これは高名な作品だから筋を知っている人は多いと思う。一応簡単に紹介すると……
私立探偵リュー・アーチャーはミセス・サミュエル・ローレンスに行方不明になった娘を探してくれと頼まれる。アーチャーは彼女のあとを追って米国西海岸の裏社会、ヤクザやクスリの売人や売笑婦らの世界に足を踏み入れる。すると次々と人が殺され、探偵自身も危険な目に遭う。アーチャーは裏社会にはりめぐされた謀略を見抜き、ヤクザどもを警察の手に引き渡すのだが、その後、もう一度依頼人の家族に目を向ける。なぜならこの事件の本当の闇は、ヤクザなどの裏社会にあるのではなく、この家族のなかにこそひそんでいたからだ。
ロス・マクドナルドは家族の抱える闇に注目する。この闇は必然的に外の社会の闇とつながっているのだが、彼はいつも作品の最後で家族それ自体に舞い戻ってきて、そこにひそむ闇の核心を抉剔する。家族から出発し、社会を放浪し、また家族に戻り、家族内部の闇に直面するという構造は、「エディプス王」をわたしに想起させる。そのせいだろうか、ロス・マクドナルドの作品にはいつも古典的・悲劇的なおもむきがあるように感じられる。もちろん放浪するのが男ではなく女であり、悲劇は高貴な身分の者にではなく、中産階級の一般的な家庭に起きるという大きな違いはあるけれど。
今回再読してもう一つ気がついたのは、アーチャーの人間観である。依頼人のミセス・ローレンスは、人間は善人と悪人に截然と分かたれると考えている。それに対してアーチャーは、人間は必要に応じて善人にも悪人にもなると考える。ミセス・ローレンスの考え方の背後には、神の摂理に支配された、安定した世界観がある。アーチャーにはそれがない。状況次第によって人間はどのようにも変わりうるからである。たとえば娘を心から愛している父親すら、ある種の情況においては娘を殺害することがあると考えている。このような認識はきわめて構造主義的だと思う。ミセス・ローレンスは古い世界観に固執して生きている。その世界観にグリッチが生じ、アーチャーがその修復を依頼されたわけだが、闇の世界を彷徨しながら、彼は古い世界観ではもう生きていけない現実を読者に提示するのだ。それを理解できないミセス・ローレンスの姿は気の毒と言うより、わたしに胸の痛い思いをさせた。