Friday, August 31, 2018

レスラーと読書

わたしが一番好きなレスラーはジャイアント馬場。あの人は、戦うときは独特の凄みがあるけれど、普段は温厚な紳士で、いかにも懐が広く、しかも温かい感じがした。なによりも好感を抱いたのは、彼が読書家であると言う点。たしか丸谷才一が書いていたはずだが、馬場さんは近頃読んで面白かった本として石川淳の「狂風記」をあげたことがあった。なかなかいい趣味をしている。

今の全日本プロレスで読書家といえば大森隆男だろう。たしか若い頃、武者小路実篤の本が好きだったとか聞いたことがある。

青木篤志も今年だったか去年だったか、なにかのきっかけでシェイクスピアを読んでいた。

わたしは本好きなので、読書をするレスラーにはとりわけ親近感を抱く。

そういえばアメリカの人気レスラー、ジョン・セナは今年の九月ころに子供向けの本を出すそうだ。映画の「カーズ」とよく似た話で、こっちはモンスター・トラックの家族が活躍するらしい。

アメリカのレスラーは本格的な自伝を書くことも多い。現役時代は「マンカインド」を名乗っていたミック・フォーリーの Have a Nice Day なんてベストセラーになっているのだからたいしたものだ。それほど文章はうまくないけど、達意ではある。ちなみにこの本はゴースト・ライターが書いたものではない。ミックはその点を序文であきらかにしている。あれは翻訳が出ているのだろうか。出てないならこのブログで紹介してもいいけれど。

Wednesday, August 29, 2018

「もう一人の女」 Another Woman

これはコーエンとJ.U.ギージイという人が共作した1917年の作品。読んで見たらミステリではなく、ロマンチック・コメディだった。しかしアメリカの小さな町にちょっとした混乱が起き、最後に関係者が全員集められて、なぜ混乱が起きたのか、その謎解きをするという形なので、ミステリとよく似ている。似ていると言えば、本作はプラウトゥスの「メナエクムス兄弟」とかシェイクスピアの「間違いの喜劇」ともよく似ている。本作を読みながらわたしは、一度この手の作品をまとめて読んで、いろいろと考えてみたいと思った。

物語は二組のカップルの関係をめぐるものである。一組はすでに結婚しているのだが、夫のほうは独身時代、その町のドンファンとしてさんざん浮き名を流した男である。妻は彼と結婚できて喜んではいるが、自分の容姿が人並みでしかないことを気にし、心密かに夫の浮気を怖れている。

もう一組は婚約中のカップルだ。こちらは男も女もごく普通の人間。ただ、男は一組目のカップルの男と仲がよく、顔もよく似ている。

「顔もよく似ている」と聞けば、ははあ、人違いが生じててんやわんやの騒ぎになるのだな、と予想がつくだろう。その通りである。

ここに町の外から一人の女がやってくる。がらっぱちな感じの女で、口のきき方も伝法だ。彼女は最初のカップルの男と結婚するためにここに来た、というのである。その男の奥さん、驚くまいことか。誤解に次ぐ誤解の結果、彼女は夫と別居することになる。

このとばっちりを受けるのが二組目のカップルの男。顔が似ているために町の外から来た女に結婚相手と間違えられ、こちらもフィアンセから婚約破棄を申しつけられる。

しかしホテルのフロント係がそのありさまを見て、真相を察し、全員を集めて見事、誤解を解くのである。

他の人との共作ではあるけれど、軽快なテンポで進み、いかにもコーエンらしい作品だった。

Monday, August 27, 2018

岩本煌史の変化

岩本煌史が TAJIRI に接近したとき、彼は変化を求めているのだと思った。

岩本が才能豊かな選手であることは誰もが知っている。実際、去年のバトル・オブ・グローリーでは優勝もしている。しかしいまいち精彩がなかった。アピールするもの、外に広がるものがないのだ。誰だったか忘れたが、ある選手がその点を批判したとき、わたしも頷くしかなかった。

なぜ外に訴えるものがないのかと、つらつら考えるに……どうも自分の道を進むということにこだわりすぎていたのではないかと思う。彼の意識はつねに内側にむかっていたような気がする。自己研鑽とか、自己鍛錬とか、自己修養といった言葉がぴったりくる男だった。

しかし自己にこだわりすぎると自家中毒を起こし、成長が止まることが往々にしてあるのだ。芸術家は先行者を摸倣し、摸倣することで自己の独自性を見出す。他に就くことで自を発見するというパラドクスが、芸術の要諦である。「孤高の芸術」を必殺技とする岩本は、そのことに気づいたのだろうか。彼は TAJIRI という学びがいのある先輩に接近し、さらにジェイク・リーの新ユニットに参加した。

