Wednesday, December 30, 2020

今年読んだ本のベストスリー

わたしは古い本、人に知られていない本を読むのが趣味なのだが、今年はこれぞという作品にはお目にかからなかった。逆に割と新しい作品に衝撃を受けた。

一位 松浦理英子「ナチュラル・ウーマン」

名作という噂は聞いていたが、長編好きのわたしは「親指Pの修行時代」と「犬身」は読んでもこの作品だけは読んでいなかった。しかしこっちのほうが長編よりもはるかに出來がいい。人間の感性を強靱な論理性を秘めた文章であそこまで鋭く描ききるというのは、驚嘆すべき文学的成果だと思う。大原富枝の「婉という女」に匹敵する知性を感じさせた。

二位 スラヴォイ・ジジェク Sex and the Failed Absolute

ジジェクが自分の思考に可能な限り明解な形を与えようとした哲学書で、とくにトポロジーと哲学の関係を扱った部分は圧巻だった。文学というのはだいたい人間の生活を描くもので、だからテキストの記述も三次元的法則に従うと思っている人が多い。テキスト内に上昇やら下降やら渦巻きやら円環のイメージを探してきて論じている連中がいるが、ジジェクを読むとテキストというのはもっと不可解な(ほとんどハイパースペース的な)空間を蔵しているはずだと確信されてくる。

三位 

とくにこれといった作品はないが、面白そうな作家は数人見つけた。一人は Philip Verrill Mighels で、この人のミステリはとにかく一気読みをさせる極上のエンターテイメントである。小説に於ける語りの技術は十九世紀に洗練させられたが、その成果を自家薬籠中のものとして駆使できる作家だと思う。

パルプ作家の John Russell Fearn の作品も数冊読んだ。SF作品はどうも感心しないが、ミステリやウエスタンは悪くない。たくさん書いているので、なかには珠玉の作品が混じっているかもしれない。

William March 。彼の「悪い種子」という小説は古い日本語訳があるようだ。しかし Kompany K は訳されていない。どちらもよい作品で実力のある作家だと思った。

ほかにも Kate O'Brien、Howard Spring、Ben Ames Williams、Frances Parkinson Keys などの本は面白かった。

Monday, December 28, 2020

エリザベス・ホールディング「寡婦の賽銭」(1953)

本書の物語を一言で紹介するなら、とある邸の内部で起きる連続殺人事件ということになる。シビル・フレミングという金持ちの女性が毒薬をのまされ殺される。彼女を殺したのは誰か。彼女の夫にも、夫の友人にも、彼女の息子にも、彼女の家に滞在していた本書のヒロイン、ティリーにも動機が考えられる。警察が捜査を進めると、殺害のチャンスも全員にあったことがわかってくる。そうしたなかで第二の殺人が起きるのだ。

邸内部で起きる連続殺人とはずいぶんクラシックな設定だが、読んだ印象はそういう本格ものとはずいぶん違う。ゲーム的な要素ではなく、登場人物の心理的側面、それも異常な心理の表現に力点があるからだ。しかもこの異常心理の表現がホールディング独特のサスペンスを生み出している。

本書においてもっとも精神を病んでいる人物(いや、精神が「毀れている」といったほうがいいかもしれない)は、テイラー・プライスという十五歳の少年である。彼は、毒殺された金持ち女の息子なのだが、小さいときから問題行動をやらかし、特殊な学校に行っているようだ。彼は盗みも平気だし、ずるがしこさだけは人一倍で、どこで手に入れたのか、毒薬を使って平気で動物を殺したりする。悪意の塊のような彼は、母親すらをも殺そうと考える。

事件が起きたとき、テイラーはアボットという教師に付き添われてキャンプにでかけていたのだが、このアボットという男もちょっとだけおかしい。彼はテイラーに金を盗まれ、車を勝手に使われ、もしかしたら彼が殺人事件の犯人かも知れないのに、彼を守って警察には事実を話そうとしないのだ。その理由は、テイラーがまだ十五歳だから、というものだ。しかし未成年であろうがなかろうが、ことは殺人事件なのだから、警察には真実を告げるべきだろう。このアボットの態度は読者にいらだちと、妙な不安感を感じさせることになる。

