過去にノスタルジーを抱き、過去に未来の模範を求めるのは、智的怠惰の最悪の例のひとつだろう。あたらしい状況を見通すにはあたらしい知性が必要になる。あたらしい知性を身につけるには、過去の思想を学び、たえず先端的な思考を追っていかなければならない。そのような努力を放棄したのがノスタルジーにふける人々である。
ジェイコブ・リース-モッグの新著「ヴィクトリアンズ」を出した。ヴィクトリア朝を代表すると作者が考える人物十二名に関して印象を書きつづったものだが、この本の骨子はこういうことだ。ヴィクトリア朝は明確な道徳を持ち、エネルギッシュで、愛国心に満ちた時代だった。ところが現代はどうだろう、政治的公正(politically correct)の前に道徳は相対化してしまっているではないか。
リース-モッグは保守党の国会議員だが、彼もノスタルジーにふけっている。そしてノスタルジーにふける人々に共通の欠点が見られる。それは過去の美化であり、現在への盲目である。たとえば彼はパーマストン首相をヴィクトリア朝を代表する人物の一人として選んでいるが、パーマストンは「明確な道徳」を持っている人物だったのか。彼はその性癖のゆえに Lord Cupid とまで言われたのに。しかし作者はそういう側面には目を向けようとしないのだ。また、彼は憲法学者アルバート・ダイシーを扱った章で「国民投票を持つ政治体制は長期的安定をもたらす傾向がある」とか書いているけれど、おいおい、ブレクスイットはどうなんだと誰もが突っ込みを入れたくなるだろう。
この本の書評を探してみたら、ガーディアン紙にわたしとまったく同じ感想を表明した人がいた。この書評者はヴィクトリアンについて知りたいなら、A. N. ウィルソンやサイモン・ヘフナー、デヴィッド・キャナダイン、ピーター・アクロイドを読むべきだと最後に付け足している。わたしはサイモン・ヘフナーとデヴィッド・キャナダインは知らないが、他の二人はじつにいい文章でヴィクトリア朝について書いている。わたしはいま、A. N. ウィルソンの「ヴィクトリアンの後に」を読んでいるが、これも興味深い本である。