Tuesday, September 29, 2020

モーリーーン・サーズフィールド「ビーチランズ・ホテル殺人事件」(1948)

イギリス空軍中佐ロートンの帰国に合わせ、アナベル・アダムスは自分の所有するホテルで大きなパーティーを開こうとした。ところがその日は大吹雪。招待客のうちでホテルに来られたのはたったの六名だった。

雪は降り続き、ホテルは完全に外部から隔絶された状態になる。ホテルにいるのは招待客と従業員たちのみ。そこで連続殺人事件が起きる。

そのきっかけは嫉妬だ。じつはロートン中佐は、戦争中のヒーローであるだけでなく、美しい女性に手を出すのも早かった。彼のせいで結婚生活を破壊された人間や、過去に彼と関係を持った人々がホテルに集まっていたのである。

最初に殺されたのはロートン中佐その人。その次に、犯人に気づいたとおぼしきホテルの受付嬢。さらに……。

本作で活躍する探偵はレイン・パリー警部だ。彼はホテルの近くを自動車で移動中に、吹きだまりの中に突っ込んでしまう。車が動かなくなった彼は歩いてホテルへ避難するが、そこでさっそく殺人事件に遭遇する。地元の警察に連絡しようとしたが、何者かが電話線を切断し、大雪のため直接警察まで出向くことも不可能という状態のなか、凶悪な犯人に立ち向かわなければならなくなる。

雪に閉ざされたホテルという状況は本格ミステリのそれだが、サスペンス小説といったほうがいいだろう。停電し、蝋燭やランプの光以外は暗闇という中で展開される人間ドラマは、それなりに興味深く読めるが、読み終わってさほどの印象を残す作品ではない。状況の設定や人物表現にやや無理が感じられるからだろう。たとえば犯人は嫉妬で殺人を犯すくらい激情的な人間であるのに、犯行においては異常な冷静さを保っている。そういう人間はいるのかもしれないが、彼の異常性は説得的に作中で示されてはいない。ホテルに伝わる怪奇談も中途半端な扱いで、物語にうまく組み込まれているとは言えない。

Saturday, September 26, 2020

ジャン・ピエール・デュピュイ「聖なる徴」

示唆に富む、知的刺戟に満ちた本だった。

わたしは「わが名はジョナサン・スクリブナー」の後書きで、メタレベルとオブジェクト・レベルの奇妙な混淆について説明した。作者は作中人物を生み出す存在として作品世界のメタレベルに存在している。ところが「ジョナサン・スクリブナー」においてはその作者が不在の登場人物として(最後に登場するけれど)作品世界に降りてきている。あの小説の謎は、作品の内部に作品を超越する存在があらわれることから発生している、というのがわたしの見解だ。

このような混淆について考えるきっかけとなったのは「資本論」である。マルクスが貨幣の不可解さを集合論を使ってこう書いた。貨幣は馬や羊やライオンにまじって「動物」が闊歩しているようなものだ、と。

デュピュイもこのような階層性の混乱に注目する。たとえば中世の社会構造。中世に於いて社会を指導するのは聖職者である。王侯貴族以下、最下層の人々にいたるまで神に仕える僧侶たちの支配下にある。しかし現実には支配しているのは王侯であって、ここに奇妙な階層性のねじれが見られる。聖職者は支配しているようで、じつは支配されているのである。

この関係はヘーゲルのいう「否定の否定」とも似ている。たとえば善と悪という二項関係において、一方は他方の否定となっている。これが最初の否定だ。さらにそれが否定されると、悪が善の内部に取り込まれる。悪はじつは善が成立する条件であり、かつまた善を不可能にするものでもあるというように。こうした関係について、わたしは「オードリー夫人の秘密」の後書きで考えたことがある。

デュピュイはこうした例をさまざまな分野からかき集めてくる。そして階層性の発生と混乱をルネ・ジラールの「聖」の考え方と連結させてみせるのだ。面白い。久しぶりにジラールも読み返そうと思う。

