。そしてレスラーはやはりレスリングを通じてしか自己表現ができないと、あらためて感じたのだろう。レスリングへの情熱を全員がふたたび確認し合ったような、ちょっと感動的な試合だった。

最初の数試合は短時間で決着がついた。たまりにたまったエネルギーを爆発させあったので、実力が上と目される選手が格下からあっという間にスリーカウントを奪ったという格好だ。最後のメインイベントは、大迫力だった。諏訪魔・宮原・ゼウス 対 石川・ジェイク・青柳という面妖なチーム構成だったが、いずれ劣らぬ実力者ばかりで、お互い意地もあるし、時間を掛けて調整ができたからコンディションも抜群だ。延々六十分戦い、時間切れ引き分け。試合後は六人全員が並んで、画面の背後のファンたちに腕を上げてみせた。

ジェイクは「プロレスってみんなに希望とか、夢だったりとか、そういうのを提供する職業」と言ったけれど、それは「いま全日本プロレスにできること」と銘打たれたこの興業に参加した全選手の思いとおなじだろう。力道山が敗戦後の日本を熱狂させ、小さな明かりを灯してくれたが、そうしたプロレスの原点を全員が再確認した感じである。

彼らのような文化の継承者を政府はしっかり支援しなければならないのだが、およそ効果のない施策しか打ち出せない政府はさっさと退陣してほしい。コロナよりも今の政府のほうが人を殺している。

Tuesday, April 7, 2020

利権と健康

危機に瀕したときにその人の本性が分かる、という俗説があるけれども、コロナ・ウイルスが猛威をふるう中、いろいろなことがはっきりと見えたのは悲しい「収穫」だった。ひとつはわれわれの健康に対する権利が利権によって制限されているという事実である。五輪延期が決まったとたん、罹患者の数の発表が急激に増えたこと、これは海外でも揶揄的に報道された。それまでも日本の発表する数字は少なすぎると疑われていたからだ。コロナに感染しているかどうかを調べるPCRテストが希望者に行われなかったのも、国立感染症研究所がデータを独占しようとして民間の機関には許可しなかったのだという。テストをしないことに対していろいろな「合理的説明」がなされたが、すべてはイデオロギーである。早期にコロナの封じ込めに成功した国、たとえば韓国や台湾では大規模で簡易な検査方法を用いて、患者の特定を急ぎ、その情報を共有した。

WHOですら利権団体である。日本から献金を受けると、日本のコロナに対する対応を賞賛したり、台湾がコロナの封じ込めに見事な手腕を発揮しても、中国に遠慮して彼らの成果を無視するのだ。香港ニュースに出演したWHOのアイルワード氏が台湾に関する質問を意図的に無視したことは世界的に大きく報じられた。これは大問題だ。武漢でコロナ・ウイルスが発見されたとき、WHOの対応が甘かったせいで、パンデミックに拡大したのではないかという指摘があるが、WHOが中国に遠慮しているという裏事情があったのだとしたら、なるほどそうした批判にはある程度の信憑性があるなと思う。しかしこれではWHOの意味がない。台湾がコロナ封じ込めのための知見を持っていてもWHOはそれを評価しないし、その他の国に伝えようとしない。たとえば台湾は中国からの人の流れを断固断ち切り、旅行者には早いうちから隔離を強制した。その結果、感染は他の国よりも抑えられ、死亡者もすくない。そのことをWHOが強調して世界に発信していたなら、もう少し状況は変化していただろう。

われわれはこうした利権の構造に安全や健康や自由や権利が、知らないうちに制限されているのではないかと、考えを巡らさなければならない。わたしがTPPに反対なのは、まさにそれがわれわれの自由の大切な一部を、企業に利権として売り渡すことになるからである。それは危機の時に甚大な損害となってわれわれにはねかえってくる。

Sunday, April 5, 2020

トポロジカル・リーディング その2

ある人を通して別の人が語っている構造。AとBが奇妙な一体性(同時に異なる存在でもあるのだが)。これが隠された形で用いられている場合は、クライン管型の読解をしていかなければならない。しかしこの二重性が顕在的にテキストにあらわれている場合がある。その場合はクロスキャップ型の構造を持つという。

クロスキャップ型の例としてシェイクスピアの「冬物語」をあげることができる。細かい説明は省くが、二人の王リオンディーズとポリクシニーズは同一にして、同時に完全に他なる存在だ。彼らのパラドキシカルな関係性は劇の冒頭から強調されている。さらにリオンティーズの妻ハーマイオニーは両者を一つにつなぎつつ、かつ分断する作用をあらわしている。彼女は連続点にして切断点、両者をもっとも強力に繋ぐ瞬間に、両者を切り離す力を最大限に発揮する逆説的な力である。ハーマイオニーはクロスキャップの自己交差の交線を示している。