このように意識を変革した男をこそ、われわれは刮目して見なければならない。先日の流山大会で彼は見事、青木からチャンピオン・ベルトを獲ったけれど、これは彼の変化が正しい方向にあることを示すものにすぎない。まだ彼の変化ははじまったばかりである。どのように変化するのか、変化の行く末にどんな岩本の姿があるのか。これは大いに注目に値する。いまやチャンピオンとなった彼の変革は、そっくりそのまま全日本ジュニアの変革といってもいいのだから。

Saturday, August 25, 2018

「おっさんを消滅させます」

プロレスではタイトル戦の前に選手たちが記者会見を開き、意気込みのほどを語るのが慣行となっている。

もちろん真面目にしゃべる人もいるし、対戦相手に遺恨があって不穏な雰囲気を漂わせる人もいる。また、試合では真剣に戦うが、こういう場では面白いことを言って笑わせる人もいる。

八月二十六日に行われた全日本プロレス・アジアタッグ選手権の会見は面白かった。チャンピオン野村・青柳組に、大森・木高組が挑戦する試合である。大森は気心の知れた木高とのタッグということで、口も軽かった。木高も適宜合いの手、というか、突っ込みを入れて好調だった。

しかしわたしが感心したのはチャンピオンチームの反応である。青柳は絶好調であることを訴え、今は何も怖いものがない、No Fear であると大森をむこうに言い放った。

青柳は昔から負けん気が強いだけでなく、コメントもうまい。No Fear が彼の口から飛び出したときも、うまいことを言うなと思った。会見はドンキホーテの店内で、お客さんを前に行われたようだが、彼が No Fear を口にした途端、おおっとどよめきがあがった。

野村のコメントもよかった。彼は口べたなのか、あまりコメントに冴えがないのだが、この日はちょっと違った。記者から「ベテランの挑戦者をどう思うか」と問われ、彼はほっぺたでニコニコ笑いながら「これに勝ったら、もう、おっさんの挑戦は受けない。おっさんを消滅させます」と応えた。

「おっさんを消滅させます」には会場からも笑い声があがった。野村のコメントとしては上等の部類に入るだろう。

こういう楽しい前哨戦を見せられたら、本戦も見ないわけにはいかない。大森にはおっさんの意地を、木高にはジュニア・ヘビーの老練で老獪な技術を見せて欲しい。(大森は木高の師匠格だが、実際の試合でチームをリードすべきは木高のほうだろう。タイトルを獲るか獲れないかは、木高の活躍にかかっていると思う。)それが野村・青柳の爆発力とぶつかれば、これはもう面白くないわけがない。

Thursday, August 23, 2018

「愛には危険がともなうことも」 Love Can Be Dangerous

1955年、コーエンの晩年に出た作品である。おそらく最後の作品ではないだろうか。もしそうだとしたらこれは掉尾を飾るにふさわしい作品といわなければならない。コーエン的なミステリの究極の形が示されているのだから。

物語はこんなふうに始まる。カリフォルニアの高級リゾート地で殺人が起きた。ここにはコテージがいくつもあって、隣のコテージで開かれていたパーティーに参加していたある女性が、その最中に自分が借りているコテージに戻ってみると、男の死体があったのである。さっそく警察が呼ばれ、ウォルシュ警視と若い巡査部長のダニー(ダニーが本編の語り手である)が現場にかけつける。問題のコテージに入ると、確かに男の死体がある。しかし女性が発見したときとは違う部屋にいたのだ。

この女性は嘘をついたのか。それとも警察が来るまでのあいだに誰かがコテージに侵入し、死体を移動したのか。捜査は難航し、その間に第二、第三の殺人が行われる。

ネタバレしないように筋書きは途中でおさえたが、しかしこれから先でネタバレせざるをえない。「コーエン的なミステリ」を説明するにはそうするしかないのだ。

探偵小説の探偵は、普通、事件の外部に立っている。彼は冷静に、あるいは冷徹に事件を観察し、推理する。事件の外部に立つことによって、事件の内部にいる人々には見えないものが見える。内部の人には当然と思えることも、彼には当然ではない。その視差が推理を可能にする。わたしは谷崎潤一郎の「途上」という短編を、そうした内部と外部の差を典型的に示した作品だと考えている。

ところがこの探偵が内部の人間となんらかの関係を持ってしまうとどうなるか。二十世紀の初頭から三十年代くらいまでの作品をいろいろ読んで見たところ、どうも物語は推理小説からメロドラマに変質してしまうのである。探偵が内部の人間と関係を持ったとたん、内部を外部から見る物語ではなく、内部を内部から見る物語になるのだ。外部から内部に移行した探偵は探偵能力を失い、内部の物語の一人物と化してしまう。「トレント最後の事件」で探偵が事件を解決できないのは、彼がいろいろな形であらかじめ事件の内部にまきこまれているからだ。

