今年の九月の初め頃だろうか、フィリップ・プルマンがガーディアン紙に、理性では解消しきれない人間の非合理的信念(迷信)について語っていた。
よくある議論なのだが、しかしそれを読みながら、迷信はフロイドの失策行為とよく似ていると思った。
失策行為、たとえば言い間違いは、疲労や肉体的錯誤によって起きた、意図しない行為として無視される。しかしフロイドはそれを無意識と関連づけた。これは画期的な考え方だった。
魔術的なものに対する信念も、誤った態度、教育のない人間の考えとして理性は退ける。しかしフロイドが失策行為を無意識と関連づけ、システマチックな精神分析の手法を考えだしたように、迷信もあらたな人間理解の糸口になりはしないだろうか。
プルマンはガーディアン紙に寄稿した文章の中でニールス・ボーアの面白い逸話を紹介している。
ボーアは実験室のドアに馬蹄をぶらさげていた。馬蹄は彼が育ったあたりでは魔除けとして使われていた。彼は知人に「迷信を信じているのか」と問われ、こう応えた。「信じちゃいないが、このお守りは信じていない人にも効果があるそうだからね」
この逸話をひいてプルマンは「魔除けとか、天使の名を刻んだ指輪とか、魔方陣の描かれたまじない札とか、そういうものを擁護することは不可能だし、同時に理性的な観点から攻撃することも馬鹿げている。理性はそういうものを理解するには間違った道具だ。迷信を理性的に理解しようとすることは、木でできたものを磁石で吸い付けようとするようなものだ」
これはニールス・ボーアの逸話に対するもっとも一般的な解釈の仕方である。
ここに同じ逸話をこよなく愛する哲学者がいて、その名をスラヴォイ・ジジェクという。彼はその著作や講演の中で何度この話を引用しただろうか。
彼の解釈の仕方はプルマンとちょっと違う。今までのどんな解釈とも違うかもしれない。しかしわたしには決定的に重要な解釈に思える。
ジジェクはこう考える。なるほどボーアは迷信を信じていない。しかし馬蹄が「彼の代わりに」信じているのだ。
いったいどういうことだろうか。
ジジェクが挙げている別の例を見るとわかりやすかもしれない。チベットには祈祷用の回し車というものがある。手に持てる小さなもので、車輪にはお祈りの文句が書きこまれている。それを機械的に一回回転させると、人はお祈りを一回唱えたことになるのだ。なんなら風車をつけてひとりでに回るようにしてもいい。車輪は人の代わりに延々お祈りを唱えてくれる。車輪が回っているあいだ、人は宗教的なことを考えなくてもいい。車輪が彼の代わりに信仰してくれているのだから。
このような信のあり方は未開の文明だけではなく、現代にも見つかる。わたしが十九世紀から二十世紀初頭にかけてもっともポピュラーな作家だったマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」を翻訳したのは、この作品が「信の転移」ともいうべき状況を見事にとらえているからだった。
(つづく)
Thursday, December 13, 2018
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
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