ラカンがいう主体の概念をわかりやすく説明するとこうなる。
われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。
では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。
それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。
これがラカンのいう「主体」である。
われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。
この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。
しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。
逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。
Wednesday, January 2, 2019
独逸語大講座(20)
Als die Sonne aufging, wachten die drei Schläfer auf. Sofort sahen sie, wie 1 schön die Gestalt war. Jeder von ihnen verliebte sich in 2 d...
-
19世紀の世紀末にあらわれた魅力的な小説の一つに「エティドルパ」がある。これは神秘学とSFを混ぜ合わせたような作品、あるいは日本で言う「伝奇小説」的な味わいを持つ、一風変わった作品である。この手の本が好きな人なら読書に没頭してしまうだろう。國枝史郎のような白熱した想像力が物語を支...
-
昨年アマゾンから出版したチャールズ・ペリー作「溺れゆく若い男の肖像」とロバート・レスリー・ベレム作「ブルーマーダー」の販売を停止します。理由は著作権保護期間に対するわたしの勘違いで、いずれの作品もまだ日本ではパブリックドメイン入りをしていませんでした。自分の迂闊さを反省し、読者の...
-
パット・フランクのこの小説は日本ではなぜか翻訳が出ていないが、デイヴィッド・プリングルがSF小説百選のリストにも入れた名作である。 まず時代は1959年。場所はフロリダのフォート・リポーズという小さな町だ。主な登場人物は、フォート・リポーズに住むランディ・ブラグという三十代の男と...