Saturday, September 26, 2020

ジャン・ピエール・デュピュイ「聖なる徴」

示唆に富む、知的刺戟に満ちた本だった。

わたしは「わが名はジョナサン・スクリブナー」の後書きで、メタレベルとオブジェクト・レベルの奇妙な混淆について説明した。作者は作中人物を生み出す存在として作品世界のメタレベルに存在している。ところが「ジョナサン・スクリブナー」においてはその作者が不在の登場人物として(最後に登場するけれど)作品世界に降りてきている。あの小説の謎は、作品の内部に作品を超越する存在があらわれることから発生している、というのがわたしの見解だ。

このような混淆について考えるきっかけとなったのは「資本論」である。マルクスが貨幣の不可解さを集合論を使ってこう書いた。貨幣は馬や羊やライオンにまじって「動物」が闊歩しているようなものだ、と。

デュピュイもこのような階層性の混乱に注目する。たとえば中世の社会構造。中世に於いて社会を指導するのは聖職者である。王侯貴族以下、最下層の人々にいたるまで神に仕える僧侶たちの支配下にある。しかし現実には支配しているのは王侯であって、ここに奇妙な階層性のねじれが見られる。聖職者は支配しているようで、じつは支配されているのである。

この関係はヘーゲルのいう「否定の否定」とも似ている。たとえば善と悪という二項関係において、一方は他方の否定となっている。これが最初の否定だ。さらにそれが否定されると、悪が善の内部に取り込まれる。悪はじつは善が成立する条件であり、かつまた善を不可能にするものでもあるというように。こうした関係について、わたしは「オードリー夫人の秘密」の後書きで考えたことがある。

デュピュイはこうした例をさまざまな分野からかき集めてくる。そして階層性の発生と混乱をルネ・ジラールの「聖」の考え方と連結させてみせるのだ。面白い。久しぶりにジラールも読み返そうと思う。

独逸語大講座(20)

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