Thursday, November 29, 2018

アイデンティティ・ポリティックスの問題(2)

アイデンティティ・ポリティックスの問題点を明確に指摘してくれたのは哲学者のスラヴォイ・ジジェクだった。わたしはそのとき以来、ジジェクの大ファンになった。

彼はアイデンティティ・ポリティックスのカテゴリー化を、社会を細かく裁断することだと考える。日系アメリカ人で、シングル・マザーで、レズビアンである人が問題を抱えていたなら、その問題は人種や性的傾向などによって限定されたある特殊なカテゴリー内での問題と見なされる。

しかし昔はどうだっただろう。たとえば黒人の差別は、黒人というカテゴリー内の問題ではなく、社会全体の問題となった。特殊な範疇の人間の問題が社会全体にひびを生じさせたのである。そこにこそ民主主義があった。それが今では、特殊な範疇の問題に矮小化されてしまう。

これは今ある社会を保全するための政策だ、とジジェクは言う。たしかにその通りだ。社会全体を脅かしかねない問題を、極小の被害で食い止めようとするシステムなのだから。

わたしはジジェクの議論を読んではじめて腹の底から納得がいった。わたしの中でもやもやしていたものが明瞭な形を取ることができた。

アメリカでは授業の準備が忙しすぎてあまり読書の時間が取れなかったが、ジジェクだけは真剣に目を通すようにした。

Tuesday, November 27, 2018

アイデンティティ・ポリティックスの問題(1)

1990年代にアメリカの大学の講師になったとき、その年度新規採用になった教師向けにオリエンテーションがあった。われわれは司会に「みずからをアイデンティファイせよ。そこが出発点だ」と言われて、ひとりひとり自己紹介することになったのだが、わたしは司会の言葉にひどくひっかかるものを感じた。

「アイデンティファイせよ。そこが出発点だ」アイデンティファイというのは、自分がどのような民族的・人種的・性的グループに属するか、それを示せということである。なるほど、これがアメリカのアイデンティティ・ポリティックスか、とわたしは思った。同時に司会がこの政策を疑いもなく受け入れ、それを他人にも押しつける姿に、強い反感を感じた。さらにアメリカのこの政策には根本的な間違いがあるのじゃないかと思った。

アイデンティティ・ポリティックスは一種の問題解決法である。市民の誰かが困難に逢着するとする。その場合、地域の官僚組織は、その市民が日系アメリカ人であり、シングルマザーであり、レズビアンであるといったカテゴリーによって分類し、その細かな分類ごとに対処法を考える。

これは一見有効そうに見える。非常に特殊な複合カテゴリーにも一通りの対応が用意されているからだ。しかし有効ではあってもなにか基本的な見落としがあるのではないか。わたしは「アイデンティファイせよ」と無理矢理背丈をアメリカの基準に合わせることを求められ、本能的に反発を感じた。

新規採用になった教師の一人は、自分はスエーデンの国籍を持っているが、父親はロシア人で母親はスエーデン人とフランス人のハーフであり、父方のお祖父さんは……といったように、非常に複雑なみずからの出自を語った。きっと彼もアメリカ流のカテゴリー分けに反発したのだろう。そして、はたしてわたしのようなカテゴリーをアメリカは想定しているのかな、と皮肉めいた疑問を投げかけようとしたのではないか。しかしわたしは直感的にそのような批判はうまくいかないと思った。なるほどその教師がいうようなカテゴリーをアメリカは想定していなかったかもしれない。しかし指摘されればすぐ彼らはそれを用意するだろう。敵の土俵で戦う限り、敵はすぐに対応策を見つけ出す。敵の土俵を形づくっている土台に対して有効な批判を見出さなければならない。わたしはそれがあると感じた。しかしなかなかそれが見えてこなかった。

(つづく)

Sunday, November 25, 2018

「わが骨、わがフルート」発売のお知らせ

エドガー・ミッテルホルツァーのゴースト・ストーリー「わが骨、わがフルート」をアマゾンから出すことになった。

ミッテルホルツァーは英語でカリブ海文学を書き始めた最初のひとりである。死後、ずいぶん長いこと忘れられた存在だったが、ここ十年ほどのあいだにいくつかの作品が復刊され、そのなかでも「わが骨、わがフルート」は特に人気が高い。