これに反してハードボイルドの探偵は、積極的に内部にコミットし、内部の物語の核へと突き進む。この核というのは大抵の場合フェム・フェタールと言われるものなのだが、探偵は彼女を特定し、かつ彼女が持っている力・魅力を無化してしまうのだ。彼女の存在が崩壊したとき、探偵は物語からある種の距離を取ることができるようになる。

コーエンのミステリは上記の二つのタイプの混合型である。「赤いアリバイ」をレビューしたときにも書いたが、探偵はある「予断」をもって事件に相対する。つまり「この男は無実だ」という予断である。彼はまだ事件の捜査を開始していないし、すべての人を疑うというのが捜査の鉄則なのに、コーエンの探偵ははじめから、ある意味、無根拠な信頼を内部の人間にたいして抱いてしまう。しかし内部の物語にどうしても解消し得ない矛盾があることに気づき、そこではじめて彼が前提としていた「予断」を疑うようになるのだ。

これは危険な探偵方法である。もしも矛盾が生じなければ「予断」が疑われることはないのだから。

さて、「愛には危険がともなうことも」は厳密には探偵小説ではないかもしれない。事件の捜査に当たるのはロサンジェルスの警察だからだ。厳密に言えば、Police procedural というジャンルになるのだろう。だが、語り手でもある巡査部長ダニーはコーエン的な探偵といっていい。彼は最後に見事な推理を展開し、真犯人を指摘する。それは名探偵の推理のように読者をはっとさせる。が、彼が標準的な名探偵と違うのは、彼が登場人物の一人、美しいある女性と恋に陥る点である。そのことによって事件を見る彼の目には盲点が生じるのだ。

恋に陥ることで彼には事件が見えなくなる。彼は「予断」を持ってしまうからだ。しかし彼の上司であるウォルシュ警視や全米の警察のネットワークが、隠された真実の一部をあばくことに成功する。それを聞いた瞬間、ダニーは気がつくのだ。彼がその命を守ろうと必死になっていた愛する女性、彼の隣に座り、その腰をしっかりと彼が抱いていた女性、彼女こそが真犯人なのだということに。

フェム・フェタールは「男にとっての欲望の対象」であり、「男たちのシンプトム(徴候)」である。彼女は魅力的に見えるけれども、その魅力は仮面に他ならない。ダニーは物語の内部に入りこみ、事件の当事者の欲望空間をなぞるように進んでいった。ある意味で彼は当事者と一体化したのである。しかし最後に彼は内部の世界のリビディナルな核を突き止め、その無効性(仮面にすぎないこと)を宣言するのである。

本編は名作とまではいわないが、しかしコーエンのミステリの中では白眉の出来を示している。ただ翻訳はちょっと難しいなあ。手がかりが英語の綴りにあるから。しかし英語ができるミステリ・ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。

Tuesday, August 21, 2018

日本に知的文化はない

高知県立大学が蔵書三万八千冊を焼却した。中には貴重な郷土本、絶版本がたくさんあったとされている。

なぜ他の図書館に寄贈しなかったのかという、ごくごく当然の疑問が一般人から多数寄せられている。

しかし日本はもともと知的な財産をないがしろにする国である。貴重な資料であっても保管場所がなくなればぽいと捨てて顧みない。重要な行政文書もどんどんなくなっている。あれは自分たちに都合の悪いことを隠す意図も大いにあるけれど、もともと日本人には知的な財産を保存するという観念がないからである。

大学は文化の拠点のようにいわれるけれども、日本の場合はセクハラ、パワハラの巣窟であり、権威主義をもり立てるだけの商業施設で、文化なんか生み出してはいない。世界における日本の大学のランクは、今後、ますます下がっていくだろう。

今の政権はまさに日本を象徴する。日本語が読めず、ゴルフばかりする首相、漫画しか読まない大臣。愚昧な発言を繰り返す議員。なぜ彼らが選ばれるかと言えば、教養主義に対する漠然とした反感が国民のあいだに広がっているからだろう。

そんな日本にも知を紡ぎ出そうとする努力する思想家がかろうじていたものだ。吉本隆明とか江藤淳とか丸山眞男とかだ。しかしその系譜も柄谷行人(まだ生きているけど)で途切れたよう見える。日本にあったなけなしの知の伝統も消滅寸前である。

日本は西洋の猿まねをしてきたが、化けの皮がはがれた、あるいはお里が知れた、というのが現状ではないだろうか。森鴎外の「金比羅」は現代日本への批判としても有効に読める。

