Saturday, July 11, 2020

哲学者ゼウス

いつだったか全日本プロレスのゼウスが試合後のインタビューですばらしい冗談をとばした。三対三の戦いで、おなじチームの中島(めんそーれ)が佐藤光留からスリーカウントをとった。中島はコミックなプロレスを目指していて、実力的には全日本でいちばん下かも知れない。それがトップ選手である佐藤からスリーカウントをとったのだから、大金星である。その翌日にはジュニアヘビー級をめぐるトーナメントが行われ、そこで中島と佐藤が再度対峙することになっていた。そんなときにゼウスがこんなコメントを発したのだ。

「今回はたまたま中島が勝ったけどな、次の試合も(つまり翌日のトーナメントの試合でも)たまたま勝つぞ」

強面のゼウスだが、大阪人だけあって「おもろい」ことも言う。しかしこれは「おもろい」だけではなく、考えてみると哲学的に「おもろい」意味を持っている。

「たまたま」起きる事象、つまり偶然が、次の機会にも、その次の機会にも生じるとしよう。それは「必然」になるだろうか。

さいころを転がして一の目がでる確率は六分の一だ。それが一億回転がしても一しかでなかったとしよう。そのとき一の目が出る確率は一となるだろうか。

ならない。世界中の人が二千年掛けてさいころを転がし続け、そのすべてにおいて一しか出なかったとしても、一の出る目は六分の一だ。「たまたま」という事象の性格は変わらない。

しかし無意識においては「たまたま」が必然として生じうる。偶然と必然は対立項ではなくなってしまう。ここにおいては必然的な「たまたま」が発生するのである。

無意識というのは、自分がまったく何も知らない知の領域を指すのではない。知っていることを知らない領域の謂いである。無意識の知に直面しそうになると、なぜか「たまたま」人はそこから目をそらしてしまう。そして結局無意識を知ることはないのである。無意識がその人の顔をのぞきこもうとすると、なぜかその人は「ふと」横を向いたり、はっとなにかを思い出し、後戻りしたりするのだ。そんなふうにして人は無意識を「偶然」にも避け続けるのである。偶然がシステマチックに反復される場所、偶然と必然の区別が判然とはつかない領域が無意識だ。もしも明暗、正邪、有無といった二項対立によって成立する世界がわれわれの通常の世界、存在論的世界だとすれば、それが成立していない世界、前-存在論的世界が無意識の働く領域である。

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...