マリー・コレーリは「悪魔の悲しみ」において見事な現状分析をして見せたと思う。物質主義の発達や啓蒙により、人は一見すると神という迷妄から解き放たれたように見えるが、じつは信の外部化というより奇怪な形で信を継続させていることを描いたのだから。彼女は独自の神話を構成することで創造主と創造物との奇怪な信の関係にまで切り込んでいる。それは芸術家とその創造物の関係にも適用できる、すばらしい洞察である。さらに信の外在化は免罪符のように昔からあるものではあるけれど、十九世紀後半においては資本主義の急激な発達により、いっそう顕著なものとなった。すなわち物の価値や感情までが金によって置き換わる(外在化される)時代が本格的にはじまったのである。そのこともマリー・コレーリはちゃんと見ている。
ところが彼女は転移された信を、単にあやまった信とみなす。そして信が疎外されているなら、それを自分の中に取り戻せ、というのだ。「悪魔の悲しみ」においてすべての中心にあるもの、ジェフリーにとってはあこがれであり、リマネスにとっては「祈る」存在であり、自殺するジェフリーの妻にとっては心の平安を示すもの、それはメイヴィス・クレアである。彼女がなぜ中心なのかというと、彼女はひとりだけ信を内面に保持しているからである。ほかの人々は自らの内部に信を持てない。だからニセ者なのだ。しかし彼女だけは自らと信念が一致している。それゆえホンモノなのだ。だが、ここに彼女の認識の弱さがある。
なにかを信じる、だれかに信を置く(put one's fatih in someone)というのは基本的に己の貴重な一部を外在化し、他者に預けるということではないのか。すなわち、「わたし」の権能の及ばない、それどころか「わたし」の権能を否定する他者にそれを預けるということではないのか。考えて見れば、「わたし」の権能がある程度及ぶ他者があったとして、そのような他者に信を置くのは、本当の意味で信を置くことにはならない。まさに自分と敵対するもの、自分を否定するもの、まったく理解不能なものに信を置くことが、本当の意味での「信」だろう。信はその構造上、もともと疎外されているものではないのか。メイヴィス・クレアは作品を書くことでおのれの信を外在化させている。外在化された彼女の信は、彼女のものであると同時に、彼女のものではない。それは他者(作品)のものであって、本来彼女のものであるはずの彼女の信さえも他者性をおびるのだ。だからこそそれは彼女が憎む批評家たちによって誤解され、また、商品として交換価値をまとうことにもなる。自己と他者の(あるいは同一性と非同一性の)不可解な関係をコレーリはしっかり見定めているが、しかしそこからさらに議論を発展させるのではなく、ナイーブで凡俗な信の通念に逆戻りしてしまっている。
Monday, December 17, 2018
エドワード・アタイヤ「残酷な火」
エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...

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