Sunday, August 19, 2018

図書館を守れ

ザ・ガーディアンの記事に驚いた。

イギリスでは公共図書館が次々に閉鎖されたり、運営がボランティア任せになりつつある。どの州も財政的な問題が深刻化しているからである。

ノーサンプトンシャー州も二十一の図書館を閉鎖する計画を立てていた。

これに対して一人の女の子とその家族が裁判を起こし、州に計画の見直しを求めた。

高等法院から出た判決は……「州の計画決定過程は法にかなっていない」というものだった。もうちょっと詳しく言うと、図書館が閉鎖されたのちの、住民に対する法律的義務、物質的配慮が十分になされぬまま、計画が立てられている、と批判したのである。

裁判官であるイップ氏は「台所事情は充分にわかっているが、しかしそれでも州は法的に振る舞わなければならない」と言っている。

イギリスの図書館では本の貸し出しや子供たちへのサービスだけでなく、バスの定期券や障害者のブルー・バッジの発行など、いろいろな住民サービスを行っている。二十一も図書館がなくなったら、多くの住民が不便を感じるであろう事は疑いない。

しかしわたしが感心したのは裁判官のあきれるくらい良識的な考え方である。「州政府が財政的な問題によって動機づけられることは批判できない。しかし考えるべきことは財政だけではない。州政府は法的な義務を果たさなければならないのだ」

為政者には果たすべき法律的義務がある。

立憲主義を否定する政治家がうようよしている日本においては、こんな当たり前のことが新鮮に響くし、また司法が堂々とそれを根拠に裁定を下す姿は、うらやましくてならない。

もう一つ感心したのは、裁判を起こしたのが一人の少女とその家族だということだ。イギリスも日本も島国というが、個人主義ははるかに彼方の国のほうが根づいているようだ。しかも裁判所は為政者と市民のあいだの力関係ではなく、純粋に法律的観点から判断を下した。これまた当たり前のことだが、どこかの国では司法が権力に媚び、その当たり前が通用しないのである。

Friday, August 17, 2018

「愛にアリバイはなし」 Love Has No Alibi

昔、コーエンのパルプ小説にはまって、手当たり次第に読んでいた時期がある。フレデリック・ブラウンやリチャード・マーシュのような軽さや妙味があって、少しもあきなかった。先ごろ Hathi Trust のサイトを調べたら、まだ読んでいないコーエンの作品がデジタル化されて提供されていたので、ミステリ作品を選んで読んでみることにした。前回レビューした「赤いアリバイ」も Hathi Trust のサイトで見つけた。

今回読んだのは「愛にアリバイはなし」。一九四六年の作品だ。パルプ的な味わいは残しているが、これはかなり本格的なミステリである。しかもぞくぞくするようなストーリーテリングは、いつもとまったく変わらない。コーエンはとにかく、読者の興味をかき立てる筋の作り方に長けている。

主人公は若き建築家カーク。彼は独身だが、とびきり有名なダンサーで美人のダナと恋をしている。もちろん彼らは結婚したいのだが……ダナはすでにダンスのパートナーであるリカルドと結婚していたのだ。といっても二人の仲は悪く、現在は別居中である。さっさと離婚すればいいではないか、とわれわれは思うけれど、リカルドは最高のダンス・パートナーを失いたくないので、離婚に同意しないのである。

というわけで、物語はダナがダンスを披露する、ニューヨークの華やかなクラブを舞台に展開される。

映画で見るようなロマンチックなセッティングだが、建築家カークの銀行口座に、謎の人物から十万ドルが振り込まれるという奇怪な出来事が起き、ここから不吉な通奏低音が響きはじめる。

いったい誰が、何のためにこんな大金を彼の口座に振り込んだのか。しかし奇妙な事件はそれだけに留まらない。数日後、カークがアパートに戻ると、そこには見知らぬ女が死体となって横たわっていた。さらに彼は億万長者の娘から熱烈なアプローチを受け、ダナの嫉妬を買う。彼の友人である研修医は何者かによって銃で撃たれ、別の知り合いの女性はダナが踊っているクラブ内で射殺される。

テンポよくこうした事件が次々と起きて、最後にカークによって犯人が指摘され、奇怪な出来事の背後で何が生じていたのかが明らかにされる。

正直に言えば、カークが犯人に気づくときは、読者も犯人に気づくと思う。すくなくともわたしはすぐにわかった。しかしそれ以前に犯人を見抜くのは容易ではないだろう。それまではカークやダナと同様、別の人物が犯人であると思いこむはずだ。ところが物語の最後で意想外の人物が犯人であることを知る。

推理の部分はどうということはないけれど、このどんでん返しはあざやかで見事だ。わたし流の言い方をすると、カークとダナ(そして読者)はAという物語を想定しながら事件の推移を見守るわけだが、最後の瞬間にそれがひっくり返され、Bという物語が真相であることに気づく。ミステリは一種、物語批判の物語なのであり、本書はその特質を非常によく表現している。