さて興味深いのは、このテイラー/アボットという関係が、本書のヒロインであるティリーとその五歳になる息子ロバートの間で反復されている点である。ロバートはまだ五歳だから、テイラーのような問題児にはなっていない。しかし甘やかされた子供がよくそうであるように、わがままで、自分勝手で、衝動的で、周囲の大人の気持ちを無視した行動(ときには危険な行動)を取る。

そして彼の母親であるティリーは、あきらかに過保護であって、いつもロバートのことを気にし、ロバートが見えなくなると病的なまでに心配をする。彼女はロバートを事件に巻き込ませまいとして、警察にありのままの事実を告げようとしない。その結果、彼女に殺人の嫌疑がかかろうとも、だ。

誰かを守ろうとして真実を隠す。テイラーとアボットの関係で言えば、アボットはテイラーを守ろうとして、じつは底知れぬ悪と共犯関係に陥るわけだ。これはいったいどういうことなのだろう。考えてみると、登場人物たちはみんな誰かを守ろうとして悪を容認し、悪を警察の目から隠そうとしている。だから刑事であるレヴィは「あんたがた四人はみんな『誰かを守ろう』として警察に情報を出そうとしない。あんたがたは誰も守っちゃいない」というのだ。

本書のなかでいちばん印象深く思われたのは、ヒロインのティリーがこの奇妙な「悪との共犯関係」を他者のうちに見いだして、ふと自分の態度を反省する場面である。アボットがテイラーを「まだ十五歳なのだから」という理由で守ろうとするのを見て、彼女はアボットに嫌気がさす。そしてその直後、彼女は自分自身の息子に対する気持ちに変化が起きたことに気づく。それまでは息子のそばにいなければ不安でたまらなかったのだが、その気持ちを制御できるようになったのだ。さらにどんなに息子を守ろうとしても息子の身にはかならずよからぬ事が起きる。自分にできることは息子のそばにいて、彼を支える気持ちがあることを知らせてやることだけだ、と考える。それから彼女は息子をきびしく叱りつけるようにさえなる。

この作品は邸内部における連続殺人事件という、ミステリの古典的な設定を持っているけど、たんなる謎解き小説を目指したものではない。善意とか愛情とか同胞意識とか、「本来なら」社会の靱帯を形作るべきものが、それを破壊するものと結託するパラドクス、あるいは人間心理の異常性(いや、これは「異常」だろうか? このようなケースは日常的に見られるものではないか)、こうしたものを追求しようとした作品なのである。わたしはエセル・リナ・ホワイトがよく似たテーマを「恐怖が村に忍び寄る」で追っていたのを思い出し、非常に興味深く思った。

Friday, December 25, 2020

ジョン・ラッセル・ファーン「ブラック・マリア」(1949)

ファーンがはじめて書いたミステリ小説。彼のSFはパルプらしい、かなりはちゃめちゃな書き方になっているが、この小説は意外なくらい本格的である。主人公「ブラック・マリア」の人物像も見事に造形されていて感心させられたし、最後の推理もひねりがきいていてなかなかのものだ。悪くない。これならほかのミステリも読んでみようかという気になる。

主人公はマリア・ブラックという女子大学の学長である。規律に厳しく学生達に恐れられているが、犯罪学が趣味で、探偵的才能を持っている。彼女は名前をひっくり返してブラック・マリアと呼ばれている。これは霊柩車とか囚人護送車という意味である。マリア・ブラックなんて名前だったら、こんな綽名がついても仕方がない。

物語は彼女がイギリスからアメリカへ渡る場面からはじまる。アメリカでビジネスをしていた兄が自殺したためだ。ところが遺書を預かっていた弁護士から彼女は驚くべき話を聞かされる。彼女の兄は、もしも自分が不審な死をとげたなら、妹のマリアを呼んで犯人を捕まえさせてくれと弁護士に秘密の手紙を渡していたのだ。弁護士によるとマリアの兄は自殺をするような男ではなかった。今回の事件はどうも怪しいというわけだ。もちろん犯罪が趣味のマリアは捜査を引き受ける。しかし彼女の兄は完璧な密室の中で死んだのである。だから警察も自殺と断定したのだ。はたしてマリアはこの密室殺人の謎を解くことができるのか、否か。

