スラヴォイ・ジジェクが「真っ昼間に、泥棒の如く」という新しい本を出したので読んでみた。その序文のところにこんなことが書いてある。
アラン・バデゥーという哲学者は、ソクラテス以後、哲学の役割は若者を堕落させ、「異化」させることであると挑発的な意見を述べている。要するに若者を支配的なイデオロギー、政治体制に順応させるのではなく、それに対して根本的な疑問を抱かせ、自律的に考える能力を与えることが、哲学の役割だというのである。
その一方で、いわゆる御用学者という連中もいる。上記のような哲学者によって乱された秩序を回復しようとする人々である。
ジジェクは、ユルゲン・ハバーマスとペーター・スローターダイクはこの二つのタイプをあらわす最新の例と言えるのではないか、として論を進めていく。
わたしは体制順応的な思想家は読んでもまるで面白くない。そこには発見などなにもないし、思考につながる手がかりもない。いや、あることはあるのだ。すなわち、そうした思想家がもうすこし明敏であれば見えていたかもしれないものが、巧みに糊塗されていく過程を見て、その盲目ぶりのなかにイデオロギーの働きを認めることができるからである。しかしそうした脱構築的な読み方を別にすれば、体制順応的な思想家はじつに退屈きわまりない。
わたしにとって魅力的な思想家は、危険な思想家である。全体や安定が必然的に不可能であることを示してくれる思想家である。その虚妄や虚偽をあばいてくれる思想家である。そうした思想家の著作を読むと、わたしは脳が刺激され、考えることをはじめる。体制順応的な思想家が教えることは、「今、存在は満ち足りている。まどろみなさい」ということでしかない。まどろんでいては思考はできない。
しかし今の世の中を見ると(日本だけの話ではない)、まどろみたい人がほとんどのようだ。体制側の人々も、反体制側の失敗に次ぐ失敗に絶望した人々も、あるいは現在とは異なる全体や安定を夢見ながら、反体制の側で必死に戦っている人々も、結局のところ、あるまどろみの中に沈みこみたがっている。
そんななかでジジェクは猛烈に思考しようとしている数少ない人々のひとりである。彼は右からも左からも嫌われている。右のまどろみも左のまどろみも批判するからだ。まわりはみんな敵ばかりという状況で、彼は発言をつづけている。いや、彼はまわりが敵ばかりのほうが居心地がいいのだろう。彼には勝海舟のようなトリックスター的資質があるから。
日本では彼の著作は翻訳されていても、彼の思想が左派にとりあげられることはないようだ。たんなる勉強不足と言うより、左派が持つ夢を彼が木っ端微塵に砕いてしまうことを感じ取っているから、彼を敬遠しているのだろう。しかしわたしは今読むに値するテキストを書く、貴重な人間のひとりだと思っている。
Friday, January 25, 2019
H. W. ローデン「首つりは一度だけ」
ローデン(1895-1963)は食品会社の重役をしていた人で、四冊ほどミステリを書いている。この人を知っているのはよほどのマニアなのだろう。わたしは名前は知っていたが、作品が手に入らなかった。それがこのたび「首つりは一度だけ」と「死ぬには忙しすぎて」の二作を手に入れた。さっそ...

-
久しぶりにプロレスの話を書く。 四月二十八日に行われたチャンピオン・カーニバルで大谷選手がケガをした。肩の骨の骨折と聞いている。ビデオを見る限り、大谷選手がリングのエプロンからリング下の相手に一廻転して体当たりをくわせようとしたようである。そのときの落ち方が悪く、堅い床に肩をぶつ...
-
今朝、プロジェクト・グーテンバーグのサイトを見たら、トマス・ボイドの「麦畑を抜けて」(Through the Wheat)が電子書籍化されていた。これは戦争文学の、あまり知られざる傑作である。 今年からアメリカでは1923年出版の書籍がパブリックドメイン入りしたので、それを受けて...
-
「ミセス・バルフェイムは殺人の決心をした」という一文で本作ははじまる。 ミセス・バルフェイムは当時で云う「新しい女」の一人である。家に閉じこもる古いタイプの女性ではなく、男性顔負けの知的な会話もすれば、地域の社交をリードしもする。 彼女の良人デイブは考え方がやや古い政治家...