この本はまだ読んでいない。ただ数日前に作者がガーディアン紙に新作「マッチ箱の少女」に関する一文を寄稿していて、それが面白かったのでさっそく注文した。寄稿された記事のタイトルは「自閉症に関する彼の研究は思いやりに溢れていた――ハンス・アスペルガーはいかにしてナチスに協力したか」(こちら)である。内容は難しくはない。要するにハンス・アスペルガーという自閉症の研究者は、思いやりにあふれた独創的な思想家であり、同時に熱烈なナチスの支持者でもあった。一見すると対極的なこの二つの人間性がなぜ一人の人間のなかに矛盾なく共存しえたのか。それがアリス・ジョリーが「マッチ箱の少女」という小説を書く動機になったというのである。
これはオルダス・ハクスリーの「灰色の枢機卿」という名作と同じテーマである。灰色の枢機卿とは、十七世紀に活躍したジョゼフ神父のことである。彼はナチスのような残忍な軍事政策を執り行いつつも、同時に神秘主義の研究においては極めてすぐれた精神性を示した。ハクスリーはやはりこの矛盾する傾向の共存に当惑した。一方で残忍であり、他方で慈悲深い人間などどうして存在しうるのか。
これとまったく同じ問題をもっと通俗的な形で追求したのが、韓国の映画監督キム・ギドクである。セクハラ問題を引き起こした監督を論じるのはちょっと気が引けるが、しかし作品自体は重要な問題をはらんでいる。とくに「悪い男」とか「空き家」は注目すべきである。「悪い男」においては上流家庭に育った美しい娘がおしのギャングに誘拐されたのち娼婦として働かされ、人生をいわばめちゃくちゃにされるわけだが、そんな彼女がこのおしのギャングに愛を感じるという話だ。それはまったくありえないような、奇形の愛と映る。また「空き家」においてはDVを繰り返す夫のもとで泣き暮らす女が、映画の最後では彼を熱烈に愛するようになるという物語である。夫が反省してその粗暴な振る舞いを変えたわけではない。まったく変わっていないのだが、しかし女は夫に心からの愛を示すのである。キム・ギドクはこういう極端な状況に常に惹かれる。彼は韓国の名優に映画出演の話をもちかけたが断られたらしい。その理由を俳優はこう説明した。「わたしは心から愛する娘を殺すような役はできない」。どういう映画だったのかはよく知らないが、おそらくこの作品の父親は娘への愛と殺意を共存させる人物だったのだろう。そして俳優はそんな怪物的な存在を演じることに道徳的な嫌悪を抱いたのだろう。それは不自然であり、人間性への冒涜であり、ありえない歪んだ人間の表現である、と。
しかしわたしはこういうことはありうると思うし、実際にハンス・アスペルガーやジョゼフ神父はそういう存在だった。わたしがラカンの精神分析に強く惹かれるのは彼がそういう人間の可能性についても考察しているからである。
ともかく、わたしが興味を持っている問題系を扱っているということで、アリス・ジョリーの「マッチ箱の少女」は非常に楽しみな小説である。