さらにAからBへの反転が一人の人間によって表現される場合がある。これはメビウスの帯型という構造になる。

たとえばわたしの翻訳した作品の中では「オードリー夫人の秘密」がそうだ。オードリー夫人はヴィクトリア朝の賢妻良母「家庭の天使」であり、同時に当時のジャーナリズムでおどろおどろしく報道された女殺人鬼でもある。彼女は当時の女性の徳の一方の極端と、他方の極端を同時に合わせ持っている。そして一方の極端から他方の極端へと頻繁に変貌する。

去年読んで感心した今日出海の「山中放浪」もメビウスの帯型の構造を持っていると思う。

じつのところクロスキャップ型とメビウスの帯型は判別が難しい。クロスキャップには Cut、つまり自己交差の交線が存在するが、メビウスの帯もその交線を含意しているからである。だからこれらの区別は「一応」の区別というべきだろう。

「ジキルとハイド」、「ドリアン・グレイの肖像」、ウォルポールが書いた「殺す者と殺される者」、ドッペルゲンガーを扱った作品群はメビウスの帯型かクロスキャップ型に属するものが多いのではないか。ディズレイリの「シビル」における「二つの国家」もメビウスの帯を構成していると思う。連続性と断続性がパラドキシカルに絡み合っているから。またミステリに於いては犯人と間違われる者がいるが、ああいう存在と犯人との関係は推理小説がパラドクスに接近していることを示すものではないか。

Friday, April 3, 2020

トポロジカル・リーディング

トポロジカル・リーディングとは、今わたしが考えている読解の方法である。ホラー映画「ドールズ」と「わが名はジョナサン・スクリブナー」という小説を解釈したとき、物語構造の類似に気づいて考え始めた。これを用いると物語の様相が見事に反転する。「ドールズ」は、一見すると、父と継母の暴力に対する、幼い女の子の復讐の物語のように見えるが、それがわたしの読解では、自分を裏切った夫や、夫を自分から奪っていった女への恨みをはらす、最初の母親のサディスティックな願望の物語となる。「わが名はジョナサン・スクリブナー」は、語り手のレクサムが自分の雇い主である不思議な男スクリブナーについて語った物語のように見えるが、わたしの読解ではスクリブナーこそがレクサムについて書いていることになる。

わたしはこの読解は重要な意味を持つと思う。映画批評ではよく精神分析学が応用されるのだが、それらはわたしの見る限り、物語の表層にフロイトやラカンの理論を当てはめているだけのものだ。彼らは読解をしていない。読解のしかたを知らない。読解に成功すれば、その読解がすでに精神分析学的なものであると理解されるだろう。

わたしは自分の読解を(たった二つだけなのだが)形式化してみようと思った。そして多少なりとも文学や哲学や理論的なものに親しんでいる人なら、この読解が用いられるようにしたいと思っている。そこで次のように特徴をまとめてみた。

1 作中の主要人物を見定める。

これはわかりやすい。主人公、語り手にまず注目すればいい。「ドールズ」では女の子のジュディ、「ジョナサン・スクリブナー」では語り手のレクサムが主要人物だ。

2 「見えない登場人物」に着目する。

「見えない人物」とは、英語では unseen character とか invisible character とか云われる。物語の舞台にはあらわれないが、その存在が読者に感得されうる人物、あるいは舞台にあらわれる人々によって言及される人物である。わたしは marginal character とか supplementary character と呼んでもいいだろうと思っている。
 このような人物は特定するのが難しいようだが、次の点に「一応」注意して欲しい。

2.1 この読解が可能な作品は「主要人物」(A)から「見えない人物」(B)へと向かう、(A→B)の方向性を持っている。

これは二作だけしか例を見つけていないので間違っているかもしれない。しかし見つかった二例の作品はいずれも最後において「見えない人物」が登場し、あるいは「見えない人物」のいるところへと向かう。これは偶然かも知れないが、わたしには意味のあることのように思える。

3 「見えない人物」(B)が「主要人物」(A)を通して語っている構造を見抜く。

「ドールズ」においては、Aの欲望がBの欲望であることに気づけば、BがAを通して語っていることが判明する。「ジョナサン・スクリブナー」においては、Bの正体が作者であることを見抜けば、この構造がわかる。物語が持つ錯視性(アナモーフォシス)に気づくにはある種の慣れが必要だが、数をこなせばそう難しくはない。ここがわかれば、われわれは物語を裏返し、もうひとつの物語(光景)へとたどり着くことが出来る。

4 Bが物語の一要素、しかも marginal で supplementary な要素であるにもかかわらず、物語そのものの枠組みを構成していることを見抜く。

これは3によって物語の裏面を構成することができれば、必然的にわかることである。物語内部の一要素が、じつは物語を成立させているフレームワークそのものであることが判明するはずだ。supplementary な要素が枠組みに反転するこの読み方はデリダが示した読解とまったく同じである。3と4がトポロジカル・リーディングの要になるが、この部分をまとめるとこうなる。「わたしが語るとき、問うべき問題は、誰が語っているのか、そしてどこから」

