Thursday, March 26, 2026

マリ・ドルトン「跪く女の謎」


マリ・ドルトン(Moray Dalton)は1881年にロンドンに生まれ、スコットランドヤードのヒュー・コリアー警部を主人公にしたミステリを三十冊近く書いた。近年 Dean Street Press が彼女の作品を電子化して出しており、わたしもはじめて彼女の本を手にした。1936年に出た「跪く女の謎」はコリアー警部が小さな村で起きる四つの殺人を捜査する物語で、一応ミステリの形を取っている。しかし推理が主眼というよりも、この事件をきっかけにして戦争に対する二つの態度、好戦的なそれと反戦的なそれが庶民のあいだにどのように広がっていたかということを描いた作品といっていいのではないだろうか。

物語は田舎の牧師クレア師が友人のキリックを尋ねる場面からはじまる。二人はともに六十になろうとする年頃でチェスという共通の趣味がある。しかしクレア師は温厚でキリックは人間嫌いのシニカルな男である。彼は化粧品の製造に携わっていた化学者で、仕事をやめて田舎に引き込んでからは毒ガスの研究をしていた。そしてふとクレア師にその毒ガスの製造法をある国のスパイに売るつもりであることを打ち明けるのだ。牧師は呆然とするが、製造法をスパイに渡すはずの日にキリックは自宅で殺害される。

キリックが殺された頃、もう一つの殺人事件が村で起きていた。トビーという少年がたまたま森の中を歩いていたとき、死にかけている男を発見する。村に住んではいないよそ者である。彼はトビーに「跪く女」という謎の言葉を残してこときれるのだが、はたしてこの男が外国のスパイなのだろうか。そして「跪く女」とはなにを意味するのだろうか。

地元の警察には手に余る事件ということでスコットランドヤードのコリアー警部が捜査にあたるのだが、二つの殺人事件を結ぶ線がなかなか見つからない。そのうち村で一番の金持ちサー・ヘンリー・ウェバーの息子二人が毒殺されるという事件が起き、事件は混迷を深めていく。

しかし最初に言ったように本書の眼目は謎の解明というより、戦争に対する人々の態度が随所に表明されるところにある。この本が出版された1936年というのは、イギリス国民のあいだに平和主義的気分が広がったのに、政府が軍備拡張を推し進めたという時期である。本書はこの時代の風潮を色濃く反映している。冒頭のクレア師とキリックの会話も戦争を巡るものだし、彼らの性格も前大戦の経験によって形作られたものである。コリアー警部が地元の警察とかわす会話でも戦争が話題になる。たとえばある人が砲弾ショックで神経に異常をきたした人のことを「卑怯者」とののしったとき、コリアー警部は顔を蒼白にして反論する。「なんの落ち度もないのに地獄へ突き落とされた兵士たちにそんなレッテルを貼るのか。わたしなら戦争を起こした連中を卑怯者というがね」また、ネタバレになるので詳しくは言わないが、本書の最後の裁判の結果、およびそれに対する人々の反応も、戦争に対する忌避感を暗に示しているだろう。

本書はミステリとして読むとがっかりするような内容なのだが、1936年当時の風俗を描いた作品としてはなかなかに面白い。

Monday, March 23, 2026

ウルリッヒ・ボシュヴィッツ「旅する男」

 


作者は1915年生まれのユダヤ系ドイツ人作家。この事実を聞いただけで苦難の人生を送っただろうと予測されるが、実際そのとおりだった。1935年には法律家の叔父がナチス批判をして殺害され、同年ボシュヴィッツは徴兵の命令を受ける。ボシュヴィッツと母親はノルウエーへ逃亡、さらにスエーデン、ルクセンブルク、フランス、ベルギーと渡り歩いて1939年にはイギリスにたどり着く。第二次世界大戦が勃発すると彼と母親は敵性外国人として収容所に入れられ、ボシュヴィッツは40年にはオーストラリアへ送られる。42年には自由の身となりイギリスに帰ることになるのだが、なんとその船がドイツの潜水艦に撃沈され、27歳という若さで亡くなってしまうのだ。

逃亡生活のあいだに彼は二つの小説を発表する。第一作は Menschen neben dem Leben で、これはスエーデンで出版されかなり評判になった。第二作が本書「旅する男」 Der Reisende で、英訳されアメリカでも出版されたが、残念ながら無視されてしまった。ところがである。2010年代に入ってこの小説は見直され大評判になった。数年前に英訳も出て、ベストセラーリストにも入った。いまでは彼はカフカやマン、ハインリッヒ・ベルなどとも比べられる存在となった。

ボシュヴィッツは他にも小説を書いていたのだが、他人に捨てられてしまったり、最後の作品も潜水艦に撃沈された船と一緒に海の底へ沈んでしまった。

本書の内容だが、主人公はジルファーマンという、結婚して子供もいるユダヤ人実業家である。戦争はまだはじまっていないが、ナチスが政権を取り、官庁では「ハイル・ヒットラー」が挨拶に使われていた頃、れいの水晶の夜と呼ばれる暴動が起きる。ジルファーマンは危険を悟った途端に家を抜け出し、商売のパートナーから金をもらい、列車に乗って逃亡生活をはじめる。表題は Der Reisende だが、呑気な旅ではなく、ユダヤ人という自分の正体を見抜かれないよう常に神経を使わなければならない、緊迫した旅である。