呪いのかかった古文書の謎を解くためネヴィンソン一家とミルトンという若者がジャングルの奥地へ行き、そこで不思議な現象に遭遇する話である。ホラーではないから、そんなに怖いことはないのだが、ジャングルの溢れんばかりの色彩と匂い、そしてその奥に秘められた謎めいた闇が魅力的に描写されている。

欧米ではなぜかクリスマスのシーズンに幽霊譚を読む風習があるので、静まりかえった夜中にちょっとだけ怖い物語を読むのもいいのではないだろうか。ジャングルのなかで展開する物語なので、ほんのり身体が温まるかもしれない。

文学的なホラーが読みたいというのであれば、おなじくミッテルホルツァーの「エルトンズブロディ」を手にとって欲しい。これもアマゾンから拙訳が出ている。

Friday, November 23, 2018

プロレスを「読む」

プロレスの試合を見るときは音を消してしまう。その理由はアナウンサーがうるさいから。

選手がぶつかり合ったり、倒れたりするときの音が聞こえないので、いまひとつ迫力に欠けるのだが、アナウンサーの余計な声がない分、集中して観戦することができる。

わたしは選手の動きを見てあれこれ考えるのが好きなのだが、アナウンサーの声が聞こえていると、そっちに気を取られ、考えることができないのである。

プロレスの試合にはいろいろな駈け引きがある。レスラーは無闇矢鱈と戦っているのではないのだ。相手より自分を強く見せたり、相手をいらだたせたりする、いろいろなテクニックを駆使して試合を進めて行くのだ。わたしはそういう動きを一つ一つ確認していくのが好きなのである。なぜこの選手はリング外に出たのだろう、とか、なぜ彼は相手と組み合うのを拒否したのだろう、とか、いつもより攻めのテンポがゆっくりしているが、どういう作戦を立てているのだろう、とか、わたしはいつも考えている。

これはプロレスに限った話ではない。文学や映画や将棋に対してもおなじような態度を取っている。文学作品を読むときは、とにかくその作品を何度も読み、何度も考え直し、自分の意見を確立しようとする。その後、他の有力な批評家の意見を聞いたりすることもあるけれど、まずは無心になって作品と徹底的に向き合う。

映画を見るときは、画面から与えられる情報を整理しながら、この作品の問題点はどこにあるのだろうと、ずっと考えつづけている。だから映画を見終わって爽快な気分になることはない。いつもくたくたになって映画館を出る。だからだろう、映画は滅多に見ない。

将棋の実況中継を見るときは、棋譜のみを見る。プロが解説していることもあるが、そういう番組は見ない。棋譜のみを見て、自分で手の意味や、次の一手を考える。プロの解説は、自分なりの見解を出した後に聞くと、参考になる。

要するにわたしは「読み解く」という作業が好きなのだ。その作業を邪魔されるのがいやなのだ。だから無音でプロレスを見るのである。

Wednesday, November 21, 2018

「黒髭の男」 The Man with the Dark Beard

アニー・ヘインズは1865年に生まれ、十冊ほどミステリを書き残して1929年に亡くなった。本作は1928年に発表されたもの。彼女はファーニヴァル警部のシリーズとストッダード警部のシリーズを書いているが、本作は後者の第一作にあたる。

筋は非常に単純だ。バスティドという医者が書斎で銃殺される。ストッダード警部が調査を始めると、怪しげな状況が次々と明らかになる。まず医者の助手であるウィルトンという男。彼は医者の娘と恋仲にあり、殺人が起きた日にバスティドに結婚したい旨を告げていた。しかし医者はそれに猛反対したのだった。

次にバスティドの机の上に置いてあった奇妙なメモ。それには「黒髭の男」と書いてある。バスティドは犯人を指摘するためにそんなメモを残したのだろうか。

さらに女中のメアリ。彼女は事件後、見張りに就いていた警官をだまして家を出、行方をくらましてしまった。

またバスティドの親友であるモリス医師。彼は髭を生やしていたのだが、事件後なぜかきれいにそれを剃ってしまう。

そしてバスティドが殺された書斎の状況。窓にはカーテンがかかっていて、外からのぞき見のできないようになっていたのに、なぜか事件後、カーテンが一部開いていたことが判明する。