密室での殺人を可能にしたトリックが現実に使えるものかどうかはわからないが、それはマリアの捜査のはじめのほうであきらかにされるので、あとは誰がそのような仕掛けをほどこしたのかという点が問題となる。それができた人間となるとまずは兄の家族が疑われねばならないだろう。マリアは断固たる態度で甥や姪の行動を探り出す。しかもギャングたちを手なずけ手下として使うのである。厳格な教師でありつつ暗黒社会の人々をすらコントロールするマリアは、行動力と胆力、そして威厳にあふれた、じつに魅力的な主人公となっている。

マリアが活躍する作品はほかにもあるようなのでぜひ探し出して読みたい。

Tuesday, December 22, 2020

1930年 Hodder and Stoughton 社新刊案内

 1930年に出たクレメンス・デイン(Clemence Dane)の「印刷屋の徒弟」(Printer's Devil)を読んでいたら、巻末に新刊本の広告が出ていた。どの本にも十数行の梗概が付されていて、内容がだいたい推測できる。こういう巻末広告は、あまり有名ではない作品を漁っている私のような人間には非常にありがたい。防備録がわりにここに書きつけておく。

The Golden Pound by A. S. M. Hutchinson

短編集。ハッチンソン(1879-1971)は新聞雑誌の編集者をしつつロマンスや家族を主題にした小説を書いた。If Winter Comes は不幸な結婚、離婚、シングルマザーの自殺を描く。1922年、アメリカでベストセラーとなる。フェミニストから批判のある This Freedom は1924年にベストセラーリスト入りしている。さらに翌年、One Increasing Purpose もベストセラーリスト入り。

The English Paragon by Marjorie Bowen

アキテーヌをめぐるエドワード黒太子とフランスの戦いを描く。

The Little Dog Laughed by Leonard Merrick

メリックはごくありきたりの主題を一見して平易な文章でたんたんと綴るのだが、読み進めるとフランス的なエスプリを利かせていることがわかる、なかなか巧妙な作家である。

Blue Flames by Richmal Crompton

クロンプトンは「ジャスト・ウィリアム」のシリーズで有名な作家。

The Knife Behind the Curtain by Valentine Williams

第一次大戦中のスパイの活躍を描いてわりと名前の知られた作家。本書はミステリ短編集。

The Last Hero by Leslie Charteris

「サイモン・テンプラー」ものの一作。

Fair Stood the Wind by C. Lenanton

全く知らない作家。梗概によるとミセス・オリファントが総勢十一名のさまざまな客を引き連れ、フランスとイタリアを自動車で旅行する様子を描いているらしい。

Earth-Battle by Dorothy Cottrell

コットレル(1902-1957)はオーストラリアの作家で生涯車いすで過ごした人らしい。本書は牧羊業者がクイーンズランドの土地を耕し、それをすべて失うまでの歳月を描いているらしい。

The Peeping Tower by J. E. Buckrose

これまた全く知らない作家。しかし今回のリストの中で一番興味をそそる内容。六十歳のミセス・クイーディはふと耳にした他人の発言から、自分が無価値な人間と思われていることを知り、田舎の村にあるうらびれた屋敷に閉じこもる。ところがこの村はよそ者を嫌い、ひどく迷信的で、ミセス・クイーディとのあいだに緊張が高まっていく。

Spiderweb by Alice Campbell

Project Gutenberg にはキャンベルの Juggernaut が収録されていて、たぶんこれは読んでいるはずだが、内容はまったく記憶が無い。本書はキャサリン・ウエストという美しい娘が、パリにあるいとこの立派なフラットで徐々に死へと追い詰められていく物語だそうだ。

The Thirty Thieves by B. Dyke Acland

知らない作家。本書は第一次大戦後の政治に対する風刺になっているらしいが、滑稽で生き生きしていて、苦々しい味わいはないと書いてある。

On Helle's Wave by Hugh Imber

インバーと読むのだろうか、この人は The Spine という小説でデビューし、その次作として本書を出したようだ。梗概によるといずれも世評は高かったらしい。中近東を舞台にしたロマンスまじりのスパイ小説といったところ。

