ロジャー・トーリーは1901年に生まれ、1946年に急性アルコール中毒で亡くなったアメリカのパルプ作家である。ハードボイルドをたくさん書いているが、いずれも短編か中編で、長編は本書だけではないだろうか。ハメットやチャンドラーのようなトップレベルの作品ではないが、しかしこの時代のある種の雰囲気を身に纏っていて、わたしはそこが楽しかった。
主人公で語り手の私立探偵ショーン・コネルは、意外にももとピアニストで、昔は仲間とクラブで演奏し金を稼いでいた。この物語のなかでもリノのとあるバーで昔の音楽仲間に出逢い、そこで演奏をはじめるという場面がある。そのあたりの描写は非常に活気に満ちていて、バーの騒然とした情景が映画のように彷彿と目の前に浮かんでくるのである。三十年代後半の風俗を、誇張をまじえてはいるのだろうが、これほど活写できる人はあまり記憶がない。
さて話のほうだが……。ウェンデルという船会社の社長が南アメリカから戻ってくると妻がリノの町へ行き、離婚の手続きを開始していた。どうやら彼女は悪党弁護士にそそのかされて夫に話をすることなくいきなりリノへ出発したらしい。ウェンデルは妻に事情を聞こうとリノへ乗り込むが、悪徳弁護士が警察に手を回し、彼を捕まえさせて強制的にニューヨークへ帰してしまった。そこでウェンデルは私立探偵のショーン・コネルに妻との話し合いの場を設けて欲しいと頼むのである。
悪徳弁護士と警察権力が手を結んだろくでもない離婚騒動だが、コネルがリノに乗り込んで直ぐに、事件がそれだけではないことに気づく。ウェンデルの妻は小間使いを連れてリノへ行ったのだが、その小間使いが殺されていたのである。しかもコネルが調べたところ、その小間使いは過去につまらぬ犯罪を幾つも犯していたようだ。今回の離婚騒動は見た目よりももっと大きな事件とつながっているらしい。それをコネルが探っていくという物語である。
本作は脇役が大勢登場する。コネルの助手役を務めるレスター青年、ウェンデルをコネルに紹介する飲んべえのジョーイ・フリー、リノの保安官、ジーメン(G-man)、コネルがピアノ演奏をするバーの店主等々、彼らが物語にたいへんな活気を与えている。どれも個性豊かで、その会話はユーモアに満ちている。たとえばコネルが部屋を借りたアパートの大家(女)がこんなことをいう。
「あたしはセブンアップで、そこらへんの女が手にする以上の金をすってしまったよ。でもお金なんかなんの価値があるんだい。食えもしなけりゃ、寒いときに毛布の代わりにもなりゃしない」
「ものが買えるだろう」とおれは言った。
彼女はにやりと笑った。「はっ! 食事だって一度に一食食うだけさ。寝ると言ったって一つのベッドに寝るだけさ。金なんてひざまづいて拝むようなものじゃないよ」
悪徳弁護士のクランドルが同じような考えの持ち主なら、ウェンデルも苦労はしなかっただろうに、とおれは思った。
悪徳弁護士は馬鹿高い手数料をふんだくるためにウェンデル夫人に離婚手続きをさせるのだが、下宿のおばさんはその形而下的議論で弁護士の拝金主義を批判する。これによって脇役にすぎない一登場人物は、一瞬、大役を担う登場人物と同じレベルまで引き上げられる。どの登場人物もこんな具合に一瞬光るものを見せるのだ。こういう書き方がなかなかうまい。
ハードボイルドとしてはせいぜい良く言っても中の中といったところだが、ほかの部分で面白いものを見せてくれる作家だ。かえすがえすも若くして亡くなったことがおしまれる。