Saturday, September 15, 2018

「わが名はジョナサン・スクリブナー」 I Am Jonathan Scrivener

クロード・ホートンが1930年に出した名作である。わたしは数回この小説を読み返している。

主人公で語り手でもあるジェイムズ・レクサムはもう四十に近いというから若いとはいえないだろう。戦争を経験し、人生をある程度学んだ彼は、ふとしたきっかけからジョナサン・スクリブナーという紳士の秘書になる。

秘書になるといっても、彼は雇い主にあったことが一度もない。スクリブナーはずっと海外に出ていて、仕事の指示は手紙でなされるだけなのだ。

レクサムは雇い主の家に住み込み、そこで雇い主の知り合いたちと出会う。レクサムは雇い主がどんな人物なのか知りたいと思うのだが、知り合いたちから得た情報はてんでばらばら、一貫した人物像がまるで浮かんでこない。

これはどういうことだろう。レクサムはジョナサン・スクリブナーという謎に取り憑かれ、断片的な手がかりからあたかも推理小説のようにその人物像を再構築していく。

はじめて読んだときはとにかく驚いた。これだけの作品がなぜ人に知られず埋もれているのだろう、と。Goodreads.com の評価を見ればわかるが、この作品に接した人は一様にみなそう思うようだ。

わたしが面白いと思ったのは、この作品が集合論を想起させる点である。どういうことか。たとえば1,2,3,4……という自然数の集合を考える。要素はさまざまな性質を持つ個々の数値で、これが無限に存在する。この個々の自然数の要素の中にすべての自然数という集合それ自体が混入することを考えて欲しい。これが「ジョナサン・スクリブナー」という物語だ。

これはマルクスが商品世界における貨幣の存在について次のようにいったことと関連してくるだろう。

形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

集合それ自体が要素の中に混在するなど、奇妙なことだと思われるかもしれないが、マルクスによれば、われわれの社会の根底を作る貨幣は、まさにそのような「奇妙な」存在である。

この集合論をもっと文学に近づけよう。これは「ジョナサン・スクリブナー」の中でも言及されていることだが、シェイクスピアは「万の心を持つ myriad-minded」と言われている。彼はあらゆる階層、あらゆるタイプの人間を生き生きと描き、その想像力の幅の広さではおそらく古今東西で唯一の劇作家である。彼のケースを集合論にあてはめるとこんな具合になる。シェイクスピアの心は集合で、彼が描き出した人物たちはその要素、という具合に。そして「ジョナサン・スクリブナー」が興味深いのは、まさしくすべての要素を含む集合それ自体が、要素にまじって闊歩している点である。

しかもこのような存在は不可能な存在でもある。人間の可能性のすべてを所有しているということは、絶対的に善良な心を持ち、かつまた同時に絶対的に悪の心を持つことでもある。このような矛盾をかかえる一者ははたして存在するのか。いるとすればそれは謎であり神秘である。「ジョナサン・スクリブナー」はその謎と神秘を見事に感じさせてくれる、とてつもない作品なのだ。

英語読解のヒント(145)

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