ストッダード警部の懸命な捜査にもかかわらず、事件はなかなか解決されない。そんな中、バスティドの秘書をしていた若い女性が、事件後結婚したウィルトンに殺されるという事件が起きる。新聞はウィルトンが恨みからバスティドを殺害し、遺産目当てに元秘書を殺したのではないかと書き立てた。

しかしストッダード警部はウィルトンの無罪を信じ、捜査を続ける。

正直に言って、ミステリとしてそれほど面白い作品ではない。ストッダード警部が手がかりを追って捜査すると、自然に事件の真相が見えてくるという物語である。べつに彼が見事な推理を展開し、読者をうならせるというお話ではない。ただし当時の風俗を知る上では興味深いと言えるだろう。たとえば「髭」だ。昔は日本でもそうだが、立派な紳士はみな堂々たる髭を生やしていたものだ。(三島由紀夫の「偉大な姉妹」という短編にもそのことは書かれている)しかし欧米ではおそらく二十年代、三十年代のころから、その考えに変化があらわれたのだろう。歯に衣着せずものを言う、ラヴィニアというオールド・ミスは髭を、それこそ毛嫌いしている。二十年代といえばアメリカではフラッパーが登場し、ヴィクトリア朝の堅苦しい道徳観念から人々が解放されつつあった時代だが、髭に対する美的感覚も変化していたわけである。

Monday, November 19, 2018

文学という慰め

大学時代、わたしはある種の知的・精神的混乱に陥り、欝になったことがある。すべてが灰色に染まり、なぜ生きているのかわからないような状態、ゾンビが心を持っているとしたら、あのようなものだろうという感じの状態になってしまった。病院の精神科というところにもいったが、役には立たなかった。

そこでわたしを救ってくれたのは、なんと丸谷才一のエッセイ集だった。彼はそれを雑文と称していたと思う。しかし雑な書き方どころか、出だしから終わりまで考え抜かれた見事な構成で、しかもエスプリもきいている。知的でいて、しかも遊び心があふれているのだ。わたしはその本を本屋で手に取り、一ページを読んだだけで、これこそ自分が必要としているものだと思った。実際、丸谷を読むことで精神的混乱は収まり、さらにそこからわたしの知的な活動が本格的にはじまったのである。丸谷の文章の書き方を徹底的に研究し、自分の文章の模範とした。

高校時代にも気持ちが落ち込んだことがあった。なにに悩んでいたのかは、もう覚えていないが、そのときわたしを奮い立たせてくれたのは中野好夫が訳した「デイヴィッド・コパフィールド」だった。あれを読んでわたしは一気に気分が高揚し、将来、自分もこんな本が訳せる翻訳家になろうと思った。

ガーディアン紙に Just how helpful is reading for depression という記事を見つけて読んだが、読みながら上に書いたようなことを思いだした。本を抗鬱剤のように使うというわけではないが、しかしまったくの偶然から本が人に希望を与えることはあるだろう。わたしはそれで二回助けられたし、その他にも数え切れないほど本からいろいろな刺激を受けてきた。もしも悩みごとを抱えているなら、一度大きな本屋に行っていろいろな小説をちらちらと眺めてみてはどうだろう。悩みごとを解決してはくれないまでも、それに立ち向かう勇気を与える本に出会うかもしれない。文学というのはたいてい悩んでいる人間について書かれたものなのだから。

Sunday, November 18, 2018

世界最強タッグ決定リーグ戦開始

ちょっと遅くなったが十一月十三日、後楽園で開かれた全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ四試合について書いておこう。

わたしは全日本プロレスのホームページに出ているわずかな情報を見て、いろいろと想像を膨らませているファンなので、実際の試合は見ていない。しかし試合結果を見るだけでも、この日の興業の楽しさが伝わってくる。

まずタッグ・リーグの始まる日ということで、参加全選手がリングにあがって観客に顔見せをしたようだが、その際、なにが原因なのかわからないけれども、乱闘が起きたようだ。わたしは選手が怪我をするような無用な暴力は嫌いだが、すぐに収束するような、こうした争いごとは悪くない。なぜかお祭りの雰囲気を高めるからである。お祭りの非日常性は、暴力や秩序の転覆と密接につながりを持っている。

