「悪魔の悲しみ」には信の転移が三つ描かれている。第一に主人公ジェフリーとその妻の関係にそれが見られる。
ジェフリーは貧乏作家だったのだが、悪魔に魂を売ったおかげで、一気にイギリス一の金持ちになる。そしてイギリスでいちばん美しい女を妻にする。しかし彼は家の外で悪友どもと遊び廻る。アルコール漬けになったほぼ全裸の踊り子たちをそばにはべらしたり、まあ、酒池肉林といったありさま。それが当時は「世間を知る」ということだったのだ。もちろん彼は神さまなんて信じていない。
ところが彼は、妻はセンチメンタルで、信仰深くあってほしいと願うのだ。これは妙な話だ。自分が神を信じていないなら、他人が神を信じていなくてもいいではないか。しかし彼は自分の妻が神を信じず、精神的に堕落していることを知り、絶望のあまり自殺を考えるのである。
なぜ彼は神を信じる「他人」を必要とするのか。彼は他人を通して神を信じているのである。ヴィクトリア朝時代、妻は「家庭の天使」と呼ばれていたけれど、彼女が家で祈っている限り、夫が外で悪徳の限りをつくしても、彼は信仰を失ったことにはならないのだ。「泣き女」が会葬者のかわりに泣くように、妻は夫の代わりに祈る。夫の信は、実は、妻の中に転移されている。
第二の信の転移はジェフリーとジェフリーの書いた小説の関係に見られる。ジェフリーは貧乏時代に書き、どの出版社からも出版を断られた小説を、金持ちになってから自費で刊行する。彼は校正のために何度もその作品を読み返すのだが、自分が書いたにもかかわらず、まるで自分と無縁の作品のような気がする。彼は金を持つようになってから放埒で自堕落な生活を送っているし、神も信じていない。しかし小説はじつに理想主義的な内容なのだ。彼は貧乏時代にその内容を信じ、真剣になって書きつけたのだが、今それは彼には受け入れがたいものとなった。端的に言えば、彼は信仰心を持っていないが、本はそれを持っている。創造者は無神論者だが、被創造物は神を信じている。それが彼には耐えがたいのだ。
第三の転移は悪魔と人間の関係の中に見出される。悪魔はもともとは天使であって、罪を犯したがために天国を追放された。その際、彼は神によってある条件を与えられた。「おまえは人間を誘惑する。しかしもしもおまえの誘惑を拒否する人間が一人あらわれたら、おまえは一歩天国に近づくことができる」悪魔は神に逆らったから神を信じていない。しかし彼が誘惑に失敗し、一歩天に近づくとき、彼は恍惚となるのである。彼は神への信仰を捨てたように見えるが、本当は神を信じている。しかしその信仰を人間に転嫁しているのだ。彼は「祈りを捧げることのできない者のために祈ってくれ」と人間にいう。彼自身は信仰を持たないが、信仰を持つ他者を必要としているのだ。
創造主(神・作家)は信じていない。しかし被創造物(人間・作品)が代わりに信じている、という関係は非常に興味深い。信仰の意味を一新するような観点ではないだろうか。(ちなみにギルバート・キース・チェスタートンも同じようなことを考えている)すなわち神こそが無神論者なのである。そしてこの対立物の一致によって示されるのは、神という概念が内破しているという事態である。神は全能、一部の隙もなく充溢した存在ではない。逆に彼は自分が創り出した世界のでたらめさ加減にあきれ、途方に暮れているのである。彼こそ、みずからの全能を信じていない。
Saturday, December 15, 2018
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...

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