以下、この読解の特徴について気づいた点をあげておく。

5 トポロジカル・リーディングは同一律の成立しない領域を扱う。

AとBは異なるにもかかわらず、重なり合う。「AはBである」と「AはBでない」という両方の命題が同時に成立する。

6 トポロジカル・リーディングはメビウスの帯やクライン管の構造と類似性を持っている。

裏と表が区別できないメビウスの帯、内部がそのまま連続的に外部となるクライン管。これらとわたしの読解の類似は言うまでもないだろう。映画であれ文学であれ、テキストの内部では奇怪な現象が起きている。それを思考するにはユークリッド幾何学によって規定されるような空間を考えていてはだめだ。



7 トポロジカル・リーディングは古典的な推理小説の構造と類似性を持つ。

古典的なミステリにおいては、もっとも犯人とは思えない人物が、犯罪を構成していたことを解き明かされる。トポロジカル・リーディングは、不在の存在、マージナルな存在が、物語を構成していたことを解き明かす。ちょっと裏話をすると、わたしに3の考え方を教えてくれたのはシリル・ヘアの「英国的殺人」である。

8 Bは充たされない欲望をかかえている。

「ドールズ」を例に取ると、離婚された母親、すなわちBは自分の現状に不満を抱えている。その不満を穴埋めするものとして夢、つまり「ドールズ」という物語を生み出すのである。「ジョナサン・スクリブナー」の場合は自己実現の手段として「作者」は自分が考えるどのようなキャリアにも満足できない。おそらくメタレベルにある種の亀裂が生じているという事態も、単なる偶然ではない。このタイプの解釈が可能な物語に必然的につきまとう現象だと思う。

9 Bが人間ではなく、物であったり、動物であったり、観念であったり、さらには signifier である場合もあるかもしれない。

これはわたしのこれから先の研究課題だ。signifier が人間を通して語る? そう、わたしはこういう例を見つけられるとかなり確信している。フロイトの症例を読むとそうとしか思えない。

10 「ドールズ」や「ジョナサン・スクリブナー」はクライン管型といっていい構造を持っている。他にもメビウスの帯型やクロスキャップ型など、さまざまな奇妙な構造があるはずである。一つの作品の中に二つのクライン管があることだって考えられる。

たとえば「オードリー夫人の秘密」で解説に附けた解釈などはメビウスの帯型ではないかと思う。あるいはこのブログで紹介した今日出海の「山中放浪」もこのメビウスの帯タイプの構造を持っているはずだ。しかもこのメビウスの帯にはあちらこちら穴があいているらしい。非常に面白い。

Thursday, April 2, 2020

「闇の深みへ」アマゾンから出版のお知らせ

「闇の深みへ」がアマゾンから出版されることになりました。右側のリンクからアマゾン・サイトへ飛ぶことができます。ご笑覧いただければ幸いです。

Wednesday, April 1, 2020

基準独文和訳法

権田保之助著
有朋堂発行
「基準独文和訳法」より

問題5(p. 45)
Die moderne Zeitung ist eine typische Erscheinung des kapitalistischen Zeitalters. Alle mit ihr verknüpften Erscheinungen haben im Interesse des Unternehmers (Verlegers) den Daseinsgrund, an dem sie haften, mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen.

研究事項
1)die moderne Zeitung の訳は?
2)Erscheinung には「現象」といふ訳の外に、「出版」の訳もある。此処では何れが正しいか?
3)im Interesse einer Person (einer Sache)には、「或人(或事)の為めに」「或人(或事)の利益の為めに」といふ意味があるが、此処の im Interesse はさういふ意味か?
4)an dem sie haften の中にある代名詞はどの名詞を代理してゐて、且つこの副文章は何か?
5)mag sie auch...sagen lassen といふ副文章の説明をせよ。

解釈要項
1)modern といふ語は「近代の」「近世の」の義を表はすので、die moderne Zeitung は「近世新聞紙」が適訳。之を「今日の新聞紙」とか、「現今の新聞紙」とかと訳しても間違ではないにしても、術語的表現としては不十分である。
2)Erscheinung は此所では「現象」の義である。事が新聞紙に関するので、これを「出版」と訳しなどしては誤である。
3)此の im Interesse は „im Interesse einer Person den Daseinsgrund haben“「或人の利害関係の中に存在理由を有する」といふ熟語の中の im Interesse であるから「或人の為めに」の im Interesse ではない。
4)an dem sie haften の dem は Daseinsgrund を指し、sie は alle mit ihr verknüpften Erscheinungen を受けてゐる。然るに dem を Unternehmer にかけたり、sie を Zeitung に取つたりしては誤である。
5)mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen は認容文章で、「尚ほ非常に多くのことが、仮令それに反対して言はれ得るにしても」の意味である。

訳文
近世新聞紙は資本主義時代の一典型的現象である。それと結合せる一切の現象は、仮令尚ほ多くの異論はあり得るにしても、起業家(発行者)の利害関係に、それ等の依つて立つ存在理由が存するのである。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...