さて、実際の試合、四試合について思ったことを書いていこう。

野村・青柳組はパロウ・オディンソン組に敗北。四分十秒で片づけられてしまった。恐るべき外国人チームである。野村・青柳組はこんなふうに外のチームとたくさん勝負すれば、次のステップに登ることができると思う。

ゼウス・ボディガー組は大森・征矢組に敗北。大森・征矢組が勝つか負けるかは征矢の活躍いかんにかかっていると思う。彼がどれだけ大森をアシストできるか、どれだけ試合のペースを自分たちに引き寄せるかが鍵になる。逆に言えば、征矢の動きが封じられたら勝ち目はなくなる。

秋山・関本組は真霜・KAI 組に勝った。秋山と関本はお互いに戦いのスタイルを知っているし、息を合わせてやっていくだけの器量も持っている。しかし真霜とKAI はどうなのだろう。ふたりのリズムが合っているかどうか、一度じっくり試合を見てみたいものだ。

諏訪魔・石川組は宮原・ヨシタツ組に勝った。宮原が出る試合はどれも長い。この試合も二十四分十三秒で決着がついた。しかし試合が長くても抜群のスタミナで宮原は戦えるが、ヨシタツはどうなのだろう。やや短めの試合時間で決着するよう、組み立てを工夫したほうが宮原・ヨシタツ組には勝機があるのではないか。

Friday, November 16, 2018

三冠ヘビー級選手権試合

十月二十一日、横浜で行われた三冠ヘビー級選手権試合を YouTube で見た。試合後、両者ともしばらく立つことができないくらい壮絶な試合だった。また、ゼウス選手も宮原選手も、ともにエキサイトしすぎて、レフェリーが間に割って入る場面も何度かあった。ファンは死力を尽くした試合を見たいと思うけれども、選手に怪我はして欲しくない。プロレスを見るときはいつも複雑な気持ちになる。

宮原選手の勝因はわからないが、ただ彼の膝や足の攻撃は蜂のようにすばやくて鋭く、有効だったと思う。ゼウス選手は上体の力を誇示する技を繰り出したが、大きなダメージを与えはするものの、早さがなかった。彼はジャンプ力があるのだから、足を使った攻撃もできるのではないか。いや、そんな多彩な攻撃力を持ったら、ゼウスにかなうレスラーがはたしているかどうか。

宮原選手は全日本の営業活動も人一倍やっているし、後輩の育成にも力を尽くしている。今は袂を分かって別ユニットに属しているが、そんなジェイク・リー選手にも温かい声援を送っている。彼は全日本の新しい力を引っ張る大きな力であり、よくここまで成長してくれたと、わたしは感謝したいくらいである。

Tuesday, November 13, 2018

全日本プロレス、ホームページの更新

タイトルに書いた通り、全日本プロレスのホームページがちょっとだけ新しくなった。ページの左右両脇には所属選手の写真が出るようにできているのだが、それも新しくなった。青柳選手や野村選手はずいぶん身体が大きくなったのに、昔の写真がずっと使われていたので、変えてもいいのじゃないかとは常々思っていた。今回の更新でその点はすっきりした。

選手一覧も大きく様変わりした。所属選手だけでなく、全日本に頻繁に登場する他団体やフリーの選手の紹介も載せることになったのである。ジョー・ドーリング選手や佐藤光留選手は所属ではないが、全日本に対する貢献度は大なので少なくとも写真くらいは載せなければいけない。

笑ってしまったのは参戦選手の中に「ブラックめんそーれ」が混じっていること。

しかし「ブラックめんそーれ」選手がここに載っているなら、「ブラック・タイガーVII」選手もここにいなければならない。あんなに全日本プロレスによく出ていて、(本当かどうかはわからないが)全日本入りを望んでいる選手もいないだろう。もっとも載っていないことで彼はお得意の「陰謀」論を振り廻すことができるかもしれないけど。

Sunday, November 11, 2018

「狙った獣」 Beast in View

言わずとしれたマーガレット・ミラーの傑作(1956年の作)。最近 Vanish in an Instant がプシュキン・ヴァーティゴ社から復刊されたので、なんとなくミラーがまた読みたくなった。

この作品は確か日本語の翻訳も出ていたから知っている人も多いと思う。非常に精神分析的な味わいがある。地口や言い間違いがどれも意味深で、犯人は二重人格である。フロイトが紹介する逸話や、症例談を読んでいるような気になる。