Wednesday, August 15, 2018

なぜプロレスを見るのか

筋トレをはじめてからプロレスを見るようになった。筋トレの最中(たとえばスクワットの最中)にプロレスを見ると、結構がんばりがきくからである。一度相手を腹に乗せ、それからグイとばかりに後ろに反り返る宮原健斗のバックドロップ、大きなレスラーが両手を合わせ、力比べをする場面など、見ているこっちも力が入る。

映画を見ていた時期もあったが、筋トレは一時間程度でやめるので、途中までしか見れない。筋トレのあと、残りを見ればいいのだが、シャワーを浴びたりすると気分が変わってしまうことが多い。

わたしはボディビルダーのような逆三角形の体格より、プロレスラーのような体格を理想としている。とりわけ身長が近い青木篤志の体格にはあこがれる。あの腕と胸と太ももの分厚さはすごい。以前、中島洋平が青木のマスクを奪い、かぶったことがあったが、その写真を見て(中島には失礼だが)肉体の迫力の違いに驚いた。さすが全日本をリードする男である。

ホーム・ワークアウトをしている人で、プロレスを見ながらトレーニングをするという人は案外多いんじゃないかと思う。

Monday, August 13, 2018

アブローラーの意外な効果

今年の冬、トレーニングの最中に右の肘を痛めた。準備運動はしているけれど、寒いときは、それでも怪我をすることがある。この痛みがなかなか引かない。完全に治るのに、半年か一年はかかるのかな、とあきらめていた。

そこで腕立てのように右腕に力が入る種目はやらずにいた。必然、腹筋やスクワットにかける時間が多くなる。

腹筋運動だが、自宅である程度負荷のかかる運動をしようと思うと、たいてい背中を床につけることになる。鉄棒やスタンドがあればいいのだが、うちにそんなものはない。プランクは体幹を鍛えるのによいそうだが、わたしはほとんどやらない。効いているのか効いていないのか、よくわからないからだ。よくやるのはクランチである。

腹筋運動の時間が増えると、クランチ以外の種目もやりたくなった。できたら背中を床につけないでやるものはないか。そんなとき百円ショップでアブローラーを見つけた。値段は三百円だったけど。

先日買ったばかりなので、まだ姿勢とか要領がよくわかっていない。しかし意外な効果があった。

腕を伸ばしてローラーを前に押しやり、また引き戻すという動作は、肘を伸ばした状態の腕に強い負荷がかかる。上達すれば腹筋の力でやれるようになるのかもしれないが、今のところわたしはかなり腕の力も使っている。

するとどうだろう。右腕の肘の痛みが軽くなったのである。たまに右手で重いものを持ち、翌日腕の反応を見ていたが、痛みは増すだけで、軽くなることはなかった。アブローラーの場合は、肘を伸ばし、自分の体重を支えるという、いままでにない筋肉の負荷がかかるのだが、それが肘の痛みが半減した。

まだ痛みはすこし残っているが、症状ははるかに改善された。しかも時間が経つほどによくなっている。理由はさっぱりわからないが、とにかくありがたい。



Saturday, August 11, 2018

「赤いアリバイ」 Crimson Alibi

オクテイヴァス・ロイ・コーエン(1891-1959)が1919年に発表した作品。ロイ・コーエンは文章家でもないし、ミステリ文学史上になにか画期をもたらしたわけでもない。しかしその物語は面白く、わたしはたいてい一気読みさせられる。

本編はとりわけわたしの興味を惹いた。本格ものにおいては探偵は通常、すべての人を疑う。誰の話(物語)も眉に唾をして聞く。彼はそのような形で事件の外部に立つのである。

ところが「赤いアリバイ」の探偵キャロルは、もっとも疑わしい男の話を物語の冒頭で信じてしまう。しかも、彼は警察の委託を受け、殺人事件の捜査を指揮するのだが、彼のもとで働く刑事たちに、この「もっとも疑わしい男」のことを、最後まで話そうとしないのである。こんな変な探偵があるものだろうか。

キャロルは、自分は超越的な探偵ではない。人間的に間違いも犯すのだ、という。コーエンは万能の人間みたいな探偵像を嫌って、わざと反対の探偵を創造したのかもしれない。しかしこれは危険な試みである。

物語の筋を思い切り簡単に説明すると、ある晩、他人に意地悪ばかりする嫌われ者の金持ちが自宅で殺される。その晩、彼に恨みを持つ男が四人、殺人が起きた時刻に金持ちの屋敷の内部をうろついていたことがわかる。キャロルはこのA、B、C、Dの四人の容疑者の中から犯人を探さなければならない。

