Monday, May 13, 2019

著作権法という矛盾

以前、自分の翻訳作品が海賊版として流れたらどうするか、というようなことを書いたが、ここでは著作権という概念それ自体がある種の矛盾を含むということについて書こう。

子供が大きくなる過程で、大人の「真似をする」ように、文化を身につけるというのは他者を摸倣すること、他者からなにかを借りることである。日本に文学が生まれたのは、中国が漢字を用いるという事実を知って衝撃を受け、それを輸入し、みずからも用いたからである。短歌には本歌取りという技法があるが、あれは他の歌の力を借りることで己の世界を広げようとするものである。文化を広げるという動きそのものが技法という形に結晶化したのだ。小説の分野で言えば、画期的な小説というのはみんなパロディなのだと言っていい。それはそれまで主流を占めていたある型を摸倣しながら、しかしあらたな形を作り出した作品なのである。「ドンキホーテ」だって「ユリシーズ」だって「ボバリー夫人」だってそうだ。シェイクスピアの戯曲ももととなる逸話が存在している。彼はそれを反覆しながら、そこに新たな認識をもたらしたのだ。文学だけじゃなく、文化全体が真似をすること、借りることを基盤に発達してきた。

わたしはサブカルチャーにはまったくうといのだが、コミックマーケットがあれほどの賑わいを見せるのは、二次創作がかなり自由に許されているからである。アメリカなどでも二次創作が盛んで、そのなかからはメジャーな出版社からデビューするような人々もでてきている。

ところが「厳密」さを装った法律が作品の権利とやらを囲い込み、あれもだめだ、これもしちゃいかん、と周囲に制限を設けはじめたら文化はしぼんでしまうのだ。作品の権利を保護することによる経済的利益があるだろうと、主張する人もいるが、わたしは全体的に見れば利益は減ると考える。中国が歴史上例を見ない短期間にあそこまで発展したのは、じつのところ著作権がないも同然の国だったからである。科学技術上のアイデアを含めたすべての文化ががんがん行き交うようになると、文化は発展せざるをえない。それを特許などと言うもので囲い込んでいる国はたちまち置き去りにされてしまう。将棋のコンピュータプログラムなどはそのいい例だ。プログラマー個人がノウハウを一人で蓄積していた頃はプログラムの実力は毎年ほんのわずかずつしか上昇しなかった。ところが突出したプログラムがあらわれ、それが誰でも使えるような形で公開されると、プログラムの実力は毎年ホップ、ステップ、ジャンプのように飛躍的に上がっていった。

知の囲い込みは、資本主義内部に於ける矛盾となってあらわれている。囲い込んで権利を主張すると、たしかに幾ばくかの利益が生じるだろう。しかし全体としてみたとき、それは文化の発展と技術の革新を阻害し、損害を生むのである。

独逸語大講座(20)

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