Tuesday, September 22, 2020

基準独文和訳法

 権田保之助著

有朋堂発行

「基準独文和訳法」より


問題15(p. 54)

Die Ausbildung der Volkswirtschaft ist im wesentlichen eine Frucht der politischen Zentralisation, welche gegen Ende des Mittelalters mit der Entstehung territorialer Staatsgebilde beginnt und im XIX. Jahrhundert mit der Schöpfung des nationalen Einheitsstaates ihren Abschluß fand. Die Zusammenfassung der wirtschaftlichen Kräfte geht Hand in Hand mit der Beugung der politischen Sonderinteressen unter die höheren Zwecke der Gesamtheit. 

研究事項

1)die Volkswirtschaft -- die politische Zentralisation -- das territoriale Staatsgebilde -- das nationale Einheitsstaat -- die politische Sonderinteresse -- die Gesamtheit の訳は?

2)im wesentlichen の句の意味は?

3)mit etw den Abschluß finden の熟語の意味は?

4)Hand in Hand gehen の熟語の訳は?

5)mit der Beugung der politischen Sonderinteressen unter die höheren Zwecke der Gesamtheit の句の詳細なる説明をなせ。

解釈要項

1)die Volkswirtschaft は「国民経済」(英語の political economy に当る)

die politische Zentralisation は「政治的集中」で「中央集権」の義。

das territoriale Staatsgebilde は「領土的国家構成体」

das nationale Einheitsstaat は「国民的統一国家」

die politische Sonderinteresse は「政治的特殊利益」

die Gesamtheit は「統合体」「統体」。

2)im wesentlichen は「本来」「大体に於て」。

3)mit etw den Abschluß finden は「或事に於て終を告げる」。

4)Hand in Hand gehen は「相提携して行く」。

5)unter die höheren Zwecke der Gesamtheit の句は前の  Beugung に掛るものであつて、即ち此の全体の句は „die politischen Sonderinteressen(四格)unter die höheren Zwecke der Gesamtheit beugen“といふ句を名詞化したものである。

訳文

国民経済の完成は、本来、中世の末葉、領土的国家構成体の成立に始まり、十九世紀に於て国民的統一国家の創成を以てその帰結を見た政治的集中の成果である。諸経済力の結合は統合体の高次目的への政治的特殊利益の屈服と相提携し行くものである。


Saturday, September 19, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著

應用英文解釋法

東京英文週報社發行

(p. 126-128)

範例

I

He was beside himself.

彼は夢中であつた。


II

He was beside himself with|joy. (a)

             |grief. (b)

             |anger. (c)

             |terror. (d)

             |   etc.

彼は|(a) 嬉しくて |夢中であつた。

  |(b) 悲しくて |

  |(c) 怒つて  |

  |(d) 恐ろしくて|


解説

To be beside oneself.

  =To lose one's self-command.

  =To be out of one's wits or senses.

  措を失ふ。

 度を失ふ。

 常を失ふ。

 我を忘る。

 夢中になる。


之に其原因を示す Adverbial Phrase が加はりて上に示すが如く

 He was beside himself with joy, grief, anger, etc.

の如き文となる。

 To be beside oneself. = 其身の外に在り、我を忘る。

邦語「(恐ろしさに)魂身に添はず」などの句を思ひ合す可し。


用例

I

1.  Paul, thou art beside thyself; much learning doth make thee mad.

    Acts XVI.