しかしさっきもいったように、キャロルはそのうちのA、もっとも疑わしい男は犯人ではないと決めつけてしまう。Aは事件の直後にキャロルのもとを訪れ、おれは確かに金持ちを殺しにあの屋敷に行ったが、あいつはすでに死んでいた、自分が殺したのなら捕まってもいいが、冤罪で捕まるのはいやだ、と言うのだ。キャロルはAの心理の動きの自然さに、彼の話を信じてしまう。

ところが、B、C、Dと容疑者を調べていくうちに、全員に立派なアリバイがあることに気づく。行き詰まったキャロルは、そこではじめてAを疑いはじめるのである。

これは危険な捜査の仕方だ。たとえばDは左利きだったからアリバイが成立したけれど、もしも右利きだったら、彼は冤罪で牢屋にぶちこまれるところだった。しかしDのアリバイが成立し、キャロルはようやくAに対する信頼が間違いであったことを知る。そしてここではじめて探偵は、探偵としての位置、外部に立つのである。

間違いを通して内部から外部へ移行する、というこの過程がわたしには面白かった。通常、探偵というのはコンビで構成される。ホームズにワトソン、ポアロにヘイスティングというように。そして間違った解釈を下すのは相方のほうなのである。それを聞いて探偵は謎めいた微笑を浮かべ、気のきいた一言を言ったりする。この過ちというのが推理小説を構成する上で非常に大切である。外部の人間と、内部の人間とでは、ものの見方が違う。探偵の探偵らしさを表現しようとすれば、作者は常に両者の差異を際立たせなければならない。それは一方の間違った解釈、他方の真相を見抜いた解釈という形で表現される。

キャロルは本編において一人で二役を演じている。彼はワトソンでもあり、ホームズでもあるのだ。つまりワトソンとして間違え、ホームズとして真相を解明する。しかしこれは本当に危険な探偵のあり方である。Dが助かったのはまったくの偶然のおかげと言ってもいいのだから。

ちなみに「暮れ方」という別の作品においても、キャロルは無条件に容疑者の一人の無実を信じている。



Thursday, August 9, 2018

バカにしてんだろ

全日本プロレスの中島洋平が最近「バカにしてんだろ」を口癖にしている。試合後、インタビューをする記者にまで「バカにしてんだろ」と言う。

人の心理を読むことに長けた Tajiri は、バカにしているのは実は自分じゃないか、という内容のことをツイッターでつぶやいていたが、まったく同感である。

組織や集団の中である一定の地位を占めることができないという不全感、それが積もり積もって憎悪や復讐心になる。ニーチェはそれをルサンチマンと呼んだ。

こういうルサンチマンは一般人がみな持っているもので、要するに中島洋平は一般人の鏡となっているのである。そしてこういう真実を映す鏡は嫌われるものである。

中島がいまの役回りをどれくらい意識して演じているのかわからないが、はっきり言ってこれは損。中島本来の性格とも相容れないだろう。もともとはおばあちゃんを思いやったりする心優しい青年なのだから。

いま彼がするべきことは敵ではなく、味方を作ることである。せっかくジュニアタッグリーグでブラック・タイガー VII と組んでいるのだから、彼から信頼されるように精一杯戦えばいいのである。ブラック・タイガー VII は他団体に所属しているが、全日本のために隨分力を尽くしてくれている。それに応える意味でも所属選手の中島は必死になるべきなのだ。それに Tajiri と岩本煌史のタッグのように、あるいは宮原健斗とヨシタツのように、異質なものが組み合わされて、いったいそこからなにが生まれてくるのか、どんな化学反応が起きるのか、という興味も、ファンを惹きつける大切な要素の一つだ。最初から「バカにしてんだろ」では、この面白さ・醍醐味を否定することになる。もっというなら、こうした化学実験に成功し、所属選手同士のみならず、他団体やフリーの選手ともよいコンビが組めるようになること、その多彩さがジュニアヘビーの活性化につながり、ひいては全日本プロレスの将来を形づくるはずである。

他のレスラーに信頼される瞬間こそ、中島の「覚醒」の瞬間だろう。

(まったく噛み合わないブラック・タイガー VII とのコンビも悪くはないけど、リーグが終われば、はい、それまでという関係ではなく、もっと長い物語を紡げるように工夫して欲しい)

Wednesday, August 8, 2018

なぜプロテインを飲むのか

これは単純な理由で、間食に最適だからである。

口が寂しいというときにお菓子なんぞを食べると、たちまち数百キロカロリーを摂取することになる。しかもおいしいお菓子はやたらと脂質が多いから困る。

プロテインは(わたしが飲んでいるのは)一食がおよそ八十キロカロリーだ。プロテインだからもちろん高タンパクだし(一食二十数グラムのタンパク質を含む)、脂質も二グラム以下。しかもプロテインというのは適度に腹持ちがする。昼ごはんを食べ終わって、三時くらいにちょっと小腹が空いたなと思っても、プロテインを一杯飲んでおけば、五時くらいまでは充分にもつ。