A Poor Man Came in Sight by E. Godfray Sellick

十四世紀のイギリスを舞台に、とある商人が妻の情人を殺し、その償いにカンタベリーへと巡礼の旅をするという話。

The Splendour of God by Honore Willsie Morrow

十九世紀にビルマへ赴いた宣教師の物語。実在した人物の伝記に基づく作品らしい。

The Vantine Diamonds by Seamark

盗まれたダイヤモンドをめぐる主人公クリス・カーテリー、警察、ギャング達の闘争。

The Honourable Pursuit by Patrick Wynnton

密輸入を主題にした冒険物語。最近気がついたが、この当時は密輸入を扱った冒険小説がけっこう書かれている。

Friday, December 18, 2020

ジョン・ル・カレのスパイ小説

ジョン・ル・カレが亡くなって追悼の特集が各種新聞の文芸欄にあらわれた。それを読んで不満に思ったことがある。どの特集でも007のような娯楽小説がル・カレの登場によって成熟した文学的表現にまで高められたとクリーシェのように言われているのである。

確かにル・カレの「寒い国から来たスパイ」は画期的な作品だった。あれでスパイ小説というジャンルが一気に見直された。しかしスパイ小説は生まれてから徐々にその成熟の度を加えて行き、ル・カレの登場の舞台を用意してきたのである。フレミングの007ものだって、成熟のための重要な一歩だった。粗悪な映画版だけを見てフレミングを評価してはならない。フレミングはそれまでのメロドラマ的な書き方を排し、極上のジャーナリスティックな文章で、「乾いた」書き方をスパイ小説に導入したのだ。ル・カレは完全にその流れを継承している。フレミングとル・カレのあいだには断絶があるのではなく、連続があるのだ。

さらに文学的な成熟度を言うならエリック・アンブラーやグラハム・グリーンの功績も忘れてはならない。彼らがいなければル・カレが存在したかどうかもわからないくらい重要な作家たちではないか。また、ル・カレのある種の緻密な文章はジョン・バカンやアースキン・チルダースから続く伝統を受け継いだものである。

雑な言い回しを用いると話はわかりやすくなるかもしれないが、大切な真実も掬い取られないまま終わってしまうものだ。ル・カレのような巨匠を正しく評価するとは、過去を、そして未来を正しく評価するということにほかならない。

追記

これを書いた後、ガーディアン紙にウィリアム・ボイドの追悼文があらわれた。そのタイトルは John le Carre didn't invent the spy novel -- he joined a tradition and made it new again である。まったくその通り。ボイドもクリーシェのようなル・カレの評価に反発をおぼえたのだろう。

Thursday, December 17, 2020

エリザベス・サンクセイ・ホールディング「掻き消されて」(1926)

ムンゼイ誌1926年九月号に掲載された短めの小説。

ジェイムズ・ロスはマニラで長年働いた後、祖父の遺産を受け継ぎ、久しぶりに故郷のニューヨークに戻ろうとする。故郷とはいっても知り合いは一人もおらず、ジェイムズはニューヨークに向かう船の中で、なにものにもとらわれない自由を満喫していた。船の中で彼の人柄に目を付けたミセス・バロンがしきりに話しかけようとするのだが(娘フィリスの婿にぴったりだと考えたのだ)、彼は巧みにそれを避ける。

船がニューヨークに着き、彼が下船しようとしていたそのとき、不思議なメモがパーサーによって届けられる。宛名は彼の名前になっているが、内容は明らかに誰か他人にあてて書かれたものなのだ。そんなメモ書きは捨ててしまってもいいのだけれど、内容の差し迫った口調のせいで、彼はニューヨークのホテルに投宿したあと、そのメモを送り主に返そうとする。

ジェイムズはメモに書かれた住所を探し当て、メモの送り主エイミイ・ロス・ソルウエイに出会う。そして束の間、一人居間に残されたとき、彼はソファの下から男の手がのぞいていることに気づく。その部屋には死体が隠されていたのだ。その瞬間から彼の人生が奇妙に狂いはじめる。

ジェイムズ・ロスが自由であるということ、ニューヨークにおいて知人友人のたぐいが一人もいないということは、彼がニューヨークという間主観的ネットワークのどこにも位置していないという意味である。彼はニューヨークに着いたらさっそくある法律家のもとへ行くはずだった。そこで彼が遺産相続人であることを認められ(すなわちネットワーク内に位置を与えられ)、金を得、世の中へとのしていくはずだった。ところが一通のメモ書きが彼の人生をまるきり別の方向へと導くのだ。