    パウロよ、爾は狂氣せり、博學爾をして狂氣せしめたり。


2.  The fact is, I was a trifle beside myself; or, rather out of myself, as the French say.

    C. Bronte

    實は私は少々逆上して居たのです、或は佛蘭西人が云ふやうに我を忘れて居たのです。


3.  He came down with a huge long naked weapon in both his hands, and looked so dreadfully! sure he's beside himself.

    Ben Johnson

    彼は兩手に大きな長い抜身をもつて下りて來て實に恐ろしげに見えた、確に彼は逆上して居る。


4.  Villon was beside himself; he beat upon the door with his hands and feet, and shouted hoarsely after the chaplain.

    R. L. Stevenson

    ヴィロンは夢中であつた、彼は手と足とを以て戸を打ち聲を嗄らして牧師を呼んだ。


II

5.  For some moments I was beside myself with terror and anxiety; I was helpless.

    Mark Twain

    暫くの間は私は恐怖と心配とでどぎまぎして了つた。私はどうする事も出來なかつた。


6.  "Yes, posonous thing!" replied Giovanni, beside himself with passion. "Thou hast done it!"

    N. Hawthorne

    ジオヴニは憤怒の餘り我を忘れて云つた「然り、毒婦よ、爾がそれを爲したのである」。


7.  He was himself astonished at his good luck, as you may believe; and his wife was almost beside herself with joy.

    R. L. III.

    讀者も信ずるが如く彼は自分の幸運を見て自分からして驚いて了つた、而て妻も嬉しくて殆ど夢中であつた。


8.  Charlie, by the sound of his voice and the vile terms that he hurled after the secretary, was obviously beside himself with rage.

    R. L. Stevenson

    チヤーリは彼の聲と彼が書記のあとに投げた惡口雜言を聞いて激怒のあまり夢中になつて了つた。


9.  The Woodman's Hut was the chief inn in the village, and, almost beside herself with excitement, Ethel called in a servant to attend to Nance.

    J. F. Muddock

    ウドマンスハツトはこの村に於ける第一の宿屋で有つた、而てイーセルはどぎまぎして夢中になり、ナンスを介抱するやうに下婢を呼び込んだ。



Wednesday, September 16, 2020

ブライアン・フリン「孔雀の眼」(1928)

 クロラニア国の王子がナタリア国の王女と結婚することになった。ところが王子は以前秘密裡につきあっていたイギリス人女性ダフネとの関係をネタに脅迫状を受け取る。困った王子は名探偵の噂の高いアントニー・バサーストに相談を持ちかける。

それから一か月後のことだ。王子からアントニーのもとに緊急の連絡が入った。以前王子がつきあっていた女性ダフネが歯科医の病院で毒殺されたというのだ。歯科医がダフネの治療を終え、別室へ行くと、何者かがその部屋に外から鍵をかけて医者を監禁状態にしたあと、ダフネを殺害したらしい。ところが数時間後、王子はその死んだはずのダフネから電話を受け取ることになる。王子、驚くまいことか。スコットランドヤードの警部バニスターと捜査に臨んだアントニーは、病院で毒殺された女性がダフネであると警察が勘違いするよう、何者かが巧妙に状況を仕組んだことを知る。では殺されたのは誰か。犯人はなんの目的で警察の捜査を混乱させようとしたのか。

こんなふうにややこしくはじまる本作は、ミステリ黄金期に書かれた秀作の一つと言っていいだろう。しかもあまり人に知られていない秀作である。犯人が明らかになる場面では、誰もが見事な一本投げを食らった思いをするだろう。

じつを言うと、わたしは本書を読みながら「おや、珍しい」と思ったところがあることはあるのだ。しかしそれ以上はなにも考えなかった。しかしあそこが犯人を示す手がかりになっているとは……。

捜査の過程は込み入っているが、随所に驚きがあって飽きずに読み通せる。マニアが好みそうないい作品なのだが、しかしわたしが訳すことはない。手がかりが翻訳できそうにないからである。

Sunday, September 13, 2020

雑感

 政治について語るのはわたしの柄じゃないけれど、それでも近年ますます印象を強くしているあることがらがある。

世紀の変わり目をわたしは中国で過ごしていたのだが、あるとき仲のいい若い大学の講師からそのころの日本に対する印象を聞かしてもらった。するとその当時の日本は中国から見て「腐っても鯛」という状態なのだという。つまりもう没落ははじまているが、それでもまだ過去の威光を帯びている、というわけだ。