しかもプロテインというのは普通の食事ではなかなか必要量を摂ることができない。体重一キロに対してプロテインを一グラムから三グラム摂るべきだといわれているが、一グラムでも小食のわたしには難しい。だからサプリメントがあるということは、まさに天佑である。

昔は牛乳を飲んだり、煮干しをかじっていたが、スポーツ品店や薬局で売っているプロテインがいちばん吸収がよく効き目を感じ取ることができるようだ。あれを薬と思っている人がいるようだが、とんでもない。牛乳のタンパク質を粉末化し、人工甘味料で味付けしたものにすぎない。人工甘味料が嫌いな人には、味付けのないプレーン・タイプも売っている。あれを飲むとプロテインとは、要するに、脱脂粉乳だということがわかる。

市販されているプロテインはいずれも非常に優秀なサプリメントで(言い替えればどれもみんな同じ)、安いものも出て来たから、年をお取りになって「筋肉が落ちてきた」などという方は一度ためしてみてはいかがだろうか。わたしの場合は飲みはじめて四カ月目くらいから腕や胸に肉がつきだした。

Tuesday, August 7, 2018

「わたしが殺した」

1931年に発表されたセシル・フリーマン・グレッグ(1898-1960)のミステリ。ヒギンズ警部シリーズの一作。

しかし評価の難しい作品だ。よいところと悪いところがある。

よいところは、とにかく読んで面白い。ヒギンズ警部とボビー青年を中心に活劇が展開される。テンポもいいし、登場人物も生き生きしていて好感が持てる。悪いところは、構成。この作品はまず最初に一人称による手記が掲載され、そのあとに三人称による物語が展開される。当然わたしは語りのトリックが味わえるものと、楽しみに読み進んだのだが、そんなものはなんにもなかった。あのような実験的な構成にした理由がいまひとつわからない。残念。

本書はミステリではあるけれど、本格的な推理小説ではない。なにしろヒギンズ警部が事件の渦中にある女性と恋をするのだから本格推理にはなりようがない。本格ものにおいて、探偵役は外部から事件をながめる。たとえ事件の関係者が探偵の知り合いであったとしても、あらゆる可能性を考えなければならない(つまりその知り合いが犯人である可能性も考えなければならない)。探偵が事件の内部の人間と特殊な関係を結んでしまうと(たとえば恋愛)、探偵はもはや外部から事件を見ることができなくなり、本格推理にはならなくなるのである。「トレント最後の事件」はまさにそういう作品である。

しかし本格ものでなくても本作は充分に読みごたえがある。読者は、物語を紡ぎ出し、人物を造形する作者の能力が相当なレベルにあることを知ることになるだろう。

粗筋を紹介したいがかなり複雑である。没落貴族、遺産相続、宝物、秘密の地下道、夜の屋敷で起きる怪事件、ギャング、殺し合い、スコットランドヤードの活躍、ハンサムで力のある快男児、若い女と恋に陥る警部。キーワードを並べただけで、なんとなくどんな話か想像がつくだろう。華やかでロマンチックなドラマである。

セシル・フリーマン・グレッグの作品はあまり手に入らない。以前「バス殺人事件」というのを読み、その読みやすさと面白さに驚いたが、忘れられた作家たちの中でも、わたしはとくに注目している一人である。

Saturday, August 4, 2018

佐藤光留の意地

八月三日に行われた全日本プロレス横浜大会で丸山・竹田組が梶・旭組を破った。ひいきのチームが勝つのはなんともうれしい。コミカルなプロレスをする丸山だが、このリーグ戦では本気を見せて竹田と二連覇してもらいたい。

しかし全日のホームページに出た試合結果の速報を見ていちばん驚き、胸に響いたのは青木・佐藤組が近藤・鈴木組に勝ったことである。しかも佐藤が近藤に逆十字をきめたのだ。

佐藤は、ツイートを含め、しゃべっていることの意味があまりよくわからない。おそらく自分でもよくわかっていないのではないか、そう思うときもある。ただ妙な意地をもっていることだけは伝わってくる。それは一言で言えば、自分の進む道をかたくなに信じる態度である。彼は迷走することもあるけれど、常にひとつの方向を向いている。その一貫性は青木と並んで全日本の双璧をなすだろう。(佐藤は全日本の所属ではないけれど、そういってもいいくらい彼は全日本のリングに馴染んでいる。)

