Saturday, August 11, 2018

「赤いアリバイ」 Crimson Alibi

オクテイヴァス・ロイ・コーエン(1891-1959)が1919年に発表した作品。ロイ・コーエンは文章家でもないし、ミステリ文学史上になにか画期をもたらしたわけでもない。しかしその物語は面白く、わたしはたいてい一気読みさせられる。

本編はとりわけわたしの興味を惹いた。本格ものにおいては探偵は通常、すべての人を疑う。誰の話(物語)も眉に唾をして聞く。彼はそのような形で事件の外部に立つのである。

ところが「赤いアリバイ」の探偵キャロルは、もっとも疑わしい男の話を物語の冒頭で信じてしまう。しかも、彼は警察の委託を受け、殺人事件の捜査を指揮するのだが、彼のもとで働く刑事たちに、この「もっとも疑わしい男」のことを、最後まで話そうとしないのである。こんな変な探偵があるものだろうか。

キャロルは、自分は超越的な探偵ではない。人間的に間違いも犯すのだ、という。コーエンは万能の人間みたいな探偵像を嫌って、わざと反対の探偵を創造したのかもしれない。しかしこれは危険な試みである。

物語の筋を思い切り簡単に説明すると、ある晩、他人に意地悪ばかりする嫌われ者の金持ちが自宅で殺される。その晩、彼に恨みを持つ男が四人、殺人が起きた時刻に金持ちの屋敷の内部をうろついていたことがわかる。キャロルはこのA、B、C、Dの四人の容疑者の中から犯人を探さなければならない。

しかしさっきもいったように、キャロルはそのうちのA、もっとも疑わしい男は犯人ではないと決めつけてしまう。Aは事件の直後にキャロルのもとを訪れ、おれは確かに金持ちを殺しにあの屋敷に行ったが、あいつはすでに死んでいた、自分が殺したのなら捕まってもいいが、冤罪で捕まるのはいやだ、と言うのだ。キャロルはAの心理の動きの自然さに、彼の話を信じてしまう。

ところが、B、C、Dと容疑者を調べていくうちに、全員に立派なアリバイがあることに気づく。行き詰まったキャロルは、そこではじめてAを疑いはじめるのである。

これは危険な捜査の仕方だ。たとえばDは左利きだったからアリバイが成立したけれど、もしも右利きだったら、彼は冤罪で牢屋にぶちこまれるところだった。しかしDのアリバイが成立し、キャロルはようやくAに対する信頼が間違いであったことを知る。そしてここではじめて探偵は、探偵としての位置、外部に立つのである。

間違いを通して内部から外部へ移行する、というこの過程がわたしには面白かった。通常、探偵というのはコンビで構成される。ホームズにワトソン、ポアロにヘイスティングというように。そして間違った解釈を下すのは相方のほうなのである。それを聞いて探偵は謎めいた微笑を浮かべ、気のきいた一言を言ったりする。この過ちというのが推理小説を構成する上で非常に大切である。外部の人間と、内部の人間とでは、ものの見方が違う。探偵の探偵らしさを表現しようとすれば、作者は常に両者の差異を際立たせなければならない。それは一方の間違った解釈、他方の真相を見抜いた解釈という形で表現される。

キャロルは本編において一人で二役を演じている。彼はワトソンでもあり、ホームズでもあるのだ。つまりワトソンとして間違え、ホームズとして真相を解明する。しかしこれは本当に危険な探偵のあり方である。Dが助かったのはまったくの偶然のおかげと言ってもいいのだから。

ちなみに「暮れ方」という別の作品においても、キャロルは無条件に容疑者の一人の無実を信じている。



関口存男「新ドイツ語大講座 下」(2)

§2. Der ? ach, dem traut ja keiner. あいつか?へん、あんなやつに誰が信用するものか。 trauen : 信用する。 ja : (文の勢いを強めるための助辞)  前項のは名詞に冠したものでしたが、こんどは名詞を省いたもの...