物語論において時空間が扱われるとき、それはたいていわれわれの世界、つまり三次元世界の常識的時空概念が用いられている。もっと言えばニュートン的な絶対的時空概念である。空間のなかに何が存在しようと空間と時間は絶対的な基準としてその外部にありつづけるという考え方である。わたしにはこれがさっぱりわからない。物語の世界は記号の世界であって、記号による特殊な時空を形成している。それは三次元などという空間とはまったく別物の、いや三次元と比べるなら異様としかいいようがない空間が形づくられるはずである。この異様さに気づいていたのがフロイドで、だからわたしは精神分析を一生懸命勉強するのである。
エレナ・ゴメルも、この物語論の弊害を嘆いている。彼女はSFを書き、最新の量子力学にも通じている珍しい文学研究者で、時空概念が二十世紀以降、劇的な変化を遂げたことを識っている。その変化を文学のなかに見ていこうというのが本書である。
ニュートンが考えたような絶対的時空間、ダーウィンが考えたような偶然性に支配された空間概念、アインシュタインの時間と空間を一体的にとらえた相対性理論、観察者と観察の対象の区別が成立しなくなる量子力学、ブラックホールなど極限的な時空間のありようを考える宇宙論、こうした考え方がリアリズム小説からポストモダン小説にいたるまでのさまざまな作品のなかにどう反映されているのか。
これは読んでいてじつに楽しい本だった。文学の研究書とはいえ、読書好きなら誰にでもわかるように書かれている。(物語論の専門用語がすこし煩わしいかもしれないが)そして古い文学研究を打ち破る爽快感にあふれている。また物語論の最新の成果をおおざっぱに教えてくれる、すぐれた物語論入門書にもなっている。さらに本書では多くの小説が紹介され議論されているが、いずれもゴメルの愛読書なのだろう、珍しい本、あまり知られていない本も含まれているが、どれも思わず興味を惹かれるような紹介・議論になっていて本当に読んでいて楽しかった。とりわけクストファー・プリーストリーの「反転した世界」に関する議論を読んでいるときは、この本を再読したくなった。もちろんプリーストリーが最近物故したという理由もあるのだけれど。
こんなにいい本なのだから、どこかの出版社が日本語に訳したらいいのに。
ただ、この本を読んでいて飽き足らなく思ったのはフロイドやラカンが出て来ないところだ。(フロイドは出て来るが的をはずした議論だと思う)精神分析がすっぽり抜け落ちている。フロイドやラカンこそが、言語によって構成されるトポロジカルな空間の奇怪さを真っ向から考察しているのに。そしてその考察はいまだに充分発展させられていないというのに。
そしてこの欠如は、彼女の議論の皮相さを示してもいる。さまざまな時空概念が、テキストの上っ面と比較されているだけで、一歩踏み込んだテキスト内部への視線が欠けているのだ。
また、これは彼女の研究範囲にないのかもしれないが、ルネサンス期の時空概念がまったく触れられていない。ゴメルは小説を研究対象にしているのだからシェイクスピアなどの詩や戯曲を扱わないのはしょうがないけれど、ルネサンス期のパラドキシカルな詩や戯曲には驚くべき時空概念の表現が見られる。たとえばシェイクスピアの「冬物語」のリオンティーズとポリクシニーズの関係は、量子力学でいうEPRパラドクスを想起させるものである。文学の世界には量子力学が提出する奇妙な考え方を先行的に提出している例が見つかる。
ゴメルがダーウィンに関して、彼が不連続性や偶然性に焦点をあてたと述べている部分では、我が意を得た思いだった。わたしは自分が訳した「オードリー夫人の秘密」の後書きで、主人公が目的論的構えを挫折させる不連続性、偶然性の原理を示していると書いたが、ゴメルの論旨はわたしの議論とぴったり適合する。「オードリー夫人」の後書きを書くときこの本を読んでいればとちょっと残念に思った。(今調べたら、わたしが「オードリー夫人」の翻訳を出したのは2013年、ゴメルの本書が出たのは翌年の2014年だった)