去年 google books でデンマーク語版(原作)の「タマネギ人間クスラドック」を見つけたときは椅子から飛び上がって喜んだ。この本はヴァルター・ベンヤミンがゲルショム・ショーレムに読むのを勧め、ショーレムが大いに褒めたという本なのだが、なにせ原作もドイツ語の翻訳版も手に入らず、わたしの中では伝説級の一冊となっていた。いや、正確に言うと日本のある大学図書館にはドイツ語訳があるのだが、古い本のせいだろうか、貸し出してくれなかったのである。それが2017年にはじめての英語訳が出てむさぼるように読み、これは訳すに値する本だと感心したのだが、しかし英語版から重訳するのはちょっと気が引けた。英訳はよく原文を簡素化して訳してしまうことが多いからだ。すくなくともドイツ語の訳と突き合わせて日本語訳をつくりたいものだが、と思っていたら、デンマーク語版が見つかり、欣喜雀躍したわけである。
それからPDFをプリントしてせっせと辞書を引き、AIにも教えを請うてようやく原文を読み終わった。英訳は案の定訳すのを飛ばした文章があったり、段落が変えられていたり、勘違いによる誤訳もいくつかあった。逆に原文の誤植を英訳者が正しく直して訳している部分もあった。作品の内容が幻想的というかサイケデリックというかシュールレアリスチックというか、読み手の読解力・解釈力をためすようなところがあるので、細部まで自信を持って理解したとは言えないが、これならわたしでも翻訳を出せそうだという感触は得た。
物語の中心にいるのはクスラドックという狂人とその治療にあたっているドゥ・モンテパシエという医者である。クスラドックはある犯罪を解く鍵をフローレンス夫人の催眠術によって心の中に植え付けられる。医者はそれを催眠療法によって取り出そうとするのである。その過程でじつにパルプ小説じみた、あるいはゴシック小説じみた、どぎつい色合いの事件が立て続けに発生する。こんな要約ではわけがわからないと思うが、夢野久作の「ドグラ・マグラ」の欧州版みたいな作品とでも思ってもらったらいいと思う。実際、この二つの小説は互いに光を当て合い、新しい読みの可能性を切り開いているのではないか。短い小説だが、抜群に面白く、知的刺激に満ちている。