わたしは速報を見たとき、「17分55秒 腕ひしぎ逆十字固め」という表記の中に佐藤の意地が燦然と輝いているように思った。相手の近藤修司はジュニアヘビーの中では体格・キャリアともに最強と言っていいレスラーだ。鈴木鼓太郎もプロレス業界のトップを担う実力者。しかも彼らは数年前に全日本プロレスを離反し、青木や佐藤とは違う道を進んだ、ある意味、因縁の相手である。彼らを相手に戦うとき、青木も佐藤も自分たちの生きざまをかけて戦わざるをえない。佐藤はその戦いで、あの近藤修司から勝利をもぎとった。ここには地味だけれど、胸にじんとくるドラマがある。

諏訪魔と石川が「全盛期」を合い言葉にふたたびその存在感を示し始めたが、いまエボルーションで本当に全盛期なのは佐藤光留かもしれない。

Thursday, August 2, 2018

なぜ身長が七ミリ伸びたのか

筋トレをはじめてから食事にも気を遣うようになった。筋肉をつけるには、その原料であるタンパク質を多く摂らなければならない。

食事だけでタンパク質を摂りきるのは、大食漢でないわたしには、なかなか難しい。市販されているプロテインは高価なので(今みたいにプロテインが各種出回るようになったのは最近のことである)主に牛乳を飲んでいたが、あるときふと小さな雑貨屋で煮干し一キロの徳用袋を千円ちょっとで売っているのに気がついた。

煮干しというのはだいたい70パーセントくらいがタンパク質である。こいつをぼりぼり食ってやろう。そう考えてそれから一年くらいはその店で徳用袋を買い続けた。

ただ煮干しというのはまずい。おいしい出しは取れるが、煮干しそのものを食べるのは苦行である。袋の後ろに「内臓や頭を取るとよりおいしい出しが取れます」と書いてあったので、食べるときに内臓や頭を取ってみたこともある。しかしこれは逆効果だった。腹を割って黒くひからびた内臓が出てくるならまだましだが、灰色と黒のまだら模様がでてきたりすると、これはいったいなんぞや、とぎょっとする。食欲はたちまち減退する。だから食べるときは、けっして腹を割かないようにしている。

魚のタンパク質は優秀なのだが、煮干しの形で摂取するのはあまり吸収によくないのだろう。煮干しをたくさん食べたからといって、とくに筋肉がついたような気はしなかった。

ところが煮干しを食べはじめて一年数カ月後の健康診断で、意外なことがわかった。身長が七ミリ伸びていたのである。わたしは二十歳から五十歳まで168.5センチだった。ところが煮干しを盛んに食べた結果、身長が七ミリ伸びたのである。しかも五十台に入ってからだ。今はさらに二ミリ延びて169.4センチである。

煮干しはタンパク質が豊富であるだけでなく、カルシウムもふんだんに含んでいる。わたしはカルシウムや鉄を強化した牛乳やチーズが好きで、ほとんど毎日のように食べていたから、一日のカルシウムの総摂取量は三千ミリグラムだったのではないだろうか。おそらくそれで骨が太くなり、身長が伸びたのだ。あれには本当に驚いた。

Wednesday, August 1, 2018

「原子番号八十七」

フィルポッツは(1862-1960)はダートムアを舞台に、優れた小説を書いた人だが、エンターテイメントの分野でも良い作品を残している。「原子番号八十七」(1922)はその一つで、巨大な蝙蝠に似た、不思議な生き物が世界の要人を殺害し、とてつもない未知のエネルギーを発して建築物を粉々にしてしまうという話だ。「バット」と呼ばれるようになるこの巨大な蝙蝠の正体はなんなのか、地球上のいまだ知られざる生物なのか、それとも宇宙から来た侵略者なのか。

最後に種明かしをされると、「なんだ」ということになるのだが、しかしそこに至るまでの物語はじつによくできている。二つの世界大戦にはさまれた期間を、英語ではインターウォー・ピリオドというが、その微妙な時期の世界情勢、当時の科学的発見(相対性理論や原子物理学)が思想や倫理観に与えた影響、権力とエゴイズム、古い理想主義と新しい世界のありよう、悪を滅ぼすに悪をもってしなければならないというパラドクス、こうした重い話題が、奇怪な連続殺人事件のあいだにさしはさまれる。その議論はどれも面白く、考えさせるものを持っている。しかしこの作品のいちばんすぐれているのは……文体である。

古めかしいといえば古めかしいのだが、硬質で、読者に知的な緊張を強いてくるような文体なのだ。わたしはこの緊張感にたまらない魅力を感じた。エンターテイメントだからといって文体がなおざりにされてはならない。この鋼のような文体は、最後まで物語が弛緩することを許さないだろう。作者がこの物語を手すさびではなく、真剣な思想表現の場と見なしていたことが、この文体からもわかる。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...