ウィリアム・スローン(William Sloane)は1906年に生まれ、74年に亡くなるまで編集者として活躍したが、実は30年代に二冊だけ小説も書いている。これが非常に出来のよい作品で、なぜ日本語の訳が出ていないのか、不思議なくらいである。
一冊は37年に出た「夜を歩いて」(To Walk the Night)。これは一人の男が奇怪な炎に包まれて死亡し、べつの男がピストル自殺するまでの出来事を、両方の事件の目撃者である男が語るという物語である。静けさに充ち、かつまた、不気味さをたたえた、秀逸な小説だ。いったい二人の男はなぜ死んだのか。語り手は、最初の事件から次の事件まで、起きたことを順々に語っていく。それが起きた当時はすこしも気にならなかった細部に着目しながら。なぜ細部に着目するのかというと、そこにこそ二人の男の死の謎を解く鍵が隠されているからだ。
しかし語り手は謎を解明することはない。いや、たしかに物語の最後で、読者はなんとなく何が起きていたのかを知ることになる。しかしそれはあくまで「なんとなく」であり、完全な解明からはほど遠いのだ。謎は常にわれわれの理解のほんの少し先で震えている。わたしは作者の繊細で巧妙な書き方に舌を巻いた。
この小説はミステリのようでミステリではなく、SFのようでSFではなく、ホラーのようでホラーではない。では普通の文学作品かというと、そうともいえない。ジャンル分けの難しい作品だ。しかし十九世紀末から二十世紀初頭にかけて流行したスピリチュアリズムから大きな影響を受けていることは間違いないだろう。わたしはこの作品にかすかだが今で言うニューウエーブの予兆のようなものを感じる。
もう一作は「流れる水の縁」(The Edge of Running Water)という作品だ。これにはスピリチュアリズムの影響がはっきり出ている。ある科学者が死んだ妻と交信しようと奇妙な機械を作り、研究の助手として霊媒を雇うという話なのだから。
だが科学者が作ったのは、どうやら宇宙の裂け目、あるいはこの世の裂け目を生成する装置であるらしい。科学者はそれによってあの世の妻と交信が可能だと信じているようだけれど。
物語の前半部分はゆっくりと進行し、後半、お手伝いの女が死んでからは、推理小説仕立てになって、一気にこの奇怪な装置の謎を追究しはじめる。そして当然予想される壊滅的なクライマックスへと突入するのだ。
「夜を歩いて」も「流れる水の縁」も文学とはいえないだろう。明らかにジャンル小説だ。しかしその静謐さ、繊細さは奇妙に文学に近づいている。すぐれたエンターテイメントとして大いに推奨したい。
Friday, July 27, 2018
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
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