Thursday, July 9, 2020

旧漢字のロマネスク

以前、久生十蘭の「鉄仮面」を読んで、意外とその訳文がよいのに驚いた。「意外と」などというと失礼かも知れないが、黒岩涙香のあとは久生十蘭というくらいジャンル小説の翻訳で立派な足跡を残していると思う。そこで今は近代デジタルライブラリで読める久生の翻訳小説を読んでいる。

近代デジタルライブラリで読めるのはもちろん古い本で、旧漢字、旧かな遣いである。たまたま図書館に久生の全集があったので覗いてみたら、それはすべて新漢字、新かな遣いに改められていた。そこでわたしは読み比べをしてみたのだが……

字面の違いは予想以上に大きな印象の違いとなってあらわれていた。端的に言って、新漢字のすかすかした字面は、旧漢字による原文のロマネスクな印象を無慙なまでにそぎ落としてしまっている。旧漢字は物語の濃密な印象を字面によっても表現しているのだが、新漢字はふわふわ、すかすかしていて、今にもどこかへ飛んで行きそうな感じがし、とても落ち着いて物語空間に浸ることが出来ない。

この印象は谷崎潤一郎の新しい全集が出たときにも感じた。新しい全集では新漢字、新かなが用いられているのだが、谷崎の初期の官能的で濃厚な世界が、新漢字だとどうしても薄れたものになってしまうのは不思議だ。旧漢字に馴染みのない人が多いから、新漢字に置き換えて古い本を出版するのは時代の成り行きだが、しかしそれによって原作にあったなにがしかの要素が消えてしまうことも事実である。

わたしは新漢字、新かなを非難しているのではない。両者のあいだには大きな懸隔があり、単純に一方を他方に置き換えて、内容は全く変わらない、とは主張できないと考えているのである。たとえば塚本邦雄は旧漢字をつかって短歌を書いたが、あれを新漢字に置き換えたら、歌の印象はまるで違ったものになるだろう。

ドイツ語にはフクラトゥールというひげ文字があるが、あれも旧漢字のような独特の雰囲気を漂わせている。第二次大戦ころまではあの複雑な文字がまだまだ使用されていたのだが、とくにゴシック小説やゲーテのような古典を読む場合は、フクラトゥールで印刷されているほうが読んで味わいがある。デザインが単純なアンティカ体は現代小説を読むならともかく、出版されてからずっとフラクトゥールで印刷されてきた作品に関しては、やはりフラクトゥールで印刷された本を読みたいと思う。この印象はわたしだけの印象では無いはずだ。ドイツではフラクトゥールをアンティカ体に置き換えるのははたしてよいのかどうかという論争がずいぶん長く続いていた。

旧漢字の複雑な線の交差とルビという奇怪な補助文字により、文字はなにか呪術的な構造物へと変身する。あの不思議さを文学研究者は説明すべきだと思うのだがどうだろうか。

独逸語大講座(20)

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