クロスキャップ型の例としてシェイクスピアの「冬物語」をあげることができる。細かい説明は省くが、二人の王リオンディーズとポリクシニーズは同一にして、同時に完全に他なる存在だ。彼らのパラドキシカルな関係性は劇の冒頭から強調されている。さらにリオンティーズの妻ハーマイオニーは両者を一つにつなぎつつ、かつ分断する作用をあらわしている。彼女は連続点にして切断点、両者をもっとも強力に繋ぐ瞬間に、両者を切り離す力を最大限に発揮する逆説的な力である。ハーマイオニーはクロスキャップの自己交差の交線を示している。
さらにAからBへの反転が一人の人間によって表現される場合がある。これはメビウスの帯型という構造になる。
たとえばわたしの翻訳した作品の中では「オードリー夫人の秘密」がそうだ。オードリー夫人はヴィクトリア朝の賢妻良母「家庭の天使」であり、同時に当時のジャーナリズムでおどろおどろしく報道された女殺人鬼でもある。彼女は当時の女性の徳の一方の極端と、他方の極端を同時に合わせ持っている。そして一方の極端から他方の極端へと頻繁に変貌する。
去年読んで感心した今日出海の「山中放浪」もメビウスの帯型の構造を持っていると思う。
じつのところクロスキャップ型とメビウスの帯型は判別が難しい。クロスキャップには Cut、つまり自己交差の交線が存在するが、メビウスの帯もその交線を含意しているからである。だからこれらの区別は「一応」の区別というべきだろう。
「ジキルとハイド」、「ドリアン・グレイの肖像」、ウォルポールが書いた「殺す者と殺される者」、ドッペルゲンガーを扱った作品群はメビウスの帯型かクロスキャップ型に属するものが多いのではないか。ディズレイリの「シビル」における「二つの国家」もメビウスの帯を構成していると思う。連続性と断続性がパラドキシカルに絡み合っているから。またミステリに於いては犯人と間違われる者がいるが、ああいう存在と犯人との関係は推理小説がパラドクスに接近していることを示すものではないか。