Monday, June 29, 2026

ブルース・フィンク「ラカンの欲望論」

 


ブルース・フィンクといえば「ラカン的主体」で明快にラカン理論を説明した人として知られている。現代思想というと難解な概念がいきなり飛びかい、素人はその空中戦に呆然とするしかないのだが、フィンクは地面にいるわれわれのレベルから話をはじめ、徐々にラカンという高みに連れて行ってくれる、まことにありがたい解説者なのである。わたしは「ラカン的主体」がフィンクの代表作なのだろうと思っていたが、「ラカンの欲望論」はそれに優るとも劣らない、いや、もしかしたら優っているかもしれない精神分析入門書となっている。副題には「セミナー6を読む」とあるが、ラカンのセミナー6を通してラカンの議論全体が概括できるような書き方になっている。高校生でも理解できるような平易さなので、ぜひとも翻訳を出してほしいものだ。

われわれは言語の中に生まれつき、その言語でコミュニケーションしなければならないのだが、じつはその言語が伝えたいことを完全に伝えられる媒体ではないことをフィンクはいろいろな例を示して教えてくれる。ここは誰にでも理解できる話だ。そこからフィンクは、「欲望」の話に移って行く。人間は他者に要求をするが、たとえばわれわれが恋人に「この前つくってくれたカクテル、また飲みたいなあ」と言っても、たんにそのカクテルだけを与えられれば欲望が充たされるわけではない。カクテルをつくるときの仕草やそれを差し出すときの顔の表情や、それを味わいながら交わす恋人との会話などが伴うものでなければならない。しかしそうしたことすべてを言語で表現などできるわけがない。百万言費やしても指示しきれない残余があらわれる。また説明すればするほど逆に誤解されることだってありうる。ここからフィンクは「欲望」とは言語で表現しきれない部分に宿るのだと教えてくれる。

さらに議論は「欲望の対象」へと移る。精神分析で言われる対象はいつも「失われた対象」である。母親の愛に包まれて満足している幼児は、母親との一体感の中に存在しており、そこには「主体―対象」という区別はない。一体性が崩れたときにはじめて幼児は「対象」としての母を求めるようになる。母が失われてから、幼児は母を欲望の対象にするようになるのだ……という具合に、フィンクの議論は少しずつ複雑になりながらラカンのパラドキシカルな理論の核心へと進んで行く。いやはや、これだけ平明に説明できるというのはたいした才能である。ラカンにはじめて接したという人は、ファルスの話あたりからさすがに難しさを感じると思うが、辛抱強く読めばラカンの議論のリズムはつかめるだろう。人によっては否定神学と呼ぶこのリズムを知るだけでも大きな価値がある。

本書を読みながら考えたことはいろいろある。たとえばわれわれは言語という領域に参入したとき言語の「使いにくさ」を経験しているのだが、それをすっかり忘れてしまうとラカンは指摘している。それを読みながら、わたしがジェイムズ・ジョイスから学んだのもまさにそれだし、ジョイスが偉大なのは言語の根源にさかのぼって文学を考え、政治や文化をとらえ直したからなのだと思った。またブルース・フィンクは理論家であるだけでなく、臨床医でもあるらしく、その経験をいろいろと語っている。子供は生まれてから母に養われ、ある種の全能感にひたされるわけだが、これが失われる瞬間が来る。これが精神分析では「去勢」と言われているものだ。この全能感、享楽の状態を奪ったものを子供は激しく憎む場合があるらしい。たとえばその子に弟や妹ができた場合、今まですべて自分に振り向けられていた母親の注意が他者に奪われるわけである。ある人は四十になっても五十になってもそのような弟や妹に憎しみを抱くらしい。sibling rivalry はよくある話だが、それが殺したいと思うほどの憎悪に転化するのは結構あることらしい。それを読みながら外国人への憎悪もそれと似た点があるのではないかと考えた。日本人の享楽を乱したり奪って行く存在に対する憎悪である。日本の代表的な食べ物であるすし、しかし今は高くて日本人には手が出しにくいすしを、外国人旅行客が金にものをいわせてばくばく食べていくのを見て、日本的な「享楽」が他者に奪われていくような気がしないだろうか。あるいは帰化した外国人になんらかの補助金が支払われるとき、日本人が受け取るべき「享楽」を侵蝕されているような気がしないだろうか。

さらに分断政策とは国民を「去勢」するものではないか。高齢者と現役世代を対立させ、あるいは生活保護者を狙い撃ちするような政策は、ある人々が楽しむべき「享楽」が他者によって奪われているという意識を植えつける。

