作者は1915年生まれのユダヤ系ドイツ人作家。この事実を聞いただけで苦難の人生を送っただろうと予測されるが、実際そのとおりだった。1935年には法律家の叔父がナチス批判をして殺害され、同年ボシュヴィッツは徴兵の命令を受ける。ボシュヴィッツと母親はノルウエーへ逃亡、さらにスエーデン、ルクセンブルク、フランス、ベルギーと渡り歩いて1939年にはイギリスにたどり着く。第二次世界大戦が勃発すると彼と母親は敵性外国人として収容所に入れられ、ボシュヴィッツは40年にはオーストラリアへ送られる。42年には自由の身となりイギリスに帰ることになるのだが、なんとその船がドイツの潜水艦に撃沈され、27歳という若さで亡くなってしまうのだ。
逃亡生活のあいだに彼は二つの小説を発表する。第一作は Menschen neben dem Leben で、これはスエーデンで出版されかなり評判になった。第二作が本書「旅する男」 Der Reisende で、英訳されアメリカでも出版されたが、残念ながら無視されてしまった。ところがである。2010年代に入ってこの小説は見直され大評判になった。数年前に英訳も出て、ベストセラーリストにも入った。いまでは彼はカフカやマン、ハインリッヒ・ベルなどとも比べられる存在となった。
ボシュヴィッツは他にも小説を書いていたのだが、他人に捨てられてしまったり、最後の作品も潜水艦に撃沈された船と一緒に海の底へ沈んでしまった。
本書の内容だが、主人公はジルファーマンという、結婚して子供もいるユダヤ人実業家である。戦争はまだはじまっていないが、ナチスが政権を取り、官庁では「ハイル・ヒットラー」が挨拶に使われていた頃、れいの水晶の夜と呼ばれる暴動が起きる。ジルファーマンは危険を悟った途端に家を抜け出し、商売のパートナーから金をもらい、列車に乗って逃亡生活をはじめる。表題は Der Reisende だが、呑気な旅ではなく、ユダヤ人という自分の正体を見抜かれないよう常に神経を使わなければならない、緊迫した旅である。
さいわいジルファーマンは外見ではユダヤ人とわからない人のようだが、逃亡生活をはじめてから知り合いに助けを求めても冷たくあしらわれるだけだ。ついには国境をこっそり越えてベルギーに入ろうとするが、失敗し、ベルギーの警備兵によってドイツへ戻されてしまう。全編に緊張感とすべてを失った人間のよるべなさ、フラストレーションがあふれていて、身につまされるのだが、しかし先を読まずにいられない不思議な語り口とストーリー展開になっている。徴兵忌避者をあつかった丸谷才一の秀作「笹まくら」とちょっと似た面白さだ。