このメモ書きには二つの奇怪な特徴がある。第一にこれは当初誤配されたものであるかのように思われたが、物語が進展し人物関係が詳細に判明するに連れ、単に誤配とは言えないものであることが明らかになる。誤配は誤配なのだが、メモの本当の受取人も誤って受け取ったジェイムズも、いずれも差出人のいとこなのだ。きわめて微妙な行違いが生じたが、メモが届けられた先は、まんざら間違いというわけではない。この、誤配のようで誤配ではない、偶然のようで偶然ではないという、不思議な存在論的ステータスを、このメモは持っている。

第二に、このメモ書きはジェイムズの人生を狂わせると同時に正しい方向にも導く。彼はメモ書きが引き起こした出来事の連鎖の結果、名前を変えてメモの差出人エイミイの義理の父、ニューヨークの金持ちビジネスマンの運転手になる。彼は自分が運転する車のなかで、このビジネスマンが株取引の話をしているのを聞きながら、自分はまさにそうした話をするためにニューヨークに来たはずなのにと思う。彼は夢に描いていたのとはまったく正反対の境遇に陥ったのである。しかも彼はメモの差出人の名誉を救うために、なんと死体となってソファの下に転がっていた男とアイデンティティーを交換してしまうのだ。彼は財産をすべて失い、その全額がメモの差出人である身勝手で愚かなエイミイのものとなる。

しかしその過程においてジェイムズは責任というものを学ぶのだ。物語の最初、彼は自由を満喫していた。それはいかなる関係性ももたず、一切の責任を逃れているからこそ味わえるものだった。が、一連の事件ののち、彼は責任を引き受けようとする。とくにエイミイが秘密の結婚で生んだ子供をみずから養育しようと決意する。そして物語の冒頭ではなんとなく避けていたミセス・バロンの娘フィリスが、いかにしっかりした考えを持つ、すばらしい女性であるかということに気づく。つまり誤配されたメモは金銭的な意味では彼を破滅させたが、そのかわり彼の人生や人を見る目を鍛えたということになるだろう。

物語の最後でジェイムズはミセス・バロンの家へ行き、一文無しの彼が子供を育てるために援助をしてほしいと頼む。ミセス・バロンは彼を見るなり、たちどころに彼になにが起きたのかを言い当てる。

「あなたは一文無し、知り合いもまるでいない、しかも小さな子供の養育を押し付けられたというわけね。驚かなくてもいいわ。わたしにはよくわかっているんだから。その子は自分勝手な、心無い、破廉恥な人々に押し付けられたんでしょう! さ、なにがあったのか、詳しく話して」

そして彼の性格の強さははじめて見たときからわかっていた。だから娘の婿にしようと考えたのだ。仕事が必要なら夫がなんとかしてくれる、と実に親切に協力の手を差し伸べるのだ。さらにそこへ娘のフィリスが登場し、なんとジェイムズと彼女は挨拶の握手をしたなり、そのまま我を忘れてお互いを見つめ合う。普通の小説だったらこんなエンディングは陳腐で、くさくて、思わず鼻白んでしまうが、この作品の場合はジェイムズがあまりにも悲惨な状況に落ち込み、読んでいるこっちまでが茫然としてしまうせいだろう、最後に与えられた希望の光に、わたしはほっとため息をもらした。

話の展開はかなり強引だが、ある種異様な印象を与える、ホールディングならではの作品だった。


Tuesday, December 15, 2020

基準独文和訳法

 権田保之助著

有朋堂発行

「基準独文和訳法」より


問題19(p. 57)


In dem Maße, als die Summe der Bedürfnisse der an Zahl ständig zunehmenden Menschheit wie der einzelnen Menschen selbst wächst, während die Natur sich weigert, ihre Gaben freiwillig zu vermehren, wächst der Zwang zur Wirtschaft. Mit Rücksicht darauf, daß sowohl die Summe der zur Verfügung stehenden Bedarfsdeckungsmittel wie der zu ihrer Gewinnung und Verarbeitung erforderlichen Arbeitskräfte begrenzt ist, muß dieses Wirtschaften unter der Überlegung erfolgen, mit den gegebenen Kräften und Materialien das Maximum von Nutzen zu erzielen. 