精神分析は個人の心理という枠組みを超えて社会分析、政治分析にも応用されるようになっているが、たしかにいくつかの局面をパワフルに説明する力を持っている。

ブルース・フィンクはミステリも三冊ほど書いているらしい。さっそく手に入れて読もうと思っている。

Friday, June 26, 2026

ルビー・ファーガソン「眠れない客」


ルビー・ファーガソンは R. C. Ashby というペンネームで He Arrived at Dusk というミステリを書いていてこれがすごい。ホラー小説だと思って読み進んでいくと最後に推理小説だったことが判明するのだ。From Dusk Till Dawn というタランティーノが脚本を書いた映画があって、ノワール風の犯罪映画かと思っていたら途中でホラー映画に変わり唖然とさせられるが、ああいう作品が好きならぜひとも He Arrived at Dusk は読むべきである。一般にはあまり知られていないが、愛好者のあいだでは評価の高い作品である。わたしはミステリの本質はこのジャンルの転換にあるのではないかとひそかに考えている。

1962年に出された「眠れない客」はミステリではない。しかしやはりある出来事をきっかけに不意に物語の様相が変化する。ジェイン・オースティン風の風俗小説かと思っていたら、疑惑が疑惑を呼ぶサスペンス小説に転換してしまうのである。デリアという30にほど近い未婚のイギリス人女性が、80になんなんとする名付け親の女性のもとへ遊びに行く。アイダというこの女性はたいへんな金持ちで、またひどく気が若い。アウシュビッツの収容所で知り合った友人を自分の家に住まわせ(そう、この作品には過酷な現代の歴史が刻み込まれている)、にぎやかに毎日を送っていた。ここに集まる人々がじつに個性豊かに書き分けられており、とりわけアイダのおちゃめとも言えるお婆ちゃんぶりは精彩を放っている。デリアは彼女の家に来たあとも難民キャンプで社会的弱者のために働こうとするまじめな女性だが、アイダはそれが気に食わない。あんな連中はほっておいて楽しく遊び暮らすべきだと言い争いになることもあるのだが、それでも彼らは仲よく一つ屋根のもとで暮らしていく。

この性格劇が最後まで続くのかと思っていたら、物語が三分の二ほど進んだところでとある事件が起きる。ネタばらしにならないように筋の紹介はしないが、それをきっかけに物語の雰囲気は変質する。そうか、He Arrived at Dusk で見せた離れ業のようなジャンルの転換を、この作家はほかの作品でも用いているのか。

十九世紀後半から二十世紀の初頭にかけて物語に対する批判意識が芽ばえた。探偵小説はそういう事態を端的に示している。ホームズものには間抜けな警察、たとえばレストレイド警部のような存在が必要だ。警部は事件現場を見て単純なある物語を作り上げる(これは浮浪者の犯行である、とか、いつも悪さをはたらいている誰それのしわざにちがいない、と彼は判断する)が、ホームズはべつの物語を作り上げ、それが正しいという証拠集めをする。つまり警部の物語はホームズの物語によって批判されるのである。フロイトの精神分析が探偵小説とよく比較されるのも、彼が意識の物語を無意識の物語によって批判したからである。「バスカヴィル家の犬」などは地元の人が呪いとか伝説によって説明していた事象を、ホームズがそれとはまったくべつの理性的な物語によって批判しているのである。He Arrived at Dusk はそういう物語批判の構造をジャンルの転換という思い切った形で明示化したといえる。

「眠れない客」の主人公デリアは真面目な女性で好感が持てるが、ひどくナイーブな性格で人の云うことをそのまま信じてしまうところがある。世の中の、あるいは人間の薄汚い側面を体験せずに育ってきたのだろう。彼女は小説の最後のほうでナイーブな目に映っていた人々の姿と、その背後に隠された醜い人々の姿のギャップに直面し、「わたしはどっちの物語を信じたらいいの?」と叫ぶ。やはりここにも物語批判が存在するだろう。

しかし「眠れない客」を読みながら、ルビー・ファーガソンの手法は探偵小説の伝統以外の点からも考えるべきではないかと思った。人間への不信感、見せかけと本心の乖離、ファーガソンの小説の分裂した印象、それは第二次世界大戦や強制収容所の体験からも来ているのではないか。それが人間性や社会にもたらした亀裂が彼女の作品に影を落としているのではないか。

この作品は上等とは言えないかも知れないが、いろいろと考えるべき問題を含んでいると思う。

Tuesday, June 23, 2026

エミール・C・テッパーマン「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」

 