物語は金持ちの若い女性ヘレン・クラヴォにかかってきた一本の電話からはじまる。相手はイブリン・メリックという名を名乗るが、ヘレンはその名前に聞き覚えがない。すると相手は次第にヘレンに薄気味悪いことをいいはじめるのだ。「あなたの顔が水晶玉に映っているわ。とても明るく、くっきり見える。でもなにかが変。ああ、わかった。あなたは事故に遭ったのよ。身体がばらばらになっている。額はぱっくり裂けている。口からは血が出ている。どこもかしこも血まみれだわ……」

危険を感じたヘレンは母親の知り合いのブローカー、ブラックシアという男にこの電話の相手を探してくれと頼む。

ブラックシアはすぐにこの女がヘレンの学校友達で、ヘレンの兄と結婚し、すぐさま別れた女性であることを知る。はじめて電話を受けて彼女を思い出せなかったヘレンは、イブリン・メリックの記憶を抑圧していたのである。

さらにイブリン・メリックは二重人格者であることがわかる。善良なイブリンと、悪意に充ちたイブリンの二人がいるのだ。後者は気に入らない人々に電話をし、不安を植えつけたり家庭生活を破壊しようとする。それだけではない。邪悪なイブリンはついに殺人を犯し、ヘレンを誘拐する。ブラックシアはヘレンを助けようと、イブリンを探すのだが……最後にはじつにあざやかなひねりが待っている。

マーガレット・ミラーは、メアリ・ロバーツ・ラインハートやエリザベス・サンケイ・ホールディングなどと並んで心理的なスリラーを書くのがうまい。本作はその中でも最高作といっていいだろう。正直、今回読み返して文章に甘さがあるように思えたが、多重人格の不気味さは非常によく出ている。また全編に漂う閉ざされた感覚、外部に開かれていない、この閉鎖感はなにに由来するのだろうと思った。今までは精神分析的な側面に興味を惹かれていたが、今回は作品が書かれた社会的な背景にも関心が向かった。残念ながら彼女の伝記は出ていないようだが、彼女の夫ロス・マクドナルドについては誰かが伝記を出していたはずだ。調べて読んで見ようと思っている。

Friday, November 9, 2018

Fadepage

ネット上でパブリック・ドメインの本を探そうとするなら、まず Gutenberg を調べるGutenberg は蔵書数、テキストのクオリティーともに、世界一の電子図書館である。

ただし Gutenberg は国ごとに著作権法が違うため、Gutenberg Canada とか Gutenberg Australia とかに別れている。わたしはどういう「新刊」が出たが、ほぼ毎日見て廻っている。

ほかにも Wikisource、Manybooks と電子書籍を発行しているいろいろなサイトがある。そのなかでもやや知名度は低いが、注目すべきサイトが Fadepage だ。

おそらくここは Gutenberg Canada の関係者が発足させたのだろう。Fadepage から出た本が、ほとんど同時に Gutenberg Canada からも出されることがあるから。それに著者の死後五十年間を著作権による保護期間と見なしているから。

組織の詳しいことは知らないが、ここの蔵書はすばらしい。たとえばオーウェルが1938年に出した「カタロニア讃歌」があり、オーストラリアのミステリ作家アーサー・アップフィールドの作品があり、ドロシー・リチャードソンが書いたモダニズム文学の大長編 Pilgrimage が全巻読める。(Pilgrimage の最初の六巻ぐらいは Gutenberg からも読めるのだが、後半の巻は出版年の関係で Fadepage でないと読めない)シャーリー・ジャックソンのホラーの名作「ヒル・ハウスの亡霊」もあるし、ちょっと珍しいところではジャン・ヴァルティンの「夜を越えて」Out of the Night も手に入る。(ヴァルティンは嘘つきのように見なされているが、この作品はめちゃくちゃ面白い。訳してみたいのだが、でも歴史の参考書も大量に読まなければならないと思うと二の足を踏む)

とにかく宝箱みたいなサイトだ。暇なときに丁寧に蔵書を調べると、思わぬ発見をする。チャールズ・ウィリアムズ(哲学的な怪奇小説を書いた男)がドラマも書いていたことは、わたしはこのサイトを通してはじめて知ったし、マニング・コールズの愉快なスパイ小説に出会ったのもこのサイトのおかげである。

