原題は The Cambridge Introduction to Jacques Lacan 。出版されたばかりの本だ。
作者のマガウアンはラカンの理論を用いて資本主義の分析をしたりしている理論家で、YouTube の番組も持っている。動画ではいつも野球帽だかなにかを後ろ前にかぶって登場する気さくな先生である。本書は大学の学部生向けに書かれたごくごくわかりやすい本になっている。最初から読んでいけばラカンについておおよそ理解できると思う。哲学や文学や社会学の基礎的知識があれば難しいところはどこにもない。
第一章「コンテクスト」はラカンの理論の位置づけをこころみている。精神分析になにをつけ加えたのか、フロイトをどう発展させたのか、西洋哲学にどう対峙しているのか、などの点が概略的に説明されている。
第二章「生涯」はラカンの生い立ちを年代的に追って紹介している。ラカンは考え方がしだいに変化していった、というか、力点の置き方が変わっていった人なので、時系列的に理論を整理するのはどうしても必要になる。
第三章「受容」はラカンの理論がどう受けとめられてきたかを解説している。ここはわたしもたいへん勉強になった。いちおうアンテナを立てて、重要な研究が出たら、少なくともレビューくらいは読むようにしているが、やはり素人だから漏れがたくさんある。それをこの章はたっぷりと補ってくれた。たとえば2021年にはシェルドン・ジョージという人が「トラウマと人種」という本を出しているそうだ。その内容は、人種差別は象徴的構造から生まれるのではなく、象徴的構造ではとらえられない現実界の領域から生まれている、それゆえ法律や教育的努力によっては人種差別を根絶できない、とするものらしい。この議論は今の日本にも適用可能だということが直感的にわかるので、今年中に読んでみようと思った。
第四章「概念」はラカン理論に登場するカギとなる概念(象徴的秩序、想像界、レアル、欲望、享楽、等々)を紹介している。この部分が本書の目玉といっていいだろう。最初に感想を言ってしまうと、非常によくできている。ラカンの「対象a」などという概念はまったく独特のもので、従来からある観念を別の言葉で焼き直すなどといったものではなく、それこそまったく新しくラカンが練り上げたものだが、この章を頭から順番に読んでいけば、大まかなところはちゃんとわかるだろう。また近年、イデオロギー分析においてラカンの議論が大きな役割を果たしているが、マガウアンはその点についても配慮しながら書いていると思う。たとえばこんな一節。
象徴秩序は主体に自分を位置づける虚構を差し出す。この虚構は現実のありようとは関係なくあらわれる。ある象徴的虚構が他の象徴的虚構にまさるのは、それが外の世界とよりよく呼応しているからではない。その虚構に取り込まれた者の精神状態により適合しているからである。
日本でも排外主義者が顕著になってきたが、彼らがまき散らす象徴的虚構は、現実と異なっている。だからデマと言われるのだが、しかし彼らがそれを信じ、自分を位置づける虚構として受け入れるのは、それが外的世界とよりよく呼応しているからではない。彼らがかかえる精神状態により適合しているからだ。だから事実との乖離を指摘するのはもちろん大事なのだが、それだけでは彼等の眼をさまさせることはできないのである。こんな具合にマガウアンはただ説明するのではなく、現在の世界的政治状況においてラカンの概念がどのような意義を持つのかという点もしっかり押さえながら書いている。
そして第五章はほんの数ページからなる「結論」である。
ラカン研究をわかりやすく総括した最新の本として、本書は推奨に値する。わかりやすさというのは問題もはらんでいるのだけれど、マガウアンはそれを理解しつつ、しかし知の前進のため、あるいは後代への知の継承のためには、ある種のまとめが必要なのだと、割り切ってやっている気配がある。なるほどそれはそれで一つの考え方だ。
マガウアンは YouTube のチャンネルでも本書に関した話をしているので、興味のある方はごらんいただきたい。(こちら)