Wednesday, January 2, 2019

主体という概念

ラカンがいう主体の概念をわかりやすく説明するとこうなる。

われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。

では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。

それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。

これがラカンのいう「主体」である。

われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。

この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。

しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。

逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)

§4.  Solch ein kleines Kind weiß von gar nichts. そんな 小さな子供は何も知らない。  一般的に「さような」という際には solch- を用います(英語の such )が、その用法には二三の場合が区別されます。まず題文...