最近、檀一雄の「真説石川五右衛門」、石川淳の「狂風記」、そしてテッパーマンの「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」を立てつづけに読み、パルプ小説とはなんだろうと思った。どの作品もほとんど人間を越えたエネルギーを表現しようとしている。そして人間を越えるあまり、そのエネルギーは「死」に接近している。わたしはパルプ小説のよいところはこのエネルギーの暴走にあると思っているが、それが日本の文壇の大御所たちの作品にも見られることに気づき、これはどういうことだろうと思った。考えてみると石川淳のほとんどの長編小説は極上のパルプではないのか。檀一雄はほとんど読んだことがないのでなんとも言えないが、「五右衛門」を読むかぎり、パルプ的な色彩が強いのではないか。生き方自体がある種のエネルギーの暴走のような人だったから。

テッパーマンの「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」は「自殺部隊」ものの一作である。自殺部隊はFBIの組織のなかでもっとも危険な任務を負う、命知らずの三名からなる部隊である。もともとは五名くらいいたようなのだが、任務の最中に命を落としていき、今は三名である。今回の任務はFBIのエージェントを殺害しチリに逃げたガストン・ザムベッタを捕らえ(殺し)、またザムベッタが日本に造船所を売ろうとする計画をつぶすことである。なにしろ第二次世界大戦中の話だから、アメリカと日本は敵国関係。日本人は「ジャップ」と呼ばれ、油断も隙もない悪党として描かれている。

テッパーマンのこのシリーズがいいのは、物語の一行目からアクションが開始され、それが終わりまで途切れないところである。次から次へとたたきつけるような暴力シーンがつづき、いつも one sitting か two sittings で読み終えてしまう。本作も冒頭からいきなり自殺部隊の一人スティーブン・クローがザムベッタの手下やドイツ人、日本人の敵をばったばったと倒していく。このエネルギーの爆発が最後までつづくのだから「自殺部隊」はたまらない。たいていこうした物語では、アクションシーンのあと落ち着いた場面に転換するのだが、テッパーマンはそんなことをしない。ひたすらエネルギーを発散するのだ。そのかわり物語は短めだ。線香花火のようにバチバチと火の粉を撒き散らし、終わるときはシュンと一瞬で消え去る。読者はあとに残る火薬の匂いをかいで、その短い、しかし華やかな光景を思い出し余韻を楽しむというわけだ。

わたしは「五右衛門」「狂風記」「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」を立てつづけに読んで、いずれの作品からもまったく同じ感銘を受けた。「五右衛門」は講談のような物語であり、「狂風記」は風格のある奇譚であり、「すまないね、ミスタ・ヒロヒト」は疑いようのないパルプ。三者三様の語り口を持ちながらも、エネルギーの集中と爆発を描く点では共通している。そしてどれも小説とはいいがたい、その手前の未熟さの地点にとどまっている。思いも寄らない直線を引いてしまったわたしは、戸惑いながらも、しかし考えなければならない問題にぶつかったような気がしている。

Saturday, June 20, 2026

今月の注目作

 Quartet by Jean Rhys

Project Gutenberg

ジーン・リースは大学生の頃、熱心に読んだ。彼女のリアリズムというか、ロマンチックなところがすこしもない、荒涼とした雰囲気がよかった。本書は自伝的な要素が濃く、背景知識があればより興味深いのだろうが、そんなものがなくても面白い。ここに描かれた「愛」は「闘い」のようだ。おセンチな情緒を徹底的に拒否した作品。


Römische Geschichte by Theodor Mommsen

Roy Glashan's Library

テオドール・モムゼンの「古代ローマ史」。モムゼンは十九世紀を代表する古典の研究者でノーベル賞も受賞している。ウィキペディアで調べたらマーク・トゥウェインがヨーロッパ旅行の際に彼と遭遇しているらしい。ベルリン大学での晩餐会でのことだ。招待客の到着とともに「モムゼンだ!」という興奮したささやきが交わされ、全員が立ち上がって叫び、足を鳴らし、手を打ち、ビールのジョッキで音をたてた。まるで嵐のような歓迎になったという。トゥウェインもモムゼンを見て感激していたらしい。


The Walls of Jericho by Rudolph Fisher

Standard Ebooks

作者のフィッシャーはハーレム・ルネサンスを代表する作家の一人。気鋭の弁護士がハーレムの近くにある高級住宅街に家を買い(つまり白人ばかりが住む地域)引っ越そうとするが、この弁護士が白人のように見えてじつは黒人だったとわかり、大騒動が起きるという話。フィッシャーは「妖術師の死」という滅法おもしろいミステリも書いている。