じつのところ九十年代から外国暮らしをしていたわたしの目にもおなじように映っていた。わたしは日本語を教えてなりわいを立てていたが、どこへいっても日本の人気は下降する一方であり、ビジネスをしようとする学生はみな中国語を選択するようになっていた。日本の経済力、文化力は凋落の一途で、それは日本の外で、とりわけ外国の経済力や文化力にじかに接して暮らしていると非常によくわかるのだ。

それと反比例してあらわれたのが日本賛美派である。日本のオタク文化はクールだなどと政府の肝いりで世界に宣伝をはじめたときは笑止を越えて唖然としてしまった。この手の日本賛美がでるということは、そしてそんなポンコツ政策が日本人のあいだで支持されるということは、「現実」がそれとは逆の方向に進んでいることの確実な証左である。なにかが賛美されたり非難されるとき、その賛美や非難の対象はすでに社会的に力を失ってしまっていることがおおいものだ。たとえば武士道なんてものは武士道が滅びたときにあらわれたイデオロギーだし、人類学とかポストコロニアリズムとか政治学を勉強した人なら、類似の例をいやというほど知っている。

最近十年間、日本という鯛は完全に腐りきって腐臭を発していたと思う。その象徴が潰瘍性大腸炎を患っている安倍なる男だろう。彼は自分の弱さを隠して強がりをいうだけの男だったが、それはまさに日本の姿を正確にあらわしていた。自分の衰退した姿を直視せず、いまだに発展の途上にあるかのような幻想の中に生きようとする日本は、安倍を本能的に支持した。彼らは野党を徹底的にしりぞけるが、それも当然で、野党が政権を取れば、もっとも見たくない日本の衰退ぶりが白日の下にさらされる危険性があるからだ。彼らは死ぬまで幻想(イデオロギー)を維持したいのだ。

公文書管理の問題、あるいは統計の取り方の恣意的な変更、安倍政治の問題はすべて幻想の維持のために行われてきたものだ。これらを安倍個人の問題と考えてはならない。なぜなら幻想の維持は多くの日本人にとってほとんど死活問題となっているからである。

Thursday, September 10, 2020

巻末の楽しみ

プロジェクト・グーテンバーグのよいところは、本を一冊まるごと電子化する点である。英語には from cover to cover という言い方があるけれど、まさにそれを地でいくところがすごい。本には本文以外にも注目すべき部分があるからだ。


わたしがもっとも気になるのは巻末に置かれた出版社の本のリストである。日本の文庫本などにも巻末に既刊本の紹介が載っているが、あれである。


最近たまたまバリー・ペイン(Barry Pain)の Here and Hereafter という本を読んでいたら、巻末にメシューエン社の出版物のリストが三十ページも載っていた。しかも「文学一般」とか「古代都市」とか「骨董」とかいろいろにジャンルわけされている。これを見ると Here and Hereafter が出版された1911年当時にどんな本が読まれていたのか、如実にわかって興味深い。


たとえば「文学作品」のリストを見ると、まず最初に Albanesi (E. Maria) というまったくわたしの知らない作家の本が六点あがっている。作家の並びはABC順である。あげられている作品数が多い作家に注目してみようか。


Baring-Gould (S.) 19点

Corelli (Marie) 15点

Hope (Anthony) 12点

Jacobs (W. W.) 11点

Phillpotts (Eden) 12点

Williamson (C. N. and A. M.) 10点


十点以上作品があがっているのは以上六名。コレーリやホープ、ジェイコブズ、フィルポッツあたりは当然の人気だが、ベアリンググールドが19点というのは驚きだ。ベアリンググールドは「六ペニー本」のカテゴリーにおいてもいちばん出版点数が多い。六ペニー本は安価な文庫本みたいなものだが、他の作家はどれも多くて五六点しか出ていないのに、彼だけは一四点も出ている。たぶんこれは出版社の趣味とか、作家と出版社との関係とかだけでなく、当時の人々の本に対する嗜好を示すものとして考えるべきなのだろう。他の出版社のリストがあったなら、それと比較することでより正確なことがいえるようになるだろうけど。


