Friday, October 2, 2020

死の欲動

 ジジェクは死の欲動についてこんなことを言っている。

フロイトの死の欲動は自己破壊とか、生の緊張がない、無機質的状態に戻ろうとする欲求とはなんの関係もない。死の欲動は死とはまったく逆のものである。つまり「死ねない」という永遠の生命、罪の意識と苦痛にまみれて果てしない反復的循環の中に閉じ込められるという恐ろしい運命を意味するのだ。フロイトの死の欲動はそれゆえ、死とはまったく逆のものを指示する。死の欲動とは精神分析において不死が登場する契機であり、生物学的生と死、新世代が誕生し没落していくという循環を越えたところに持続する「不死」への欲求である。精神分析の究極の教えは、人間の生は「単なる生」ではないということだ。人間は単に生きているのではない。人間は過剰な生を享受しようとする奇怪な欲動に取り憑かれている。通常なるものから飛び出し、通常なるものを転覆させるある種の余剰と、情熱的に結ばれているのである。

   (The Parallax View)

ジジェクが唱えるこの死の欲動は十九世紀末の神秘思想を思い起こさせる。

わたしは以前コレーリの「悪魔の悲しみ」という本を訳した。コレーリは当時の神秘思想に深く影響を受けていて、この本にもそれがあらわれている。たとえば、不道徳な快楽にふけりまくったある女性は、死んでしまえばすべてが消えてなくなる、不道徳にふけった罪悪感も肉体の滅亡とともに存在しなくなると考える。ところが実際に自殺をこころみると、なんと肉体は死んでも魂だけはあらたな空間に引き出され、そこで永遠に生きつづけなければならないことに気づくのだ。つまり罪悪感は決してなくならない。実際、いつまでも消えない罪悪感に苦しむ人々の顔がいくつもその新しい空間には浮かんでいる。彼女はそれを知って愕然としてしまう。まさしく彼女は「罪の意識と苦痛にまみれて果てしない反復的循環の中に閉じ込められるという恐ろしい運命」に直面する。

わたしはこの本を訳出したとき、後書きに信念の外在性について書いた。これは本書の主題に直結する大きな問題だと今でも考えているが、コレーリが死の欲動についても考えていたという点を組み合わせれば、さらに深くこの小説を読み解くことができると思う。

本書の登場人物たちは神への信仰を否定している。神は死んだ、だから思いきり物質主義的に生きてやろうと考える。ところがよくよく観察すると、じつは彼らは神を信仰している「他者」を絶対的に必要としているのだ。彼らの代わりに信仰する他者がいて、はじめて彼らは不道徳な生き方ができる。これが信念の外在性の問題である。

不道徳な生き方をする者は信念を他者に預けることで、不道徳がもたらす罪悪感や苦痛をのがれる。そして彼らの死とともに罪悪感も苦痛もない無になると考えている。コレーリはこれを否定しているわけだ。まず人間は生から死へ移るわけではない。生から「死ねない」という領域に移るのだ。そしてこの領域においては信念を他者に預けることができない。罪悪感と苦痛は永遠に反復される。コレーリはこうして登場人物たちの「逃げ道」をふさいでしまうのである。

彼らの生は、一つのもの(信仰)の排除によって成立する生だ。ところがその幻想を支える基本的条件(すべてを無に帰すべき死)は、実際は一つの排除も行えない、逆の意味で obscene な領域への通り道になっている。この二つの領域の論理性と意味は深く考えるべきだと思う。

コレーリの作品は典型的なメロドラマだが、そこには奇妙な発想の鋭さがある。とりわけイギリスの女流ミステリ作家は、こうした側面を持っている。さらに、こういうメロドラマ的な発想がフロイトの議論の中で反復されているというのは面白い現象だ。ジジェクがメロドラマを好むという事実もこれとなんらかの関係があるのだろう。




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