さいわいジルファーマンは外見ではユダヤ人とわからない人のようだが、逃亡生活をはじめてから知り合いに助けを求めても冷たくあしらわれるだけだ。ついには国境をこっそり越えてベルギーに入ろうとするが、失敗し、ベルギーの警備兵によってドイツへ戻されてしまう。全編に緊張感とすべてを失った人間のよるべなさ、フラストレーションがあふれていて、身につまされるのだが、しかし先を読まずにいられない不思議な語り口とストーリー展開になっている。徴兵忌避者をあつかった丸谷才一の秀作「笹まくら」とちょっと似た面白さだ。


Friday, March 20, 2026

今月の注目作

The Complete Plays of Gilbert and Sullivan by Arthur Sullivan and W. S. Gilbert

Project Gutenberg


ギルバートとサリヴァンのオペレッタはいずれも掛け値無しの喜劇の傑作で、音楽ファンでなくても一度は目を通しておくべきだろう。イギリス流の言葉遊びと諧謔の文化が爛漫と咲き誇っている。「ミカド」のような高名な作品は当然だが、それほど有名でない作品も水準以上の面白さだ。ギルバートは劇のほかにも詩や短編小説を書いている。しかしサリヴァンとのコンビを解消してからは力がやや落ちているような印象がある。


The monk and the hangman's daughter by Danziger, Bierce

Project Gutenberg


ビアスにあまり関心がないわたしは、彼がエイドルフ・ダンツィガー・ドゥ・カストロなどという人とこんな小説を書いていたとは知らなかった。要約を見ると、若い修道院僧が死刑執行人の娘を見て恋に陥るが、なにしろ不浄な職業についている親の娘だから社会的には除け者扱いされる存在である。個人的な感情と社会的な掟のあいだで修道院僧が苦しむという話らしい。短いので折を見て読んでみたい。


Tales Grotesque and Curious

Project Gutenberg


グレン・ショーという人が訳し、北星堂から出版された本の電子化。出版年は1930年だ。「鼻」とか「羅生門」とか「蜘蛛の糸」といった代表作11編が収められている。いま読むとちょっと堅苦しい訳文になっている。いかにも二十世紀前半の文章だなということは、たとえば「羅生門」の一節 He sneezed a great sneeze and then got up laboriously. Night-chilled Kyōto was cold enough to suggest the comfort of a fire. を見てもなんとなく感じ取れるだろう。原文と突き合わせてはいないが、かなり几帳面に日本語を英語に移植しようとした形跡はある。


Jean-Christophe by Romain Rolland

FadePage


FadePage は最近精力的にロマン・ロランの名作をデジタル化している。英語版は第十巻「新しい夜明け」まで出ているが、フランス語版はまだ三巻目である。FadePage はカナダの団体なので英語とフランス語の本を専門に電子化している。誰でも知っているだろうがノーベル賞を受賞したこの大河小説はベートーベンをモデルにしている。わたしは中学生の頃この本を読んだが、理想主義に燃えていたせいか、心にしっくりくる小説だった。

Tuesday, March 17, 2026

Elementary German Series (15)

15. Der Sommer

Der Frühling ist zu Ende. Wir sind im Juni. Es ist heiß.1 Die Luft ist heiß, die Erde ist heiß, die Häuser sind heiß, und nur im Keller, im Walde oder im Wasser ist es kühl. Jung und alt geht an den Fluß2 oder an den See,3 und alle schwimmen und baden in dem frischen, kühlen Wasser des Flusses oder des Sees.

1. heiß 暑い.
2. der Fluß 川.
3. der See 湖.

Wer viel Geld hat, geht auf das Land.4 Wer kein Geld hat, geht nicht aufs Land, sondern badet und schwimmt, so oft er kann, und arbeitet, so wenig er kann. Wenn es sehr heiß wird, haben die Kinder in Deutschland keine Schule. Wenn es sehr heiß wird, schreien alle Kinder in Deutschland: „Hurra!“

4. auf das Land gehen 田舎へ行く.

In den heißen Sommernächten schlafen viele Menschen im Park. Alle warten auf5 Regen, alle warten auf kühles Wetter. Nach dem Regen sind Tiere und Menschen glücklich, aber nicht lange, denn sehr bald6 wird es wieder heiß.

5. warten auf ~を待つ.
6. bald すぐに.

Saturday, March 14, 2026

関口存男「新ドイツ語大講座  下」(18)

§18. Wie kommen Sie auf dergleichen Verdacht?

