政治について語るのはわたしの柄じゃないけれど、それでも近年ますます印象を強くしているあることがらがある。
世紀の変わり目をわたしは中国で過ごしていたのだが、あるとき仲のいい若い大学の講師からそのころの日本に対する印象を聞かしてもらった。するとその当時の日本は中国から見て「腐っても鯛」という状態なのだという。つまりもう没落ははじまているが、それでもまだ過去の威光を帯びている、というわけだ。
じつのところ九十年代から外国暮らしをしていたわたしの目にもおなじように映っていた。わたしは日本語を教えてなりわいを立てていたが、どこへいっても日本の人気は下降する一方であり、ビジネスをしようとする学生はみな中国語を選択するようになっていた。日本の経済力、文化力は凋落の一途で、それは日本の外で、とりわけ外国の経済力や文化力にじかに接して暮らしていると非常によくわかるのだ。
それと反比例してあらわれたのが日本賛美派である。日本のオタク文化はクールだなどと政府の肝いりで世界に宣伝をはじめたときは笑止を越えて唖然としてしまった。この手の日本賛美がでるということは、そしてそんなポンコツ政策が日本人のあいだで支持されるということは、「現実」がそれとは逆の方向に進んでいることの確実な証左である。なにかが賛美されたり非難されるとき、その賛美や非難の対象はすでに社会的に力を失ってしまっていることがおおいものだ。たとえば武士道なんてものは武士道が滅びたときにあらわれたイデオロギーだし、人類学とかポストコロニアリズムとか政治学を勉強した人なら、類似の例をいやというほど知っている。
最近十年間、日本という鯛は完全に腐りきって腐臭を発していたと思う。その象徴が潰瘍性大腸炎を患っている安倍なる男だろう。彼は自分の弱さを隠して強がりをいうだけの男だったが、それはまさに日本の姿を正確にあらわしていた。自分の衰退した姿を直視せず、いまだに発展の途上にあるかのような幻想の中に生きようとする日本は、安倍を本能的に支持した。彼らは野党を徹底的にしりぞけるが、それも当然で、野党が政権を取れば、もっとも見たくない日本の衰退ぶりが白日の下にさらされる危険性があるからだ。彼らは死ぬまで幻想(イデオロギー)を維持したいのだ。
公文書管理の問題、あるいは統計の取り方の恣意的な変更、安倍政治の問題はすべて幻想の維持のために行われてきたものだ。これらを安倍個人の問題と考えてはならない。なぜなら幻想の維持は多くの日本人にとってほとんど死活問題となっているからである。