ラカンがいう主体の概念をわかりやすく説明するとこうなる。
われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。
では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。
それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。
これがラカンのいう「主体」である。
われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。
この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。
しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。
逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。
Wednesday, January 2, 2019
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
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