秋の夜長に読む本を探すなら、まずはこのサイトを訪れるべきである。

Wednesday, November 7, 2018

ドン・デリーロ

ガーディアン紙に Don DeLillo on Trump's America: 'I'm not sure the country is recoverable' というタイトルの記事が出ていた。ドン・デリーロが現代のアメリカ、とりわけトランプ大統領以後のアメリカがどうなるかをテーマにした小説を書いていること、戯曲を書いたときの経験談、映画のこと、八十一歳を過ぎてもまだ書きつづける理由など、いろいろなことを話している。

その中でおやっと思ったのは、彼が白黒映画の大ファンだと告白している部分だ。彼は最近ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでパヴェウ・パヴリコフスキ監督の「冷戦」という映画を見たらしい。「とてもよかった。白黒映画で見事な出来だった。わたしは白黒映画の大ファンなんだ。奇妙なことだが、この前『人類の子供たち』を見直してがっかりしたんだ。白黒映画だと思っていたんでね。力強い作品ではあるんだが、白黒映画だったらもっと力強さが増しただろう」

これを読んでまず思ったのは、「冷戦」をなんとしても見なくては、ということだった。以前にも書いたが、わたしも白黒映画のファンなのである。映画は白黒からカラーに移ったとき、貴重な何かを失った。そう感じるひとりだ。

さらにデリーロが「人類の子供たち」も白黒映画だと思い込んでいた、というところも興味深い。「冷戦」はそれこそ冷戦期の物語、カラー映画が始まる前の時期の物語だろうから、白黒で撮影されるのは時代を感じさせていいのかもしれない。しかし「人類の子供たち」はSFであり、未来を描いている。それでもデリーロは白黒映画のほうがよかったと言っているのだ。

これは単に白黒映画の可能性といった問題だけでは片付かない。作品が、それ自身、別様の表現をされたおのれの姿を想起させるという現象。このことは今までにもときどき不思議に感じていた問題だが、これからは意識して考えるようにしたい。旧字/新字の問題がいつの間にか白黒映画/カラー映画の問題と関連し、さらにベンヤミンの翻訳論みたいな問題とつながっていることが見えてきた。面白い。

Monday, November 5, 2018

奴隷国家

とあるサイトのツイート欄を見ていたら「外国人技能実習生は現代の奴隷制」とコメントしている人がいた。

ちょっと待て。

安倍政権は当初から日本を奴隷の国にするつもりで政策を進めてきたではないか。つまり、大企業にとってもっとも使い勝手のよい労働者の国にしようとしてきたではないか。憲法改正により国民から権利を奪い、労働条件をさらに過酷なものにしようとしているではないか。奴隷なのは外国人技能実習生だけではない。

日本人よりも賃金の低い外国人実習生が大量に流入してきたら、日本人の賃金も必然的に下がる。そのことは日刊ゲンダイも報じていた。「外国人技能実習生は現代の奴隷制」というのは事実だが、奴隷であるのはわれわれも同じである。

Saturday, November 3, 2018

「悪夢」 Nightmare

リン・ブロックが1932年にディテクティヴ・クラブから出した本。

はっきり言って読むのがつらい本だった。物語にドラマチックな起伏がない。緩急もなければ、強弱もない。ひたすら数名の人々の心理や日常が細かく列挙されていくだけだ。読むほうとしては大量に提示される情報の、どこに注目すればいいのかがわからない。

おそらくこれは作者が意図的に選んだ書き方なのだろう。彼はサイモン・ウォリーがさまざまな悲劇に見舞われ、ついに殺人を決意し、それを実行する過程をひたすら心理と生活の細かな描写によって描こうとした。好意的に見ればこれは従来の犯罪小説、センセーション・ノベルに対するアンチテーゼである。センセーション・ノベルは偶然を多用する、不自然なまでにドラマチックな物語だ。リン・ブロックはそのドラマ性を否定した書き方を試みたのである。いや、ドラマ性どころか物語性まで否定したような書き方で、その退屈さ加減はどこかフランスのヌーボー・ロマンを彷彿とさせるようなところすらある。