Professor Unrat, oder, Das Ende eines Tyrannen by Heinrich Mann

Project Gutenberg DE

ハインリッヒ・マンは1871年生まれで、独裁的・軍国主義的ナチズムを批判し、1933年には国外に逃亡している。そんな彼らしい小説が「ウンラート教授」である。主人公はギムナジウムで古典を教える厳格な教授でラートという名前なのだが、学生からはウンラート(くず)と呼ばれている。この教授がキャバレーの女に入れ込んでしまうという話だ。教授の空疎な言説、作者の皮肉な視点がいい。


Wednesday, June 17, 2026

Elementary German Series (18)

18. Die Familie

Ich habe einen Vater und eine Mutter. Der Vater und die Mutter sind meine Eltern.1 Ich habe einen Großvater und eine Großmutter. Mein Großvater und meine Großmutter sind meine Großeltern. Meine Großeltern von Mutters Seite leben noch. Meine Großeltern von Vaters Seite leben nicht mehr.

1. die Eltern 両親.

Meine Eltern haben zwei Kinder, eine Tochter und einen Sohn. Die Tochter ist meine kleine Schwester, der Sohn bin ich; das heißt,2 meine Schwester hat nur einen Bruder, und ich habe nur eine Schwester.

2. das heißt つまり, すなわち.

Der Bruder meines Vaters oder meiner Mutter ist mein Onkel. Die Schwester meines Vaters oder meiner Mutter ist meine Tante. Ich habe nur einen Onkel. Mein Onkel ist ein Bruder meines Vaters. Auch habe ich nur eine Tante. Meine Tante ist eine Schwester meiner Mutter.

Mein Onkel ist noch sehr jung und hat noch keine Frau und noch keine Familie. Meine Tante aber hat einen guten Mann und zwei Kinder. Die Kinder meiner Tante sind mein Vetter3 und meine Kusine.3 Mein Vetter ist so alt wie ich; meine Kusine ist noch sehr klein und geht in einen Kindergarten. Wir alle, das heißt mein Vetter und ich und meine Kusine und meine kleine Schwester, sind gute Freunde.

3. der Vetter 従兄弟 (男性名詞); die Kusine 従姉妹 (女性名詞).

Sunday, June 14, 2026

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(21)

§21. 「それらすべて」

(1) das alles(2) alles das
(3) alle das(4) all das

 殊に注目していただきたいのは all-e das と all das です。たとえば「これらすべてについて、彼は全然なんにも知らなかった」は Von alle dem (あるいは一語で alledem)wußte er rein gar nichts あるいは all dem, あるいは allem dem あるいは dem allem あるいは語尾を弱語尾にして dem allen ともいいます。

 次に物主形容詞がくると (2), (3), (4) の形式になります:「すべての私の財産」は alles mein Gut, alle mein Gut, all mein Gut, (1) の形式は不可:Mein alles Gut. --dieser, jener なども同じです:All diese Menschen 等々。

§21. rein gar nichts: rein (全然)

Thursday, June 11, 2026

英語読解のヒント(223)

223. many a

基本表現と解説
  • They met with many a thrilling adventure. 「幾度も戦慄すべき冒険に出会った」
  • Many and many a time in my childhood I loitered among the woods. 「幼少の頃、自分は幾度も幾度もその林の中を歩き回った」

many a は many の意。many and many a という形は意味はおなじだが、語勢が強い。

例文1

The time had been when many a friend would have crowded round him in his affliction, and many a heartfelt condolence would have met him in his grief. Where were they now?

Charles Dickens, Sketches by Boz

彼が不幸に会えば多くの友がまわりに集まって来たときもあった。彼が悲しみに会えば多くの人が心から慰めてくれたときもあった。あの人々はいまどこに行ったのだろう。

例文2

She told us many an innocent tale of her life there — of her childish days, and of her dear old governess, whose name, I remember, was Cardigan.

Dinah Mulock Craik, John Halifax, Gentleman

彼女はそこでどんな生活を送ったか、いろいろ無邪気な話をした。子供のころの話とか、たしかカーディガンという名前のなつかしい家庭教師の話とかである。

例文3

So I left Rivermouth, little dreaming that I was not to see the old place again for many and many a year.

Thomas Bailey Aldrich, The Story of a Bad Boy

こうしてぼくはリヴァーマウスを去ったが、それから幾十年ものあいだふたたびそこを見ることがないとは夢にも思わなかった。

ブルース・フィンク「ラカンの欲望論」

  ブルース・フィンクといえば「ラカン的主体」で明快にラカン理論を説明した人として知られている。現代思想というと難解な概念がいきなり飛びかい、素人はその空中戦に呆然とするしかないのだが、フィンクは地面にいるわれわれのレベルから話をはじめ、徐々にラカンという高みに連れて行ってくれる...