Monday, January 21, 2019

資本主義と作家

三文文士という言葉があるけれど、作家はたいてい儲からないものである。一部の流行作家はメディアの脚光を浴びて華やかに見えるけれども、多くの人々はほかの仕事をしながら、こつこつと言葉を紡いでいる。

昨年、アンナ・バーンズという聞き慣れない名前の作家が「ミルクマン」という小説でブッカー賞を取った。そのとき彼女は地元のフード・バンクや労働年金省の助力があって、はじめて本がかけたのだと、謝辞を述べた。今では押しも押されもしない大御所の作家であるJ.K.ローリングやサラ・ウオータースだって人気が出るまで相当な経済的苦労を味わっていたのである。

作家というのはもともと経済性から逸脱した存在であるらしい。

イギリスには「ユニバーサル・クレジット」という福祉制度がある。簡単にいうと低所得者のために給付金を与える制度だ。ただつい最近改正されたの給付金制度を貧乏な作家が利用しようとするといくつか問題が生じる。ガーディアン紙の記事 Universal credit could silence working-class writers, MPs told に出ていた内容をかいつまんで紹介する。

新しいルールによると、作家は「利益を出そうとビジネスをしている」ことを示さなければならない。しかし作家協会の会長ニコラ・ソロモンは、作家の収入は月によって増減が激しく、「利益を出そうとビジネスをしている」ことを示すことが難しいという。

さらに新しいルールによると、この給付金を受けるには最低賃金以上の収入があることが条件になっているが、作品の売り上げ収入が少ない場合は、この条件をクリアすることができないこともあるという。

それなら作家業につくなという意見が出て来そうだが、それにはソロモン氏はこう反論する。「作家業が特権であるなら、特権者のみが書くことができるということだ。それは書く人間、書かれる対象、作品を読む人々を、きわめて限られたものにする。つまるところこういう問題に行き着く。アンナ・バーンズのような労働階級の女には書くことができないのか、という問題だ」

わたしはこれを読みながらちょっと考えさせられた。(この記事には新しい制度の、書店側からの反応も書いてあるけれど、そこは割愛しよう)

資本主義の進展は、功利主義的思考のさらなる拡大という形であらわれてきたが、これからもそれは過酷なまでに昂進していくだろう。昔は功利的でないものも社会には(まだ)存在が認められていたが、今は、そしてこれからは、それが認められない世の中になっていくだろう。たとえば「創造性」という概念は、かつては、功利主義とはまるで異なる意味を持っていたが、Oli Mould によると今それは新自由主義的な意味合いを持つようになったという。利益の出ないものは創造的ではないのである。つまり現在「創造的であれ」という呼びかけは暗に「功利主義的であれ」ということを意味している。

三島由紀夫は「絹の明察」の中で資本主義のイデオロギーが変貌するさまを描いたが、あきらかに今はあの作品に描かれた資本主義とは異なる、はるかに過酷でシニカルな資本主義が存在している。

問題なのは資本主義だけではなく、読者の側にもある。読者反応論が想定するような醇乎たる読者というのは存在しない。今の読者は資本主義的価値観に染まった読者である。たとえばまったく売れていない作家、今はもう忘れ去られた過去の作家の本を、積極的に読もうとする人などいるだろうか。読者が本を買うのは、J.K.ローリングのファンタジーがそうであったように、ほかの大勢の人が買って読んでいるから、自分も読もうとするのである。しかし本当の読書家、文章に対して鍛えられた感覚を持っている人は、そんな本の読み方をしない。彼らは最新流行の本など、その流行が過ぎ去った頃に、読んだり読まなかったりするものだ。

文章にたいして鍛えられた感覚を持っている人は実に数が少ない。文章にたいする感覚はそう簡単に身に着くものではないから、仕方がない。そこで広範囲の読書へと人々をうながす、重要な役割を果たすのが文芸批評家であるはずなのだが……少なくとも現在の日本には存在しないし、世界的にも数は減ってきている。(昔は日本にも江藤淳や吉本隆明や柄谷行人など高いレベルで文学を論じる人々がいたのだが)

なんだか暗い気分になってきた。文句をつけるばかりで、まとまりはつきそうにないからこれで止める。

独逸語大講座(20)

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