Friday, January 23, 2026

ロバート・W・チェンバース「隠密作戦」

 


チェンバースといえば短篇「黄色い服を着た王」で有名だが、長編小説もかなり書いている。「隠密作戦」は1919年、第一次世界大戦の経験をもとに書かれたスパイ小説だ。この頃のスパイ小説は今と違ってロマンチックな冒険小説といった趣きを持っている。ル・キューやフィリップ・オッペンハイムといった、当時の人気作家もみなル・カレやグレアム・グリーンとはおよそかけはなれたロマンチックな物語を書いた。今読むとこうした作品はいかにも古びて見える。スパイ小説の古典とみなされているのは、チルダースの「砂州の謎」とかコンラッドの「密偵」といった、ロマン主義をできるかぎり排した書き方の小説である。

「隠密作戦」は、たまたまスイスとフランスの国境においてドイツ軍が企んでいるある作戦に気付いたスコットランド出身の男ケイと、アメリカの秘密情報局ではたらく美しい敏腕局員エリスがタッグを組み、ドイツのスパイに命を狙われるなか、ケイが見出したドイツ軍の作戦を挫折させようとする物語である。十九世紀的なロマンが二十世紀に入って読者に嫌われ出したのは、ひとつには物語を展開する仕掛けとして「偶然」があまりにも多用されたからである。最初のうちはこの偶然は意表をついて面白かったけれど、何度も繰り返されると鼻につくようになった。悪党に襲われていた女性を救ってみたら、じつは幼くして生き別れになった妹であった、とか、人が行かない山中の小屋で事件が起きたのに、じつはたまたま村人が通りかかり、その一部始終を見ていた、とか、そんな偶然がぞろぞろ出てくる。ある人は皮肉交じりに、十九世紀後半の小説においては双子の出生率がぐんと上がった、などと言っている。一見不可解な事件の謎が、双子の存在によって解明されるという話がずいぶん書かれたのである。「隠密作戦」も十九世紀的な伝統を引きずっていて、ケイとエリスの出会いは、絶対ありえないような偶然によって可能とされている。この種の展開にはわたしも食傷気味で、ちょっとうんざりした。作者自身もそれには自覚的だったのだろう。エリスが「こんなことってあるわけないわ!」と独りごちると、三人称の語り手は「しかしそういうことは実際あるのである」などと書いている。そんな強弁をしなければならないくらい、びっくりぎょうてんの二人の出会いである。

ただ第一次世界大戦を受けて、スパイ小説は変貌しなければならなくなったということは、この小説を読んでいて感じられた。このカタストロフィックな現実は、従来のロマンチックなナラティブにはなかったいくつかの要素を導入してしまった。たとえば近代的な兵器のとてつもない殺傷能力は、ロマンティックな語りの織物を切り裂くような効果を持っている。ケイとエリスが魚雷で攻撃される場面など、生ぬるい十九世紀的な叙述のなかに突然異分子が持ち込まれたような異様さを感じさせる。古い現実認識のもとに書かれた文章が、新しい風俗や現象を描こうとするとき、そこにある種の齟齬が生じるケースがままあるが、それがこの作品でも起きている。スイスの山中の牧歌的な風景が描かれたあとに、ケイとエリスがドイツの殺し屋に遭遇する場面でも、殺し屋が山から落下し、ぐしゃりと内蔵や脳漿をぶちまけるという描写は、不吉なくらい場違いな印象を与える。また、スパイのあいだの騙し・騙される関係、常に不信にさらされている心理状態は、勧善懲悪のような古い、安定的イデオロギーから生まれた文体で表現されるにはあまりにも向いていないような気がする。しかし最大の齟齬はエリスだろう。彼女は都会育ちのお嬢様である。暗号解読の仕事をしているだけで、とくに体力があるとは思えない。なのに男も無理だという冷たい湖を泳いで銃弾を取ってきたり、スイスの山中を歩き回り、あるいはスパイに追われて逃走するのである。とても近代的な武器を使用した銃撃戦に耐えられる存在ではないのだが、それがまるで妖精のように大活躍する描写には、さすがに当時の読者も違和感を覚えただろう。

こうした欠陥、失敗を克服すべく、作家は新しい現実を表現する文体を徐々に鍛え上げ、ついにはル・カレの作品のような、見事な構築物を生み出すに至ったわけだ。その間のモームやアンブラーなどの努力があらためてすばらしいものであったと認識させられた。

ロバート・W・チェンバース「隠密作戦」

  チェンバースといえば短篇「黄色い服を着た王」で有名だが、長編小説もかなり書いている。「隠密作戦」は1919年、第一次世界大戦の経験をもとに書かれたスパイ小説だ。この頃のスパイ小説は今と違ってロマンチックな冒険小説といった趣きを持っている。ル・キューやフィリップ・オッペンハイム...