Friday, September 21, 2018

古井由吉の「影」

小説というのは物語の形で認識を語る。認識とは、まあ、哲学と言ってもいい。小説が鋭さを持つとき、それは認識に切り込む鋭さを持っているということだ。

哲学的な言辞を弄している部分に小説の「哲学」があると思ってはいけない。具体的で日常的な事実について語っているように見えても、実はそれが認識を語るひとつの装置として機能している場合がある。古井由吉の「影」が冒頭で提示する夜の景色はまさにそれだ。

語り手はマンションかアパートに住んでいるらしい。夜中にベランダに出ると、彼が住む建物と同型の建物が遊園地をはさんで真向かいに建っている。語り手は夜更かしするタイプらしく、時刻はもうだいぶ遅い。しかし向かいの建物を見ると電気がぽつぽつとともっている。「スタンドの光のひろがりの中心に、じっと動かない影がある。その影がときどき机から躰を起して寛いでいるのが、手に取るようにわかる」それを見て語り手は「いい加減にして寝ろ」とつぶやく。

二段落にわたってこれだけのことが書かれているのだが、すでにこの作品が語ろうとしている認識の、重要な要素が提示されている。

まず、語り手の「わたし」がいて、「わたし」はもう一人の「わたし」を見ている。スタンドの光の中心で、じっと動かないでいる影とは、まさに古井由吉を思わせる語り手本人の姿にほかならない。わたしと、もう一人のわたし。すなわち「影」。

さらにわたしと影のあいだには遊園地がある。わたしと、もう一人のわたしの間には、ある距離が存在するのだ。

この三つの要素、つまり「わたし、影、距離」がこの作品の認識を説明するキーワードである。

このことは三段落目において、語り手が父親そっくりの咳の仕方をするようになったと語る部分でも確認される。父と子、それは明らかに「わたしと影」の関係と重なり合う。

「わたし」と「影」は分身関係であり、両者はまさしく同一でありながら、同時に同一ではない。そこには不可解な「距離」が存在するのだ。この奇妙なパラドクスを「影」という短編はさまざまな例を通じて探っていく。

哲学における同一性と非同一性の議論や精神分析に興味のある人であれば、上記の三つの要素を通してこの作品が語ろうとしている認識を興味深く読むことができるはずだ。

とりわけこの三者関係の中から「死」が析出されていく過程はスリリングであり、また不気味でもある。

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