リン・ブロックが1932年にディテクティヴ・クラブから出した本。
はっきり言って読むのがつらい本だった。物語にドラマチックな起伏がない。緩急もなければ、強弱もない。ひたすら数名の人々の心理や日常が細かく列挙されていくだけだ。読むほうとしては大量に提示される情報の、どこに注目すればいいのかがわからない。
おそらくこれは作者が意図的に選んだ書き方なのだろう。彼はサイモン・ウォリーがさまざまな悲劇に見舞われ、ついに殺人を決意し、それを実行する過程をひたすら心理と生活の細かな描写によって描こうとした。好意的に見ればこれは従来の犯罪小説、センセーション・ノベルに対するアンチテーゼである。センセーション・ノベルは偶然を多用する、不自然なまでにドラマチックな物語だ。リン・ブロックはそのドラマ性を否定した書き方を試みたのである。いや、ドラマ性どころか物語性まで否定したような書き方で、その退屈さ加減はどこかフランスのヌーボー・ロマンを彷彿とさせるようなところすらある。
物語は売れない劇作家サイモン・ウォリーとその妻を中心に展開する。サイモンは幸運にも駆け出しの劇作家として二作ほどヒットを飛ばすのだが、戦争から帰り結婚してからは、やることなすことすべてうまく行かない。転々と引っ越しを重ね、ようやく落ち着いて執筆に専念できる環境ができたかと思うと、隣人とけんかをし、さんざん嫌がらせを受けて、また引っ越しせざるを得なくなる。そして手に刺さったとげが原因となって、引っ越しした先で妻は死んでしまう。
サイモンはもともとすこし精神不安定なのだが、妻の死をきっかけに、けんかをした昔の隣人に復讐しようと決意する。彼らのせいで引っ越しなどしなければ、妻は怪我をすることもなかったし、死ぬこともなかったと考えたのだ。彼は隣人の家族や女中を一人ずつ殺害していく。
犯罪小説として決して出来はよくないが、しかしリン・ブロックがどういう意図でこのような書き方を選択したのかは興味がある。この作品はたんなる失敗作ではない。従来の小説形式への反発、あるいは新しい叙述形式への模索から書かれたことは明白だからだ。
Saturday, November 3, 2018
関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)
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