Thursday, November 1, 2018

新字体と旧字体

中国人の友人が、自分は中国で今使われている字体よりも、台湾で使われている旧字体のほうが好きだ、といっていた。旧字体のほうが美的感覚に優れているというのである。

わたしが本を読むとき、もともと旧字体で書かれたものは、できるだけ新字体に直していない本を選んで読む。たとえば三島由紀夫なども漢字は旧字体を用いているが、あれが新字体に直されているとなんともおかしな印象を与えることになる。

三島由紀夫には独特の美学があって、それは措辞だけでなく、漢字の選択にも及んでいる。彼が考えるところの精神性をあらわすために、俗な表記をできるだけ避けているのだが、彼の文章を新字体を使って表記し直すと、新字体のわかりやすさが、彼が排除しようとしていた要素をふたたび字面の次元に持ち込んでしまうのだ。

昨日、わたしは白黒映画とカラー映画の違いについて考えたいと言った。白黒映画にあった緊張感が、カラー映画の中では失われてしまった。それはなぜなのか、久しぶりに考えて見たいと思ったのである。そして考えているうちに、似たような経験を別の分野でしていることに思い当たった。それが今話した新字体と旧字体の差である。

新字体に表記を変更された作品を読むことによって、わたしは旧字体で書かれた作品からなにかが失われたことに気がついた。ちょうどカラー映画を見ることによって、白黒映画の緊張感に気づいたように。メディアは違うものの(映像と文字)、いずれも視覚的要素が作品の本質と深く結びついていることを示していると思う。この二つを折り合わせながらもうすこし考えを深めることができそだ。

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...