このブログでは日本文学はめったに扱わないけれども、「コンビニ人間」は英訳も出ていて、しかもそれなりに売れたようだ。ガーディアンの書評でも一度大きく取り上げられ、その後もいろいろな記事で何度か言及されている。翻訳文学も英文学の一部と考えるイギリスにおいては、「コンビニ人間」は立派に英文学の一部であると言っていいのではないか。
この作品はある種の「異形の人間」を描いているが、ラカンを学んだ人間には非常に理解しやすい内容になっている。主人公の古倉惠子は子供の時、死んだ小鳥を見て、母親に「これを食べよう」と言う。他の子供たちは「かわいそう」と口々に叫ぶのだが、主人公はなぜ焼き鳥にしていけないのか理解ができない。われわれは生まれてからさまざまな社会規範を学ぶわけだが、主人公はその規範の網の外に位置しているわけだ。社会規範をラカンは象徴界と呼んだが、主人公はそこからずれたところにいる。いや、象徴界とその外部にある現実界の境界線上に立っているというべきだろうか。現実界というのは規範の外の世界、また規範が挫折する領域のことである。古倉惠子はきれいな小鳥の死骸を食べようと言ったとき、社会規範の網を食い破ったのである。
古倉惠子は彼女が住む世界を支配する規範が理解できない。しかしコンビニという空間は、すべてがマニュアル化されていて、それに従っていさえすればよい。なるほど社会と呼ばれるわれわれの空間は、明示的な規範も存在すれば、非明示的な規範もある。それを理解するのは結構むずかしい。たとえば年休の取り方など、規則に示されている取り方を理解しただけではだめなのだ。暗黙の了解というやつが各会社ごとにあって、そちらのほうが重要な「規範」なのである。こういうところは外国人には奇怪なものと見える。古倉惠子は言ってみれば別の世界からこの世界にやってきた異世界人なのである。
精神分析では古倉惠子のような立ち位置をヒステリックの立ち位置と見なす。ヒステリックの典型的な問いは「わたしはなぜあなたがいうような存在なのか」である。わかりやすい例を挙げると、夫に「おまえは主婦だろう。ちゃんと掃除しろ」などと言われ、妻が反論するような場合である。なぜわたしはあなたが主婦と呼ぶ存在でなければならないのか。夫にはある種の考え方、規範があるのだろうが、自分をなぜその規範にあてはめるのか。このとき妻は夫の考える規範から逸れたところに存在している。ヒステリックは象徴界の外から、あるいは象徴界と現実界の境界線上から、象徴界のあり方に異議を唱えているのである。
「コンビニ人間」の後半で古倉惠子は白羽という男と同棲生活をはじめる。白羽も社会に適応できない存在だが、古倉惠子とちがってこちらは精神分析ではパーバートと呼ばれる。変質者とか倒錯者ということだ。ヒステリックと何が違うのかというと、ヒステリックは規範の網の外、あるいは境界線上に位置するが、パーバートは結局のところ規範の内部に存在する。内部において規範から逸れようとする者である。彼らはある意味では進歩的であって、規範から逸脱してみせることで、規範の恣意性を曝露しようとする。しかし彼らは規範から逸れようとはするものの、それは規範への充分な批判とはなりえない。なぜなら規範というのは裏規範を隠し持っており、パーバートのような逸脱をあらかじめ想定しているからである。たとえば軍隊はきわめてヘテロセクシュアルな世界だが、隠微な形でホモセクシュアルな性格を持つことはよく知られている。究極的な選択を迫られればパーバートは規範の側につくだろう。
実際、白羽は古倉惠子に向かって「コンビニで働くのをやめ、会社で働け。そしておれのために金を稼げ」と要求する。典型的な男性中心主義の考えではないか。それに対して古倉が最終的にコンビニ
店員たることを選択する部分は感動的ですらある。彼女は男性中心主義的規範にきっぱりとノーをつきつける。この決然たるノーは何処から来たのか。もちろん彼女の立ち位置、象徴界の限界地点という彼女の立ち位置がそれを可能にしたのだ。この立ち位置は、きれいな小鳥の死骸を食べ、赤ん坊にナイフを突き刺し、暴れる子供の頭をスコップで殴りつけて鎮めるような危険な可能性を秘めている。しかしそこからしかノーの声はあがらない。また、規範がわれわれに押しつけてくる秩序は、暴れる子供の頭を殴りつけるような、危険な暴力をもってしか対抗できないような、これまた恐ろしい力なのだ、とも言えるだろう。
ものを考えるというのは、ものを考えることを可能にする象徴界の限界に身を置くことだとわたしは思っている。作者の村田氏はまさにそのような限界からものを書いている。このような立ち位置を獲得するのはなかなかむずかしいことなのだけれど。