1955年、コーエンの晩年に出た作品である。おそらく最後の作品ではないだろうか。もしそうだとしたらこれは掉尾を飾るにふさわしい作品といわなければならない。コーエン的なミステリの究極の形が示されているのだから。
物語はこんなふうに始まる。カリフォルニアの高級リゾート地で殺人が起きた。ここにはコテージがいくつもあって、隣のコテージで開かれていたパーティーに参加していたある女性が、その最中に自分が借りているコテージに戻ってみると、男の死体があったのである。さっそく警察が呼ばれ、ウォルシュ警視と若い巡査部長のダニー(ダニーが本編の語り手である)が現場にかけつける。問題のコテージに入ると、確かに男の死体がある。しかし女性が発見したときとは違う部屋にいたのだ。
この女性は嘘をついたのか。それとも警察が来るまでのあいだに誰かがコテージに侵入し、死体を移動したのか。捜査は難航し、その間に第二、第三の殺人が行われる。
ネタバレしないように筋書きは途中でおさえたが、しかしこれから先でネタバレせざるをえない。「コーエン的なミステリ」を説明するにはそうするしかないのだ。
探偵小説の探偵は、普通、事件の外部に立っている。彼は冷静に、あるいは冷徹に事件を観察し、推理する。事件の外部に立つことによって、事件の内部にいる人々には見えないものが見える。内部の人には当然と思えることも、彼には当然ではない。その視差が推理を可能にする。わたしは谷崎潤一郎の「途上」という短編を、そうした内部と外部の差を典型的に示した作品だと考えている。
ところがこの探偵が内部の人間となんらかの関係を持ってしまうとどうなるか。二十世紀の初頭から三十年代くらいまでの作品をいろいろ読んで見たところ、どうも物語は推理小説からメロドラマに変質してしまうのである。探偵が内部の人間と関係を持ったとたん、内部を外部から見る物語ではなく、内部を内部から見る物語になるのだ。外部から内部に移行した探偵は探偵能力を失い、内部の物語の一人物と化してしまう。「トレント最後の事件」で探偵が事件を解決できないのは、彼がいろいろな形であらかじめ事件の内部にまきこまれているからだ。
これに反してハードボイルドの探偵は、積極的に内部にコミットし、内部の物語の核へと突き進む。この核というのは大抵の場合フェム・フェタールと言われるものなのだが、探偵は彼女を特定し、かつ彼女が持っている力・魅力を無化してしまうのだ。彼女の存在が崩壊したとき、探偵は物語からある種の距離を取ることができるようになる。
コーエンのミステリは上記の二つのタイプの混合型である。「赤いアリバイ」をレビューしたときにも書いたが、探偵はある「予断」をもって事件に相対する。つまり「この男は無実だ」という予断である。彼はまだ事件の捜査を開始していないし、すべての人を疑うというのが捜査の鉄則なのに、コーエンの探偵ははじめから、ある意味、無根拠な信頼を内部の人間にたいして抱いてしまう。しかし内部の物語にどうしても解消し得ない矛盾があることに気づき、そこではじめて彼が前提としていた「予断」を疑うようになるのだ。
これは危険な探偵方法である。もしも矛盾が生じなければ「予断」が疑われることはないのだから。
さて、「愛には危険がともなうことも」は厳密には探偵小説ではないかもしれない。事件の捜査に当たるのはロサンジェルスの警察だからだ。厳密に言えば、Police procedural というジャンルになるのだろう。だが、語り手でもある巡査部長ダニーはコーエン的な探偵といっていい。彼は最後に見事な推理を展開し、真犯人を指摘する。それは名探偵の推理のように読者をはっとさせる。が、彼が標準的な名探偵と違うのは、彼が登場人物の一人、美しいある女性と恋に陥る点である。そのことによって事件を見る彼の目には盲点が生じるのだ。
恋に陥ることで彼には事件が見えなくなる。彼は「予断」を持ってしまうからだ。しかし彼の上司であるウォルシュ警視や全米の警察のネットワークが、隠された真実の一部をあばくことに成功する。それを聞いた瞬間、ダニーは気がつくのだ。彼がその命を守ろうと必死になっていた愛する女性、彼の隣に座り、その腰をしっかりと彼が抱いていた女性、彼女こそが真犯人なのだということに。
フェム・フェタールは「男にとっての欲望の対象」であり、「男たちのシンプトム(徴候)」である。彼女は魅力的に見えるけれども、その魅力は仮面に他ならない。ダニーは物語の内部に入りこみ、事件の当事者の欲望空間をなぞるように進んでいった。ある意味で彼は当事者と一体化したのである。しかし最後に彼は内部の世界のリビディナルな核を突き止め、その無効性(仮面にすぎないこと)を宣言するのである。
本編は名作とまではいわないが、しかしコーエンのミステリの中では白眉の出来を示している。ただ翻訳はちょっと難しいなあ。手がかりが英語の綴りにあるから。しかし英語ができるミステリ・ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。
関口存男「新ドイツ語大講座 下」(2)
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