Japan is not a people trying to express itself through a Government as we Atlantic peoples are, but a Government, a small ruling class, in effective possession of an obedience-loving people.
日本は大西洋の国の人々と違い、その国民は政府を通して自己を表現しようとしない。逆に少数の支配階級によってつくられる政府が実質上、従順に従うことを好む人々を支配している。
これは今でも変わらない。なぜ安倍政権がつづくのか。日本人は、「従え」と命令する首長を好むからだろう。それで生活が経済的に苦しくなろうが、関係ない。それどころか「苦しくても従う」というところにある種の快楽・享楽を見出しているのだ。このマゾヒスト的な快楽・享楽こそ日本的性格の根本にあるのではないか。
谷崎潤一郎が描くマゾヒスチックな快楽も、じつはこれと関連している。「春琴抄」において佐助は春琴に献身的につくす。春琴の暴力的なわがままにひたすら耐える。そして春琴がその美を失っても、みずから失明することにより、不都合な現実を見ないことにする。晩年の春琴はさすがに弱気になったようだが、佐助はそれを許さず、あくまで彼女を玉座につけ、自分はその前にかしずこうとする。これはマゾヒスチックな享楽を決して手放さなかった男の物語であり、日本人の本質に迫るという意味で傑作なのだと思う。
ただウエルズのようにこのような特質が「大西洋の国の人々」にないとはいえない。たとえばドイツはどうだろうか。ゲッベルスが国民にむかって「今まで味わったことのない苦難が強いられることになるが、きみたちはそれに耐えられるか」と言ったとき、国民は大歓呼して苦難を味わおうと答えたのである。
わたしはこれと同じことが近い将来日本に起きても驚かないし、現在それは起きていると考えてもいいのだと思う。誰もが日本の豊かさに関する政府の統計が嘘であることを知っている。そして今後生活はさらに苦しくなることを知っている。しかしほとんどの人はそれを喜んで受け入れようとしているのだ。政府は無言のうちにこういうメッセージを発している。「その通り、統計にあらわれた豊かさなんてまやかしだ。諸君は苦しい生活を送っている。しかしこれからはもっと苦しい生活になるだろう。きみたちはそれを迎え入れるか」国民はそれに対して言いしれぬ享楽を感じ、無言の内に歓呼しているのである。
ウエルズの本(Washington and the Riddle of Peace)はプロジェクト・グーテンバーグで読める。