あなたはどうしてそんなところへ気を廻すのですか?

kommen......auf......: 「……を思いつく」、「……に想到する」。verdacht, m.: 嫌疑。

 上文の dergleichen (そういった、そうした、そういうふうな)は、solch-en, ein-en solch-en, solch ein-en, so ein-en, derartig-en などを用いるのと同じですが、これらは全部格変化をするに反し(今の場合は Verdacht が男性で、auf が四格支配ゆえ、男性四格の -en)、dergleichen という語は語尾変化をしません(それもそのはずで、これは der gleich-ein Art、「同じ種類の」から生じたものゆえ、構造は女性二格)。同意の derartig- も der Art (その種の)から生じたものですが、これは語尾変化をします。さらに derlei というのもありますが、これは dergleichen と同じく無変化です。

 この dergleichen, derlei は題文のごとく形容詞的にも用い、また独立して名詞的にも用います。上文から Verdacht を省いて Wie kommen Sie auf dergleichen? (どうしてそんなことを考えついたのですか)ともいえます。

 → desgleichen と混同するな! desgleichen (=auch so „同じく“ „これまた同様に“)は副詞で、dergleichen とは別物です。たとえば「男は結婚すると一年目には欠伸をする」といったのち、「女も同様」という際には Desgleichen die Frau です。

  → meinesgleichen, deinesgleichen など。

「私と同じ身分の者たち」、「おまえの同類」などを、物主形容詞に -esgleichen を付して作ります。Er behandelt mich als seinesgleichen. (彼は私を同類として扱う)、Sie gefällt sich nur unter ihresgleichen. (彼女は自分と同じような仲間と一緒でないといい気持になれない女だ。)

§18. sich gefallen: 自分に気に入る、すなわち「好い気になる」、「得意になる」、「自適の気持を味わう」。

Wednesday, March 11, 2026

英語読解のヒント(211)

211. the last + 名詞

基本表現と解説
  • He is the last person I should consult. 「間違ってもあの男などに相談はしない」

「the last + 名詞」で「夢にも……しない……」の意。

例文1

"If a fool was going to commit a murder, your lake is the first place he would choose for it. If a wise man was going to commit a murder, your lake is the last place he would choose for it."

Wilkie Collins, The Woman in White

「馬鹿が人を殺すなら場所としてあなたの庭内の池をまっさきに選ぶでしょう。しかし利口な人間が人を殺すなら、あなたの庭内にある池はいちばん選びそうにない場所です」

例文2

No; surely it is the last place to suspect any one would go to without a definite purpose; and what purpose could Sir Adrian have for going there?

Margaret Wolfe Hungerford, The Haunted Chamber

いや、もちろんあんなところは何かはっきりした目的がなければ人が行くような場所ではない。ではサー・エイドリアンはそこへ行くどんな目的があったのか。

例文3

"There is nothing to be ashamed of, though it's all very odd, and the last thing I should have expected."

George Sims, Memoirs of a Mother-in-Law

「べつに恥ずかしがるようなことじゃないさ。たしかにずいぶん変てこな、思いも寄らない話だけどね」

Sunday, March 8, 2026

英語読解のヒント(210)

210. know better than

基本表現と解説
  • He knows better than to disobey you. 「彼はあなたの言うことをきかぬような(愚かな)人間ではない」

know better than で「……するような軽率な者ではない」という意味。場合に依っては「……しない」と解することもできる。

例文1

A man of my age and experience ought to have known better than to vacillate in this unreasonable manner.

Wilkie Collins, The Woman in White

わたしぐらいの年になり、かつ経験も積めば、こんなふうにむやみに迷っていてはいけないのだ。

例文2

"I told him he was old enough to know better. But my experience is that as soon as people are old enough to know better, they don’t know anything at all."

Oscar Wilde, Lady Windermere's Fan

「ぼくは彼に、その年なら分別がついてもよさそうなものじゃないか、と言ってやった。しかしぼくの経験によると、人はものがわかる年頃になると、かえってなにもわからなくなるのです」

例文3

"Earnshaw, it's a blessing your wife has been spared to leave you this son. When she came, I felt convinced we shouldn't keep her long; and now, I must tell you, the winter will probably finish her. Don't take on, and fret about it too much: it can't be helped. And besides, you should have known better than to choose such a rush of a lass!"

Emily Bronte, Wuthering Heights

「アーンショー、あなたの奥さんが息子を残せたのは神さまのお恵みだよ。あの人が来たとき、長くは生きられないと確信したもの。はっきり言うけど、たぶんこの冬を乗り切れないね。悲しんだり、くよくよしすぎちゃいけないよ。どうしようもないんだから。それにイグサみたいな女の子を奥さんに選ぶなんて、あんたも浅はかだったじゃないか」

マリ・ドルトン「跪く女の謎」

マリ・ドルトン(Moray Dalton)は1881年にロンドンに生まれ、スコットランドヤードのヒュー・コリアー警部を主人公にしたミステリを三十冊近く書いた。近年 Dean Street Press が彼女の作品を電子化して出しており、わたしもはじめて彼女の本を手にした。1936...