研究事項

1)das Bedürfnis -- der Zwang zur Wirtschaft -- das zur Verfügung stehende Bedarfsdeckungsmittel -- das Maximum von Nutzen の訳。

2)二個の wie の意味。

3)erfolgen の訳。

4)in dem Maße, als...の意味。

5)mit Rücksicht darauf, daß ...の意味。

6)begrenzt sein の意味。

7)unter der Überlegung の訳。

8)mit den gegebenen Kräften und Materialien の訳。


解釈要項

1)das Bedürfnis は「欲望」。

der Zwang zur Wirtschaft は「経済への強制」(どうしても経済せねばならぬといふ状態の義である。尚ほ問題ではこれが主格となつてゐる)。

das zur Verfügung stehende Bedarfsdeckungsmittel は「処理し得べき需要充足手段」「自由にすることの出来る需要充足手段」。

das Maximum von Nutzen は「効用の最大限」。

2)前の wie は sowie の wie であつて「併びに」の義であり、後の wie は sowohl に対する wie であつて sowohl...als auch と同義である。

3)erfolgen は「結果する」即ち「生ずる」の義。

4)in dem Maße, als... は「…の度に応じて」「…と正比例して」。

5)mit Rücksicht darauf, daß ...は「…を顧慮して」。

6)begrenzt sein は「制限されてゐる」「限りがある」。

7)unter der Überlegung は「熟慮の下に」。

8)mit den gegebenen Kräften und Materialien は「所与の勢力と材料とを以て」。


訳文

自然がその天与物を自由に増加することを拒むに反し、其数の絶えず増加しつゝある人類併びに各個人それ自身の欲望の量が増大すると正比例して、経済への強制は増大する。自由にし得べき需要充足手段の量併びにその獲得と加工とに必要なる労働力の量が制限されゐることを顧慮して、此の経済行為は所与の勢力と材料とを以てしても効用の最大限を所期せんとする考慮の下に生ずべきものである。


Sunday, December 6, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著

應用英文解釋法

東京英文週報社發行


(p. 135-136)


範例

They wrote the book between (among) them.

彼等は二人(三人、皆)で此書を著した。


解説

Between us, among us, etc

=By combination of.

=By the joint action of.

二人にて、皆にて、共同して、等。


用例

1.  "Can you muster eighty pounds between you?" he demanded.

    R. L. Stevenson

「あなた方、お二人で、八十磅拵へる事が出來ますか」と彼は問うた。


2.  Together we made up between us more than four hundred pounds.

    W. Collins

二人して四百磅異常の金を調達した。


3.  That brought our dogs out in full bark, and between us we made the night hideous.

    F. S. Cozzens

さうすると犬が何匹も一生懸命吠え乍ら出て來て、わしと犬とで大騒ぎを始めた。

    in full bark 一生懸命吠えて、in full cry, in full pursuit も同じ意に歸

す。


4.  Her husband, she thought, would tell his wife, and then the two of them, between them, would -- put up with it.

    A. Trollope

夫人は考へた、彼女の良人は細君に話すで有らう。さうすれば夫婦で其事を葬つて了ふで有らう。

  put up with (=bear without resentment) 勘辨する。默つてをさめる。


5. These three little girls did not count four-and-twenty years between them, and already represented human society -- on one side envy, on the other disdain.

    V. Hugo

  此等三人の少女の年は皆合せても二十四にはならなかつたが、早や既に人間社会を代表して居た。即ち一方に於ては嫉妬、他方に於ては輕侮を表はして居た。


6.  One of the Empress's amusements is photography; and as the children share a pony and donkey between them, they are often "snapped" by their mother.

    J. F. Fraser

露后の娯樂の一つは寫眞術である、而て皇子等は二人して一等の子馬と驢馬とを弄び居る故に母君は屡之を撮影し玉ふのである。

Wednesday, December 2, 2020

トポロジー

クリフォード・A・ピックオーヴァーの「メビウスの帯」を読んだ。

ピックオーヴァーは数学の興味深いトピックについて啓蒙的な作品を多く書いている。専門的な内容を素人にもわかりやすく提示する点、数学以外の分野へも話を広げていく目配りの広さという点、この両方に於いてよくできた本だと思う。わたしが想像力をかきたてられたのは、四次元の神様が三次元と交錯するとき、複数の人間としてあらわれるのかもしれない、という指摘(想像)。つまり四次元では神様ひとりが存在しているのだが、三次元と交錯する部分に於いては神様は複数に分裂して現象する。その個々の存在が人間だというのだ。人間は四次元の神様の一部であることを知らず、三次元の世界にそれぞれ個人として生きているのかもしれない。これはメタレベルとオブジェクト・レベルを考えるときに重要になってくると思う。


英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...