わたしはなるべく身体を動かすようにしている。筋トレもするし、週末に図書館に行くときは往復で七キロくらい歩く。
七キロ歩くのにはだいたい二時間くらいかかる。交通機関を使えば時間は短縮されるけれども、わたしにとってはこの二時間は貴重な思考のための時間である。なにかにはっと気がつくのは、たいてい歩いているときだ。
思考は頭でするものと考えている人がいるが、じつは違う。たとえばわたしはひらがなの「な」が思い出せなくなったことがある。そのとき、わたしの身体でもっともそれを思い出そうとしたのは手である。さまざまな動きをこころみて、「な」を思い出そうとした。字を忘れたとき、たいていの人はわたしと同じように手を動かすに違いない。字を覚えているのは手の筋肉ではないか。
考えているうちに部屋の中を行ったり来たりするということもよくある。日本の家は狭いから貧乏揺すりですませなければならないかもしれない。なぜ足が動くのだろう。わたしは足が考えているからだと思う。身体じゅうが信号を発し、忘れたもの、未知のものを言語化しようとするのだ。
トイレに本を持ち込んで読むと難解な哲学書でも不意に意味がわかってきたりする。あれは大腸が考えているからではないか。すくなくとも大腸の動きが脳によい刺激・信号を出しているのだと思う。
さらに外を歩いていると、意外な刺激が外からやってきて、それが思考に思わぬきっかけを与えたりもする。
静かな部屋の中でじっと考えていてもなかなか考えはまとまらない。そこで外に出るわけだが、思考に没頭しているようでも、車の音やら建設中のマンションの風景やら、通り過ぎる人の会話やら風やら、いろいろな夾雑物が思考のはしばしに突き刺さってくる。そうした信号がまとまらなかった思考にまとまりを与えることもあるのだろう。わたしは看板を描いた英語の一節がよくわからず考え込み、外に散歩に出たのだが、おそらく信号機の光を見たせいだろう、忽然と意味が判明したことがある。また、別の英文の中で用いられた gold という単語の意味がわからず、歩きながら考えていたのだが、ある店屋の前ではっとそれが golf の誤植であることに気がついた。なぜあの店屋の前でそれに気づいたのだろうと考えたら、その店屋の少し手前の道からゴルフ場のネットが見えていた。それが無意識のうちにわたしの思考を導いたのだろう。
歩行は思考を助けてくれる。いま出歩くのを控えなければならないというのはちょっと辛い。
Sunday, April 26, 2020
AIの翻訳力についての雑感
中国の AI の技術力がマーケットに波乱を起こしているようだが、たまたまエセル・リナ・ホワイトの Fear Stalks the Village を再読していたわたしが、本文のある箇所に疑問を感じ、Copilot と 今話題の DeepSeek に質問してみたところ、面白い結果が...
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昨年アマゾンから出版したチャールズ・ペリー作「溺れゆく若い男の肖像」とロバート・レスリー・ベレム作「ブルーマーダー」の販売を停止します。理由は著作権保護期間に対するわたしの勘違いで、いずれの作品もまだ日本ではパブリックドメイン入りをしていませんでした。自分の迂闊さを反省し、読者の...
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久しぶりにプロレスの話を書く。 四月二十八日に行われたチャンピオン・カーニバルで大谷選手がケガをした。肩の骨の骨折と聞いている。ビデオを見る限り、大谷選手がリングのエプロンからリング下の相手に一廻転して体当たりをくわせようとしたようである。そのときの落ち方が悪く、堅い床に肩をぶつ...
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ジョン・ラッセル・ファーンが1957年に書いたミステリ。おそらくファーンが書いたミステリのなかでももっとも出来のよい一作ではないか。 テリーという映写技師が借金に困り、とうとう自分が勤める映画館の金庫から金を盗むことになる。もともとこの映画館には泥棒がよく入っていたので、偽装する...