こんな具合に巻末の既刊本リストは当時の人気作家や人々の趣味を知るのに非常に重要な資料となる。わたしは暇な折には知らない作家をネット上でチェックし、本が入手可能かどうかも調べる。たまに面白い本が見つかるからだ。ほとんどは絶版となっているのだけれど。


このリストの中で一点、喉から手が出るほど読みたい本があった。それは Olivia Shakespear の Uncle Hilary である。この本は1909年に出版されてそれ以後再刊されたことがないんじゃないだろうか。しかし最近 Valancourt から出た彼女の Beauty's Hour を読み、その才筆に一驚した人なら、彼女の最高作と言われる Uncle Hilary を必ず読もうとするだろう。どこかから出してくれないだろうか。

Sunday, September 6, 2020

ジェファーソン・ファージョン「七死体」(1939)

 視点の切り替えが効果的に用いられていて、最後まで物語興味を持続させる好作だと思う。たぶんファージョンの代表作の一つと言えるのではないか。


最初はテッド・ライトというけちな泥棒の視点から始まる。彼が海にほど近い、人気のない家に忍び込むと、そのうちの一部屋に七人の死体が転がっていた。泡を食って逃げ出すテッドを怪しい男だとフリーランス記者のヘイゼイルディーンが追い、警察官に引き渡す。


次はケンダル警部とヘイゼルディーンの視点に移る。もちろん彼らは問題の家を捜査し、死体を発見する。彼らはこの家にフェナーという男が姪と一緒に住んでいたことをつきとめる。ところが彼らは殺人の起きる数時間前にどこかへ出かけているのだ。いま彼らはどこにいるのか。


ここからヘイゼルディーンの冒険がはじまる。彼はフランスに渡ったフェナーと姪を発見するが、悪党どもの計略にひっかかって頭部をなぐられ、監禁される。


ここで物語はすこし時間をさかのぼり、ケンダル警部の捜査の様子が語られる。彼はユーモアもあるし、捜査官としても優秀だ。すぐさま手掛かりからフェナーたちの居場所をつきとめ、フェナーの姪とヘイゼルディーンを救出する。しかしフェナー本人は依然として行方不明だ……。


こんな具合に視点を変化させつづけ、また冒険の場所もイギリス、フランス、アフリカの小島と変遷し、それが物語をあきさせずに読ませるうまい仕掛けになっている。推理にばかり興味を持つ人はがっかりするかもしれないけれど、最後の日記の部分には意外なひねりも隠されていて、気晴らしに面白い本を読みたいという人には大いにお勧めできる作品だ。Farjeon

Thursday, September 3, 2020

ジョン・エステヴァン「死のドア」(1928)

 本書の作者はサミュエル・シェラバージャー(1888ー1954)という、歴史小説書いて有名になった人だ。びっくりするくらい筆が立ち、中世のイタリアやスペインの雰囲気がページから立ち上ってくるようなすごい文章を書く。Captain from Castile と The Price of Foxes はベストセラーになり、映画化もされた。


シェラバージャーはミステリも書いていて、そのとき使ったペンネームがジョン・エステヴァンだ。つい最近、fadepage.com から彼の最初のミステリ「死のドア」のテキストが出たので興味津々読んでみた。ちなみにジョン・エステヴァンのミステリはおそろしく入手困難。


物語はこんな具合にはじまる。


エイムズ医師はエレナ・グレアムの招きに応じてグレイハウスというお屋敷へ行く。そこにはエレナの妹シーリアが住んでいるのだが、エレナによると彼女の様子が最近おかしいのである。エレナはエイムズ医師に客を装って彼女を観察してもらい、精神に異常をきたしていないかみてもらおうと考えていた。


