Thursday, January 16, 2020

女流作家

わたしが訳出した本は男性作家の手になるものが多い。べつに女流作家が嫌いとか、あまり読まないからというわけではない。逆にスリラーなどは女流作家の作品のほうが好きである。では、なぜ訳さないかというと、文体に自信がないからだ。

たとえばステラ・ベンソンの「お一人荘」という奇想小説をわたしは高く評価している。あれはすばらしい。しかしあのチャーミングな魅力をわたしに表現できるかというと、とてもじゃないが、無理だろう。あの感覚はわたしの理屈っぽい感性の対極にあるものだ。

E. M. デラフィールドが書いた「田舎日記」もすばらしい作品で、イギリスでは今でも人気のある作品なのだが、あれも翻訳はちょっとできない。女性特有の饒舌体の文章が、どうしてもわたしには書けないのだ。

ジェイン・オースチンの再来みたいな作家ドロシー・フィップルも好きなのだが、社交界の噂話とか、突き刺さるような女性の視線の交錯は、読む分には楽しいけれど、訳出するのはわたしの任ではない。

最近河野多恵子を読み返したのだが、話が進むにつれて、独特の世界が展開しだし(つまり、彼女は独特の世界を展開させる、独特の文体を持っている)、この独特さや感覚はわたしにはないものだな、と強く感じさせられた。

もちろん男の作家にだって、これは訳せないという人がいる。しかし女性の場合はその数が圧倒的に多い。

というわけでわたしの翻訳に女性作家の作品が少ないのは、自分の文章力の問題なのである。

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)

§4.  Solch ein kleines Kind weiß von gar nichts. そんな 小さな子供は何も知らない。  一般的に「さような」という際には solch- を用います(英語の such )が、その用法には二三の場合が区別されます。まず題文...