物語は売れない劇作家サイモン・ウォリーとその妻を中心に展開する。サイモンは幸運にも駆け出しの劇作家として二作ほどヒットを飛ばすのだが、戦争から帰り結婚してからは、やることなすことすべてうまく行かない。転々と引っ越しを重ね、ようやく落ち着いて執筆に専念できる環境ができたかと思うと、隣人とけんかをし、さんざん嫌がらせを受けて、また引っ越しせざるを得なくなる。そして手に刺さったとげが原因となって、引っ越しした先で妻は死んでしまう。

サイモンはもともとすこし精神不安定なのだが、妻の死をきっかけに、けんかをした昔の隣人に復讐しようと決意する。彼らのせいで引っ越しなどしなければ、妻は怪我をすることもなかったし、死ぬこともなかったと考えたのだ。彼は隣人の家族や女中を一人ずつ殺害していく。

犯罪小説として決して出来はよくないが、しかしリン・ブロックがどういう意図でこのような書き方を選択したのかは興味がある。この作品はたんなる失敗作ではない。従来の小説形式への反発、あるいは新しい叙述形式への模索から書かれたことは明白だからだ。

Thursday, November 1, 2018

新字体と旧字体

中国人の友人が、自分は中国で今使われている字体よりも、台湾で使われている旧字体のほうが好きだ、といっていた。旧字体のほうが美的感覚に優れているというのである。

わたしが本を読むとき、もともと旧字体で書かれたものは、できるだけ新字体に直していない本を選んで読む。たとえば三島由紀夫なども漢字は旧字体を用いているが、あれが新字体に直されているとなんともおかしな印象を与えることになる。

三島由紀夫には独特の美学があって、それは措辞だけでなく、漢字の選択にも及んでいる。彼が考えるところの精神性をあらわすために、俗な表記をできるだけ避けているのだが、彼の文章を新字体を使って表記し直すと、新字体のわかりやすさが、彼が排除しようとしていた要素をふたたび字面の次元に持ち込んでしまうのだ。

昨日、わたしは白黒映画とカラー映画の違いについて考えたいと言った。白黒映画にあった緊張感が、カラー映画の中では失われてしまった。それはなぜなのか、久しぶりに考えて見たいと思ったのである。そして考えているうちに、似たような経験を別の分野でしていることに思い当たった。それが今話した新字体と旧字体の差である。

新字体に表記を変更された作品を読むことによって、わたしは旧字体で書かれた作品からなにかが失われたことに気がついた。ちょうどカラー映画を見ることによって、白黒映画の緊張感に気づいたように。メディアは違うものの(映像と文字)、いずれも視覚的要素が作品の本質と深く結びついていることを示していると思う。この二つを折り合わせながらもうすこし考えを深めることができそだ。

半世紀ぶりに日の目を見た映画

BBCのニュースで五十年前の短編映画が再発見されたと報じられた。

二十分ほどの短い作品で、ポーの「告げ口心臓」を映像化したものらしい。

製作会社であるアデルフィ・フィルムはこの短編映画を永年探し続けてきたが見つからず、ほとんどあきらめかけていたところ、16ミリ映画の蒐集家であるジェフ・ウエルズさんが、自分が所有している旨を連絡してきたらしい。

スタンリー・ベイカーの演技が素晴らしいらしいので、是非みたいものだ。British Film Institute のウエッブサイトではハロウィンに合わせて二週間ほどこのフィルムを無料公開しているようだが、もっぱら英国向けのようで、日本からアクセスしても見ることができない。残念だ。

白黒映画はカラーに較べて面白くないという人が多いが、そういう人はほとんど白黒映画を見ていない。わたしはアメリカにいたとき、大学の図書館にある映画を二年ほどかけて、時代順に丁寧に見ていったことがある。そのとき衝撃だったのは、白黒映画が築きあげ、持っていた画面の緊張感が、カラー映画になった途端に乱れ、失われたということである。それは強烈な印象となってわたしの中に残っているが、しかしなぜそう感じたのかは、いまだによくわからない。

1953年に制作された映画が再発見されたという今回のニュースを聞いて、わたしもふと昔の不思議な印象を思い出した。映画のほうは見られないけれど、ハロウィンのあいだは、わたしが抱いた印象の謎について考えて見たいと思う。

英語読解のヒント(111)

111. never so / ever so (1) 基本表現と解説 He looked never so healthy. 「彼がそのように健康そうに見えたことは今までになかった」 He looked ever so healthy. 「彼はじつに健康そうに見...