確かにシーリアは謎めいた言葉を発し、奇矯な印象を与えた。しかしエイムズ医師とエレナが対策を講じる余裕はなかった。シーリアはその日の晩に殺されてしまったからである。


エイムズ医師はさっそく友人の探偵ノースを呼ぶ。そしてノースは、その日の晩出かけていたシーリアの夫、フランシス・バリオンを探す。ところがフランシスの所在がわからない。後刻、フランシスはグレイハウスに戻ってくるが、犯行があった時刻の前後に彼がなにをしていたか、フランシスは説明することができなかった。


フランシスとシーリアは最近、金銭問題でいがみあっていたし、夫が妻の財産を目当てに人殺しをはたらいたとも考えられる。夫の容疑は濃厚だ。しかし明敏なる探偵ノースはフランシスを犯人ではないと考え、妻の葬儀の準備のために彼を次の一日、自由に行動させてやる。


ところがその次の日になって、フランシスは姿を消す。あとには犯行を認める彼のメモが残っていた……


こんなふうに筋だけを話してもこの作品の面白さ、すごさを紹介することにはならない。本書でいちばん不気味なのはグレイハウスという屋敷そのものである。中世イタリアの建築様式を持つこの家は、まさに中世イタリアの精神を宿しているのだ。かつてその時代においては情熱と欲望が烈しくうずまき、人々は殺し殺され、一族が全滅しそうにまでなった。そんなけばけばしく、どぎつい情念がそこには保たれていて、そこに住む人々を変えていってしまうのである。


エイムズ医師、エレナ、そしてフランシスの弟であるカールが召使いたちにかしづかれてこの屋敷に寝泊まりするようになるのだが、彼らはしだいに性格が変わっていく。おとなしく控えめなエイムズ医師さえ情熱的になり、ほとんど理性を失ったかのように行動しはじめる。このあたりの変貌、そして狂気に近い情念の描写がじつに迫力に満ちていてすばらしい。


ただ一人、この情念のお芝居から距離をおいているのが探偵のノースである。わたしは何度も書いているけれど、探偵は本質的にメロドラマの外部に存在している。探偵小説は十九世紀のメロドラマから派生してきたが、しかしメロドラマを否定したところに成立するのだ。


しかしノース探偵は外部からメロドラマを冷たくみているわけではなく、その不可解な力、過去からずっと引き継がれ、消えてなくらない人間の情念の力を認めている。彼はそれこそが事件の真犯人であり、情念に振り回されて行動した人々は(犯人も含めて)この強力な意志の操り人形にすぎないのだと言う。さらに彼は、それは過去を模倣して造られたグレイハウスに残存している古い時代精神なのかもしれないと言う。「我々も同様に我々の時代の操り人形だ。そして我々の時代の光によって我々は判断される」


こう考えるなら、探偵を「神の如き」などと形容するのはまちがいだとわかるだろう。探偵は「すべて」を超越した地点にいるのではない。事件の外に立っているかも知れないが、時代精神まで越えているわけではない。もしも事件がなんらかの形で時代精神そのものにかかわるものであるなら、探偵はその外部に立つことが出来ず、事件を解明できない可能性もあるのである。もちろん後になって時代と時代精神が変わり、事件の外部に立つことが可能になれば、事件を解明する探偵が出て来るかも知れないけれど。


もちろんある時代精神に呑み込まれていたとしても、ノース探偵のように「我々は我々の時代の操り人形」という認識を持つことは出来る。認識において時代を超え出ることは可能だ。これは時代精神が絶対的なものではなく、いつの時代精神も内部に亀裂を抱えていて不完全だから、このような認識が可能になるのである。それなら探偵が時代の亀裂に位置しているなら、時代精神にかかわる事件でも、探偵は見事に推理することができるだろうと思われるが、しかしどうだろう。この亀裂の位置は徹底した否定性の位置なのであって……。


ううん、よくわからない。しかし「死のドア」はこんな具合にわたしに考える糧を与えてくれた。毛色の変わったミステリとして一読に値すると思う。



英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...