わたしが訳出した本は男性作家の手になるものが多い。べつに女流作家が嫌いとか、あまり読まないからというわけではない。逆にスリラーなどは女流作家の作品のほうが好きである。では、なぜ訳さないかというと、文体に自信がないからだ。
たとえばステラ・ベンソンの「お一人荘」という奇想小説をわたしは高く評価している。あれはすばらしい。しかしあのチャーミングな魅力をわたしに表現できるかというと、とてもじゃないが、無理だろう。あの感覚はわたしの理屈っぽい感性の対極にあるものだ。
E. M. デラフィールドが書いた「田舎日記」もすばらしい作品で、イギリスでは今でも人気のある作品なのだが、あれも翻訳はちょっとできない。女性特有の饒舌体の文章が、どうしてもわたしには書けないのだ。
ジェイン・オースチンの再来みたいな作家ドロシー・フィップルも好きなのだが、社交界の噂話とか、突き刺さるような女性の視線の交錯は、読む分には楽しいけれど、訳出するのはわたしの任ではない。
最近河野多恵子を読み返したのだが、話が進むにつれて、独特の世界が展開しだし(つまり、彼女は独特の世界を展開させる、独特の文体を持っている)、この独特さや感覚はわたしにはないものだな、と強く感じさせられた。
もちろん男の作家にだって、これは訳せないという人がいる。しかし女性の場合はその数が圧倒的に多い。
というわけでわたしの翻訳に女性作家の作品が少ないのは、自分の文章力の問題なのである。
Thursday, January 16, 2020
関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)
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